第8話「合鍵」
それから更に数日後。
幸一の机の上には、勤務表のコピーが広がっていた。
赤ペンで丸をつけたのは、裕美の夜勤の日。青ペンは早番……など色で分けていく。
(旦那が残業で遅くなる曜日……裕美さんが夜勤の日……)
これまでの尾行や耳にした会話、SNSの情報や学校のホームページなど、様々な情報を断片的にメモに残し、組み合わせる。
「月曜:子ども帰宅16:00」「火曜:夫残業22:00」――ページが埋まるたび、胸が満たされる。
(……ここまでわかれば、準備はできる)
彼の頭の中で、もう“家のスケジュール”が完成しつつあった。
休日。幸一は住宅街を歩いていた。
裕美の家の前に立つことはせず、あくまで“通りすがり”を装う。
けれど、気づいてしまった。
――玄関横に、新しい防犯カメラ。
――門柱に取り付けられたセンサーライト。
(……気づいたか)
一瞬、心臓が強く跳ねる。だが次の瞬間、冷たい理性が押し返す。
(いや……避ければいいだけだ。死角はまだある)
そう思いながら、スマホに小さくメモを残した。
買い物帰り。
両手に袋を下げて玄関に立つ裕美は、バッグから鍵を取り出す手がもたついていた。
背中に視線を感じて振り返る――だが、路地は静まり返っている。
家に入ると、玄関の鍵を念入りに確認しながら夫に言う。
「補助鍵つけようかな」
「え、そこまでする必要ある? この辺、治安いいし」
夫は笑って受け流す。けれど裕美の心は笑えなかった。
ある日の夜。原付を公園に停め、裕美の家の近くまで歩いた。
街灯に照らされた白い門柱と「NODA」の表札。
ポストの位置、庭の植木、裏手に回る路地――頭の中で地図が完成していく。
(……今なら、いける)
足が一歩、門へと近づいた。だが、センサーライトが突然光る。
一瞬で身体が凍りつく。
「……っ」
誰もいないとわかっていても、引き返さざるを得なかった。
その背中に、奇妙な安堵と悔しさが同居していた。
(まだだ。次は、必ず……)
その同じ夜。裕美は寝室に入り、もう一度窓の鍵を確かめた。
カーテンを閉める手は、昨日よりもさらに震えている。
胸の奥で、言葉にならない直感が叫んでいた。
――“誰かが見ている”。
彼女は小さく息をつき、布団に潜り込んだ。
けれど瞼を閉じても、視線の気配は消えてくれなかった。
火曜の夜20時過ぎ。
閑静な住宅街はすでに静まり返り、街灯の下でさえ人影はなかった。
旦那の帰宅は22時過ぎで、裕美は今日は夜勤。
つまり家には子供が2人だけだ。
すでに何度もこのタイミングでの侵入を試みているものの、さすがにしっかり戸締りされていた。
幸一は原付を少し離れた場所に停め、徒歩でゆっくりと野田家へ近づいた。
白い門柱と表札「NODA」。
何度も見た光景だ。だが、今夜は違う。
(……入る)
心臓が、耳の奥で鳴り響いていた。
庭のフェンス脇。
以前の下見で見つけた「センサーライトと監視カメラの死角」
身をかがめてフェンスを乗り越えると、庭の芝の柔らかさが靴底に伝わる。
暗闇の中で、物干し竿がかすかに揺れていた。
その下を抜け、窓の前に立つ。
(……鍵は……)
震える指先で、ガラス戸の隙間を確かめる。
ほんの数ミリ――ロックがかかっていない。
(あ、開いてる……つ、ついに……)
一瞬、全身が熱に包まれる。
この瞬間、彼は「外」から「中」へと足を踏み入れたのだ。
リビングに入った途端、家の空気が変わった。
柔軟剤の香り、ソファに残る体温、壁に貼られた子どもの絵。
テレビ台には、家族写真が並んでいた。
「……」
幸一は、息を殺してそれを見つめた。
笑う裕美。隣に立つ夫。膝に座る子ども。
画面の向こうで見ていた「彼女の生活」が、いま目の前にあった。
(ここに……生きてるんだ。俺が、ずっと追いかけてきた人が)
廊下をゆっくり進む。
床板が軋むたびに全身が硬直する。
二階の寝室からは、小さな子どもの寝息が漏れていた。
――そのすぐ横で、裕美の気配がある。
もちろん夜勤中の彼女はここにはいないが、その温もりがたしかにここにある。
「……」
耳を澄ます。
規則正しい呼吸音。ときどき布団がこすれる音。
子供たちはぐっすり眠っているようだ。
(慌てるな。ただ、“ここにいた”ってことを知ればいいんだ)
そう言い聞かせながらも、指先は震えていた。
(そうだそうだ……)
幸一は忍び足で家の中を物色する。
(あったあった、ここだ)
彼は浴室前の脱衣かごを見つけ、手にしたらライトで照らしながら漁る。
子供用の服や下着の下に……あった。
洗濯前の裕美の下着だ……。
幸一の胸はドクンと高鳴り、それを持ってきた密閉袋に入れる。
(やった……。脱ぎたてとはいかないけど、夜勤で出勤する前にシャワーを浴びた時に取り換えたものだろう。……裕美さんの洗濯前の下着だ……)
満足げな笑みを浮かべながら、興奮したように鼻息を荒くする幸一。
(……さて、今日はそろそろ帰ろう)
そう思い、玄関に向かいかけたとき――ふと目に入った。
靴箱の横に取り付けられた、小さなロッカー。
半端に開いた扉の中に、見慣れないプラスチックケースが収まっている。
(これは……なんてツイてるんだ! 不用心だなぁ。こういうところ、旦那がしっかりすべきだろ……)
手に取ると――それは「鍵の保管ケース」だった。
中には、この家の合い鍵が数本並んでいる。
幸一は、しばらく躊躇した。
だが次の瞬間、一本をそっと取り出し、ポケットに滑り込ませた。
胸が爆発しそうなほど高鳴っている。
それでも、顔には冷たい笑みが浮かんでいた。
(これでもう、“いつでも入れる”んだ)
帰り際。
玄関の外に出た瞬間、夜風が全身を撫でた。
膝が笑っている。呼吸も荒い。
けれど胸の奥には、不思議な高揚感があった。
(やったんだ……俺は、野田さんの“家”に入った。しかも……)
センサーライトが遅れて灯り、彼の影を地面に落とした。
それでも彼は振り返らず、足早にその場を去った。
ポケットの中の鍵の重みが、彼に新たな力を与えていた。
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