20. 失った面影の闇の中で
正午を少し過ぎたころ、穂鷹はひとり村の入り口に戻ってきた。
稲波は所用があると告げ、葉鳥も赤籾回収準備のため、拠点に戻っていった。借りていた着物は、申の刻の果て(十六時頃)に村のはずれにある一本杉の下で返すことになっている。
遠くの畑では、かやたちが鍬を振るい土を返していた。そのそばで、真鴨と実羽が蜻蛉を追いかけて走り回っている。いつもと変わらない、穏やかな昼の光景。けれど、その平和な営みが、今の穂鷹にはひどく遠いものに感じられた。
(——家族を守りたいなら、赤喰いをやめて刈人隊に入れ)
奇跡のような話だ、と思う。刈人隊は、この国で選ばれた者だけが通れる狭き門だ。辺境の貧民に声が掛かることなど普通はありえない。これは死んだ父が繋いだ縁なのかもしれない、けれど——
「ただいま」
家に戻ると、鈴芽の姿はなかった。笠売り用の背負子がなくなっている。町に出ているのだろう。濡れた着物を脱ぎ、竈の前にしゃがむ。火打ち石で種火を落とし、細い薪に口を寄せて息を吹きかける。しばらくして、ようやく小さな炎が立ち上がった。
火が揺れ、ぱちぱちと乾いた音を立てる。穂鷹は脱いだ上着を火のそばに掛け、そのままじっと炎を見つめた。赤光が、染まった自分の指先を照らし出す。その異様な色を見つめ、自嘲気味に呟いた。
「人の手というより——」
その先を言葉にできなかった。こんなもの、とうの昔に気にならなくなったはずなのに。そっと、拳を握った。
身体が温まり、乾いた自分の着物に袖を通した。借りていた衣との生地の違いに、思わず苦笑が漏れる。けれど着慣れたものが、やはり一番身体に馴染む。目を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。土と炭の香り。染み付いた家の匂いに心が落ち着く。穂鷹は窓から陽の位置を確かめた。約束まで、まだ十分時間がある。
支度を整え、鎌を手に取る。日課の薪集めと食料探しのため、穂鷹は静かに山へ向かった。
***
山は、村の背を抱くように連なっている。長雨を吸った土はまだ湿り、踏みしめるたびに柔らかく沈んだ。山足袋の底についた泥を足首を軽く振って払いながら、奥へと進む。乾いた薪を拾い、山菜を摘み、獣の気配を探る。
父が生きていたころは、日のほとんどをこうして山で過ごしていた。
大きなどんぐりを両手いっぱいに拾って見せると、父は必ず頭を撫でてくれた。川で初めて魚を獲った日もそうだった。
どんぐりで独楽を作り、川べりで火を焚き、焼けた魚を分け合って食べた。熱くてうまくて、泣きそうなほど嬉しかったことだけは、はっきりと覚えている。
姿を見失って泣いたこともあった。頭上で枝がきしむ音がしたかと思うと、逆さまにぶら下がった父が「わっ」と声を上げて現れる。驚いて尻もちをついた自分を見て、彼は腹を抱えて笑った。悔しさのままに拳を振ると、それを軽く受け止めながら「ごめん、ごめん」と微笑んだ。
それはきっと、本来なら自分のあとに真鴨と実羽がもらえるはずだった幸福の時間だ。その全部を、自分が奪った。ふたりは、あの人の愛情をほとんど知らない。母も姉も、より苦労を背負うことになった。父が死ななければ、母はあんなふうに死ぬことはなかったかもしれない。
穂鷹は父が死んだあの日から、父の顔が一切思い出せなくなっていた。
許されたくない。誰も自分を、許さないでほしい。たとえ赤米を喰い続けることが、死に近付いていくことだとしても。この村で自分に果たせる役目を、十分に努めてから死にたい。
森は昼を過ぎても薄暗く、水気を含んだ空気が肌を冷やす。長雨を吸った木々は黒ずみ、幹のあいだから細い
ふいに、耳を打つ響き。
葉擦れかと思ったが、すぐにそれが滝の水音だと分かった。気付けば、いつもの道から外れていた。ぼんやりと記憶を辿るうちに、足が勝手に踏み込んでいたらしい。
——ここは、知っている。
水音が近づくほどに、胸の奥がざわついた。父が自分を庇って倒れた場所だった。
あれ以来、一度も近づかなかった。穂鷹は思わず後ずさり、来た道を振り返る。鼓動が荒くなり、冷や汗が額に滲む。込み上げる吐き気に口を押さえた、その瞬間。
——穂鷹。この国を守る、隊士になってくれ
あのときの声が、ふたたび耳の奥で蘇った。喉が震え、嗚咽がこぼれそうになる。
父が最期に自分に望んだのは、隊士となって国を守ること。どうして。どうして「家族を守れ」じゃなかったのか。その言葉だったなら、こんなに惑うこともなかった。国なんて、自分たちよりずっとずっと豊かじゃないか。刈人隊だって、自分なんかよりはるかに強くて優秀なのに。
父が大好きだった。
でも、今は同じくらい父のことが分からなくて苦しい。
穂鷹は拳で目元を荒く拭うと、踵を返し、その場を駆け出した。
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