揺蕩う暗がりの中で、穂鷹はかつての記憶を白昼夢のように滲ませていた。

――いい加減にして！ 鈴芽が死にかけたのに、次は穂鷹？ あなた少しおかしいわよ！

悲鳴のような、母の怒声。

背を向け黙々と鎌の手入れをする父。

父の前には、見上げるほどの赤穂成の死骸が積まれている。

『穂鷹、食べるんだ』

父の手が顎を掴み、鈍く光る赤い石を無理やり口に押し込んでくる。

これは、赤米じゃない。

父さん、こんなもの、喰えない。

苦しい、苦しい。

嗚咽とともに嘔吐が返る。

父の姿が歪み、景色は山の中へと移る。

震える手に鎌を握る、十歳の自分。

バチンッ！！

父に頬を叩かれ、痛みが走る。

『目を逸らすな。ちゃんと動きを追え』

父が赤穂成と戦う姿を見つめる。強い恐怖の中、胸の奥に高揚と憧れが灯る。

――父さんみたいに、強くなりたい。

十三歳。赤米を食べ、父と赤穂成を刈る日々。

慣れが、油断を連れてくる。倒したと思った赤穂成に虚をつかれ、父に身を挺して庇われた。

血に濡れる父の唇が、震えながら何かを告げている。

――穂鷹、この国を……

助けを叫ぼうとするが、声は出ない。

――ゴホッ！！

　肺を裂くような咳とともに、身体の重みが一気に戻り、現実に引き戻された。川水が喉を荒らし、胸が苦しさに軋む。身をよじって咳き込む最中、誰かにがしりと衿元を掴まれた。視界の端に差し込む光の中、顔を寄せて覗き込む白銀髪の女がにじんで見える。

「お前、『赤喰い』してるな？」

　その声色と言葉に意識が覚醒する。

　穂鷹は衿を掴む手を払い、外に身を返して相手との距離を取った。腰に回した手が宙を掻く。――鎌がない。

（そうか、あの時川に落ちて……銀穂成は、倒されたのか？）

　腰の短刀へと手を添え、姿勢を低く構える。

状況を探る穂鷹の目前で、女は地面から大鉈を拾い上げて鞘を外した。銀の大鉈は細かく光を跳ね返し、地面に威圧の影を落とす。

「まさか、本当にやってる奴がいるとはな。来い、御法度野郎。稲波が来る前に片づけてやる」

　場の空気が一瞬にして凍りつく。穂鷹がじり、と足を踏み込み間合いを計ろうとしたその時――。

「蕾鹿隊長、待ってください！　まずは身元の確認を」

「そうです、救命直後に即斬首なんて虚しすぎます！　処遇は前例なし、稲波さんに指示を仰ぎましょう」

　男女二人の隊士が、慌てて割って入ってきた。蕾鹿は舌打ちをして顔を背け、射るような瞳で二人を睨み据える。

「現場の判断責任は今は私にある。赤喰いはここで処す。いいな」

　その言葉に背の高い男が腕を組み、首をかしげた。

「てか、赤喰いってなんだ？」

「赤喰いってのはね、赤米を食べる行為のことだよ」

　柔らかく割り込む声に、全員の動きが止まった。

「護穀は隊士規定、ちゃんと読んどいてね」

　男女の隊士の足元に、いつの間にか壮年の男が頬杖をついてしゃがみ込んでいた。

「し、支部隊長！　え、いつの間に！？　怖ッ！　さすがに早すぎません？」

　男が目を見開き、女と顔を見合わせてたじろぐ。

支部隊長――稲波は、肩についた落ち葉をはたきながら軽く手を上げた。

「さっき着いたとこ。二十年もやってると、いろんな抜け道を覚えるもんだよ。ね、イシ乃」

　傍らに控える走駒・イシ乃がクゥンと鼻を鳴らす。体には無数の葉や小枝が絡まっており、その抜け道がどれだけ荒れた獣道だったかを物語っていた。

「ヨッコラセ」

　掛け声とともにのんびり立ち上がった稲波は、まるで散歩の途中にでも立ち寄ったかのような、ゆるやかな気配を纏っていた。無造作に流した黒髪に、年齢を感じさせない穏やかな顔つき。彼の雰囲気に飲まれ、張り詰めた場の緊張が緩やかに解けていく。

「血の気が多くてごめんねぇ。とりあえず、冷えて寒いだろうから着替えだね。秋月、先に戻っていいよ。葉鳥は米の回収を頼む。他の隊員たちも、もう着くはずだよ」

「稲波さぁん」

　秋月が感涙まじりの声を漏らし、葉鳥もほっと胸を撫で下ろす。稲波は軽く手を振って二人を見送ると、蕾鹿に向き直って呆れたように首をかしげた。

「蕾鹿。ちゃんと配慮しなさいっていつも言ってるでしょ」

「おい、コイツ赤喰いだぞ。赤喰いは即時処断なんじゃねーのか」

　蕾鹿が納得いかない様子で詰め寄る。

「いやぁ、一応隊士規定にはあるけど、古い内容だし僕も実際初めて見たんだよね。しかもこの子、刈人じゃないからなぁ。一旦持ち帰り、ってことで」

　そう言って、稲波はゆっくりと穂鷹のもとへ歩みを進める。

　穂鷹は構えを崩さず、静かに短刀を抜いた。焦点を一点に絞りながら、じり、と後退する。だが、間合いを取るよりも早く稲波の手がそっと差し出された。

　その瞬間――

　短刀は穂鷹の手からするりと抜け落ち、稲波がそれを空中で掬い取った。

「！？」

　何が起きたのか分からず、穂鷹は呆然と稲波の手に渡った短刀を見つめる。

「おっと、ごめん。ちょっと借りただけ。ね、大丈夫。何もしないよ」

　稲波は短刀を後ろ手に隠し、旧知の子どもでもあやすかのように優しく微笑んだ。敵意も威圧もないその様子に、逆らう力が削がれていく。親しみを覚えるような感覚の中で、得体の知れない恐怖が腹の底から沸き上がった。

（なんだ、これ）

　気づけば、冷や汗が伝っていた。

「君、名前は？」

「……穂鷹」

「そうか。僕は稲波。ちょっとあっちで話、聞かせてよ。」