第6章 「いい子」の一言に、私は女として堕ちていく
「いい子」の一言に、女として堕ちていく私。
付箋に書かれていた「17時、少しだけ」。
その言葉どおり、終業のベルが鳴る少し前、私は指定された会議室へ向かった。
窓のブラインドは半分だけ下ろされ、冬の斜陽がテーブルの角を細く照らしている。
ドアが閉まる音。
振り向くと、美咲さんがいた。ジャケットを脱ぎ、シャツの第一ボタンを外している。
それだけで、部屋の空気が変わった。
「来たわね」
ただそれだけの挨拶なのに、足元がふらつく。
彼女は私の前に来ると、喉元を一瞥し、紙コップの水を差し出した。
「飲んで。からだが乾くと、思考が鈍るから」
言われるより半拍早く、私はコップを受け取り、一口含んでいた。
冷たい水が、熱を帯びた身体の内側をゆっくり下降していく。
コップを戻す私の指に、彼女の指が重なる。
わずかな触れ合いで、胸の奥に火花が散った。
「昨日の夜は、守れた?」
小さな声。逃げ場のない距離。
私は頷いた。
「いい子」
耳元に落ちたその一言で、背骨の奥が震える。
褒められたい衝動が、理性より先に反応してしまう。
「今日は長くは取れないの。外に出ましょう」
彼女はジャケットを手に取り、先にドアを押し開けた。
社内の空気に戻ると、世界が急に平板になる。
廊下ですれ違う同僚たちは誰もこちらを見ない。
エレベーターの鏡に映る自分の頬は、わずかに紅潮していた。私は視線を落とした。
――
タクシーのドアが吸い込むように閉まる。
行き先を告げる彼女の声は低く落ち着いていて、私の脈拍だけが高く浮いている。
窓の外の街灯が流れ、信号待ちで車体が止まるたび、彼女の指がさりげなく私の手を探す。
そのたびに、世界の輪郭がやわらいでいった。
「深呼吸」
言葉より先に、肺の底まで吸い、背中で吐く。
彼女の香りが、肺の奥まで薄く広がる。
――
小ぶりなシティホテル。
フロントの照明は柔らかく、エレベーターの中は誰もいない。
扉が閉じ切る直前、彼女は私の手首を軽く持ち上げた。脈を確かめるみたいに。
「少し早い。落ち着いて」
頷くと、指がほどけ、代わりに腰へ回ってきた。
そこにあるはずの骨の形が、指先の動きで初めて触覚として立ち上がる。
数字が進み、扉が開く。
長い廊下の奥、どこにでもあるようなドアの前で、彼女は一度だけ私を見た。
「帰りたくなったら、すぐ言って」
首を振る。
鍵が回る音。静かな室内に、カーテン越しの街の明かりが滲んでいた。
――
ドアが閉まると同時に、背中が柔らかい壁に押される。
驚く暇もなく、唇が重なった。
昨日より長い。昨日より深い。
息が混ざり、胸の中心で細い糸が張り、切れる寸前で揺れている。
「目を閉じて」
言葉に従う。
視界から世界が消えると、彼女の指先だけが世界になる。
頬の輪郭、耳の縁、うなじの産毛。触れられて初めて、そこに自分の形があることを知る。
「忘れて。全部」
「……はい」
自分の声が、誰かの声みたいに小さく響く。
肩からジャケットが滑り落ち、ボタンが一つ外れるたび、胸の奥の糸が少しずつ緩んでいく。
彼女は急がない。命令だけが速い。
「深呼吸」
「力を抜いて」
「肩じゃなくて、背中で息をして」
指示されるたび、私は自分の身体の持ち主を手放していく。
支配されることが、どうしてこんなにも安堵を連れてくるのだろう。
まるで、意思こそが重荷だったみたいに。
「旦那の名前は、ここでは禁句」
「……はい」
「代わりに、私の名前を呼んで」
「……みさきさん」
呼ぶたびに、彼女の呼吸が近づく。
呼ぶたびに、部屋の温度が上がる。
呼ぶたびに、私は「妻」から遠ざかっていく。
「いい子」
その声が、胸の真ん中に落ちた。
その一言を受け取るために、ここに来たのだと思うほど、全身が静かになる。
窓の向こうの街は、誰の物語も知らない顔で光っていた。
カーテンの隙間に指を差し入れ、彼女は外の光を少しだけ遮る。
「今だけは、ここが世界の全部」
頷いた瞬間、抱き寄せられる。
体温と脈拍がひとつの拍に重なった。
声が漏れそうになる。
その声を、彼女の肩に埋めて飲み込んだ。
――
帰りのタクシー。
窓に額を寄せると、外は雨。
ガラスに細い線がいくつも走り、ワイパーが往復するたび、街の灯りが滲む。
指先にはまだ、彼女の温度が残っていた。
スマホが震える。
「水を飲んで。湯船は短く」
短い指示。
私は画面を見るより先に、喉がごくりと鳴るのを感じた。
「はい」と返す。
たった二文字で、胸の奥が再び熱を持つ。
命令は鎖ではなく合鍵。
私の中へ、彼女が迷わず入ってこられるように。
――
家に着くと、リビングの灯りがやさしく点っていた。
玄関で靴を脱ぐと、直樹が顔を出す。
「おかえり」
その声に、一瞬、息が詰まる。
「ただいま」
笑顔の作り方を、少し忘れかけていた。
「雨、降ってきた?」
「うん。少し」
「タオル、持ってくる」
直樹は乾いたタオルを差し出す。
受け取る指先に、別の記憶が重なり、タオルが重く感じた。
「ご飯、温めようか」
「ううん、軽くでいい。シャワー、先に浴びるね」
浴室の扉を閉め、水の音で耳を満たす。
鏡が曇り、蒸気が肌の表面の温度を変える。
彼女の指の跡は肌から消える。
けれど、内側の温度は消えない。
――
ソファに座る直樹の横で、生姜湯を受け取る。
「温まるから」
「ありがとう」
舌にやさしい辛さが広がる。
直樹が覗き込むように言った。
「週末、やっぱりさ……」
「うん、話そう」
自分の声が、遠くから響く。
ここにいるのに、少し離れた場所から。
寝室に入る前、スマホが震えた。
「よくできました」
今日二度目のその言葉に、目の奥が熱くなる。
返事は打たない。
それでも胸の中心が、静かに頷いているのを感じた。
ベッドに横になり、背を向ける。
シーツの冷たさ。直樹の気配。
二人の間に、定規で引いたみたいに真っ直ぐな空白。
その向こうで、私のもう一つの呼吸が、ゆっくりと沈んでいく。
消灯後、見えない天井に問いを投げた。
――私はどこまでが私で、どこからが“彼女のもの”なのだろう。
答えは落ちてこない。
代わりに、耳の奥でやさしい命令が繰り返される。
忘れて。深呼吸。水を飲んで。休みなさい。
その指示に従うたび、私は安心する。
安心しながら、少しずつ沈んでいく。
底の方へ。
彼女の声が届く場所へ。
そして、戻り道の看板がひとつ、またひとつ、暗くなっていくのを、はっきりと感じていた。
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【あとがき】
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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【共通タグ】
禁断/背徳/百合/依存/秘密/官能ロマンス
【話別タグ】
褒め言葉の支配/ホテル/従属の快楽
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