5.全てが手に入った日、全てが壊れた日
あらかたストレッチを終え、郁瀬と朱俐を含め部員がエンドライン付近に集まった。
「じゃあ、早川君と郁瀬はとりあえず俺たちに合わせて動いて。二年は一番後ろで一年サポートしてあげて」
二年生の三人は「了解でーす」と足首を回したりして、ランニングの準備をしながら答えた。
「ランニング!」
「はいっ!」
先輩の掛け声で一気に空気が締まり、いよいよ高校バレー生活が始まった。
ランニング、ストレッチ、ボールを使った基礎練習からパス練習までをこなし、三十分ほど経ったところで給水になった。四月にしては暑い日で、まだ練習が始まって間もないのに、郁瀬の水筒は空になってしまった。
「先輩、自販機に飲み物買いに行ってもいいですか?」
「いいよ。次サーブだから急げ」
「はい、ありがとうございます」
少しでも練習したい郁瀬は、走って自販機へ向かった。そんな様子を、寛斗と航生はテーピングを巻き直しながら眺めていた。
「あいつ、めちゃくちゃやる気ありますね」
「ははは。でも、なんか懐かしいな。去年のお前を見てるみたいだよ」
「そうっすか……」
航生は照れくさくなって後ろ髪を撫でた。郁瀬が体育館に入ってきたときから、どこか懐かしさを覚えていたのは、それが理由だったと航生は知って、ますますこれからに期待を抱いた、
体育館を走って飛び出た郁瀬は、渡り廊下に向かうと、自販機の前で一人うろうろしている人がいた。
「どうかしましたか?」
郁瀬が思い切って声をかけると、彼は驚いて大きく後退りした。彼の手には部活動案内の手紙がある。「それ持ってるってことは同級生か。名前は?」
「......え、っと、早田晴」
「早田晴......待って、その名前どこかで聞いたような......」
郁瀬は今日の記憶を遡った。家を出てから湊と莉奈に会って......なかなか答えにたどり着けそうにない郁瀬を見兼ねて、彼から切り出した。
「......同じ八組で、その......風上君でしょ?」
郁瀬は驚いた。初日にして顔と名前を一致させているとは、大したもんだ。
「すげえな、俺なんて顔と名前一致させるどころか、まだ名前すら覚えてないや」
「だって、ホームルームに終わった途端に、教室飛び出していったの一人だけだったから」
そう言って、晴はふわっと笑った。口調や雰囲気が優しくて、郁瀬とは違って大人しさが漂っていた。
「それで、なんか部活でも探してるの? もしかして、バレー?」
ニヤリとした郁瀬に威圧感を感じた晴は、安易に勧誘されないようにと、全力で首を横に振った。
「いやいや......バレーは厳しいかな。そもそも中学の時文化部だったし......」
その時、郁瀬は晴の後ろに筆が落ちているのに気づいた。
「これもしかして晴の筆?」
「あ、ありがとう。さっき驚いて落としちゃったみたい」
郁瀬は、今になってやっと先ほどから圧が強いことに気づいて、少々反省した。
「そうか。ってことは美術部?」
「うん、中学の時はそうだったけど、高校でも続けるか迷ってて......。ってか、さっき急いでたように見えたけど、時間大丈夫?」
「あっ、やべえ。じゃ俺行くわ」
晴の言葉で時間がないことを思い出した郁瀬は、自販機で水を一つ買い、走り出した。
「また教室でな!」
「お、おう。練習頑張れ」
郁瀬は右手を挙げて応え、体育館へと戻って行った。晴はしばらく、郁瀬が走っていった体育館を眺めた。シューズの擦れる音とボールを打つ重低音の響きが聞こえてくる。
「......バレーかあ......」
郁瀬に拾ってもらった筆をひとつ握りしめ、晴は昇降口へと歩き出した。
サーブ練習を終え、二段トスの練習、レセプション、スリーメンなどたくさんの練習をこなしていく。公立校の場合、大抵はひとつの体育館をバレー部以外にもバスケ部やバドミントン部、体操部などが交代で使う。市立中央高校もその通りで、私立のように専用の体育館があるわけではないので時間は無限ではない。その分濃い練習をしていて、中学の時よりも充実感が大きい。寛斗が言っていた、バレーの楽しさを忘れないチーム作りとその自信は、練習を通して郁瀬も十分に納得していた。
「じゃあ、次スパイクな」
「部長、一年どうします?」
「二人ともウィングやってたらしいから、そのまま入れちゃって大丈夫だろ。二人とも行けるか?」
二人は寛斗の期待に応えるべく大きく頷いた。すると、航生が二人の方へと駆け寄ってきた。
「じゃあ最初下打ち二周して、Aクイック三周、それからオープンとかコンビとか好きなの入っていいよ。セッターの近藤先輩なら何でも上げられるから」
航生はふざけた笑顔であ・る・先輩に目線を向けた。その視線の先にいた三年生の先輩は、直上パスで手を慣らしている。その先輩は、こちらを見ては困り顔で言った。
「おい、お前無茶言うなって。初日からハードル上げすぎだよ......まったく」
二人のやり取りを見て、郁瀬は何となく仲の良さそうな人達だなと思った。
「スパイク―!」
「はいっ!」
郁瀬と朱俐、どちらにとっても久しぶりのスパイク練習。ブランクはあるけど、楽しみな気持ちであっという間に心配は埋まった。
まずはネットの下でボールを床に叩きつける「下打ち練習」。そこで、インパクトの時のミートの感覚と、手首のスナップでドライブをかける感覚を確認する。
「久しぶりだな。この感じ」
「ああ、でもすぐに感覚を戻さなとな」
「そうだな」
それから、クイックの練習。二列に分かれて、全員がクイックに入る。普段クイックを打つことは滅多にないアウトサイドヒッターやオポジットもクイックに入るのには意味がある。この練習はただのクイック練習だけではなく、実際にネットの上からどこへ打ち込むか判断する訓練も兼ねていて、スパイクの基礎練習になる。いよいよ郁瀬たちは、先輩たちが実際に飛んで打つ姿を見ることになる。そう思うと、郁瀬は高まる気持ちを一層募らせた。
まず先陣を切るのは寛斗。郁瀬にとっては三年ぶりの先輩のスパイクだ。そう思った次の瞬間、郁瀬は周りの時間が止まったように感じた。完璧に計算されたトスにファーストテンポで飛び込む。振り上げた手からボールが放たれ、狙った一点を無駄なく打ちぬいた。もちろん、中学の時よりもネットが高いし、中学時代の寛斗が公式戦でクイックを打っていたところを郁瀬は見たことがなかった。徹頭徹尾洗練された美しいスパイクに圧倒され、郁瀬も朱俐も息を呑んだ。それと同時に、インスパイアされた心が今にも動き出そうとしている。
すると、拾ったボールをマネージャーに渡して、寛斗が郁瀬に近寄って、肩に手を置いて一言告げた。
「めいいっぱい、見せてやれ」
その言葉が、郁瀬の心を最高潮に至らせた。その燃え滾る眼で、祐飛と目を合わせる。初めてのセットアップだが、その刹那で意思は繋がった。その眼に応えた祐飛の眼が不思議と全てを受け入れてくれるような感じがして、郁瀬は安心して助走に入った。歩調を早め、左足、右足、そして左足を踏み込んで両足で力強く地を蹴り、空の世界へ飛び込んだ。
「この感覚......」
時はゆっくり流れ、呼んだ場所にボールがある。そしてそれに向かって羽を広げて会いに行く......。
あの時と同じだ。選ばれし者が与えられる景色を見て、全てを手に入れた気がした日。......そして、全てが壊れた日。
次の瞬間、郁瀬の目の前は暗闇で覆われた。
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