松山 葉一 1

ポカポカのひだまり。


風も無く寒さは感じないが、空気はまだ冷たい。


子供のころに住んでいた、雇用促進事業団住宅こようそくしんじぎょうだんじゅうたくの4階建ての建物が、深く掘られた利根運河とねうんがの土手の向こう側に見えている。


土手の上には、そこから左に桜の木が並んで立つが、まだつぼみは開かない。


桜は冬の間、樹皮が段々と桜色に染まっていく。


幹の芯から外に向かって、沸き立つように染まっていく。


小学生の時、校内の写生大会で、桜の木の色をほんのりピンクに塗ってみたことがあった。


 「お前にはそう見えているのか?」と、当時の担任には言われたが、今思うとあれはとがめられたのではなかったのかもしれない。


大人になってから、草木染では桜色を出すとき、桜の花ではなく木の皮や枝を煮出すと知った。


・・・やっぱり・・・と思った。


桜の後ろは東京理科大学理工学部とうきょうりかだいがくりこうがくぶの敷地で、取り壊されたはずの古い校舎が立っている。


向こう側の土手が南向きなので、こちら側は自分がいる土手の上だけが温かい。


このあたりは土地が高く、土手の背には斜面はない。


そのまま住宅街が広がっている。


下を見ると日の当たらない斜面に、春の雪と枯れたあしやススキが、倒れずに残っていて寒々しい。


丸太を模したコンクリートのベンチには、隣に入社当時の咲子が座っている。


川下に目をやると、鉄橋の上を朱色と肌色のツートン、東武野田線とうぶのだせんの電車が、4両編成で柏方面に走っていく。


ガチャンという連結器が接触する音が、掘られた深い土手の中で、劇場のように響いてここまで聞こえる。


鉄橋を渡ってすぐのところに運河駅うんがえきがあるので、列車は前かがみになりながらスピードを落としていく。


咲子の手を取り立ち上がろうとするが、その手が冷たくて、長く待たせてしまったのかと申し訳の無い気分になり、握る手に力を入れる。


子供のように、ただ守らなければならない者の愛おしい手だ。


土手のふちの踏まれた枯草のなかに、クローバーの葉が起きかかっているところを、咲子の手を取り鉄橋のほうに向かって歩き始めた。


枯草の上をゆくふかふかとした感じと、乾いた埃っぽい匂い、それにわずかな青い匂いが混じっている。


早春の匂いだ。


歩いていると自分の体重が、いつものように感じられないのに気付く。


土手の斜面に向かってポーンと飛び出すと、着地することなく高さを保ったまま、どこまでも飛んでいく。


陰になり湿った葦の上を過ぎ、決してきれいではない川の水の流れを超え、それでも少しずつ下がっていっているようで、南側を向いた反対側の土手の、中段辺りに通った砂利道に着地した。


振り返ると咲子は、5メートルほど後ろをついてきていて、両手を広げてこちらに飛び込んでくる。


抱きしめると、失ったものへのいたたまれない感情が込み上げてきて、たまらなくなった。


この時には、これが夢の中の事なんだということは分かっていた。


夢の中での空の飛び方はいろいろだと思うが、私の場合は羽ばたいたりせずに、グライダーのように自然に飛ぶ感じだ。


曲がったり止まったりするときは、そうなるように何となく身体に力を入れる。


ただそのコントロールは正確ではなく、曲がり切れなくて建物の壁にぶつかったり、失速して地面に膝をこすったりする。


スーパーマンのように高速で飛ぶことはできなくて、自分自身で出せるスピードという感じ。


走ったり跳んだりする時の動きが限界だ。


非力なエンジンの軽い車で、峠道をトコトコ何処までも走っていくイメージ。


そんなだから上昇していくのは難しい。


一生懸命あがれーあがれーと念じて工夫して、やっとゆっくり上がっていく。


鉄橋の上を今度は、反対の春日部方面かすかべほうめんに向けて東武電車が走っていく。


単線なので運河駅で交換したのだろう。


すぐ横を飛んで中を見るが、乗客はまばらだ。


こちらに気づく人間もいるが、特に驚いた顔をする者もいない。


4両編成の4両目、車掌が斜め前方を見て面白くもない顔をしている一番後ろの窓の、すぐ前の扉。


学生服を着た男の子が、窓に貼られた広告の透明なステッカーの脇からこちらを見て、何やら叫びながら両手の平をいっぱいに広げて扉を叩いている。


・・・どこで行き会ったのだろう知った顔だ・・・


男の子の必死さに対してそんなことしか思わなかったことに、はぐらかされたような違和感を覚える。


二人は手をつないでゆっくりゆっくり、トンビが上がっていく時のように、ゆっくり輪を描きながら上昇していった。


距離が開くと関係性は薄れる。


匂いがしなくなり、音が届かなくなり、やがて見えなくなる。


下に見える地上は、もはや自分とは関わりの無いものとなり客観している。


人と人もそうだ、遠く離れて関係を保つのは難しい。


心地よい圧迫感と共に急に温度が上がって、空という空間にふんわり包まれたような安心感が生まれる。


いつの間にか自分も咲子も上半身はそのままで、下半身は何も身に着けない状態になっていた。


咲子は、ほんの2メートルほど先を飛びながら、こちらをじっと見つめる。


咲子の部分は、ぴったりと合わさりほころびもなく、足が動くにつれ見え隠れしている。


自分のものは、ほかの生き物のように大きめの揺れで上下していて、そのたびに腹の皮が吊れる。


切なさがこみあげてきて咲子の左足を掴むと、両手で抱えて自分のものを近づけていった。


それが勝手に探り当てたように、ぴったりとしたものを押し開いて、後は若干の抵抗を感じながら吸い込まれるように入っていく。


咲子は顔を向こうに向けて足を閉じようとするが、構わず出し入れを繰り返す。


すぐ目の前の高圧電線が、ブーンと振動して音を出した。


地上と違い上空は、強い風が吹いている。


その風に乗って何処からか、警鐘が聴こえる。

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