祇園精舎の鐘

西季幽司

プロローグ

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

 おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし。

 猛き者も遂には滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ・・・・・・


 田園に屹立して建つ洋館で、殺人事件が発生した。

 殺害されたのは、洋館の主、辻晴彦つじはるひこ、六十二歳。発見者は一人息子の勇太ゆうただった。

 洋館の客間で、頭から血を流して倒れている晴彦を勇太が発見した。勇太は既に独立し、家を出ている。横浜市内にある眼鏡屋に勤務している。たまたま実家に泊まりに来ていて、事件に遭遇した。

 晴彦の死因は脳挫傷。客間にあった灰皿から血痕が見つかっており、鑑定の結果、凶器と断定された。以前、晴彦は煙草を吸わなかったが、最近、たまに煙草を嗜んでいたようだ。客間にはガラス製の立派な灰皿が置かれてあった。

 犯人はこの灰皿で晴彦を殴りつけて殺害していた。客間の絨毯の上には、晴彦が吸ったと思われる煙草の灰と吸い殻が散らばっていた。

 死亡推定時刻は、昨夜の七時から九時の間、遺体に動かされた形跡はなく、晴彦は客間で殺害されたものと見られた。

 二階にいた勇太は、翌朝まで晴彦が客間で殺されていることに気が付かなかった。

 勇太の証言では、「何時も朝の早い父が、何時まで経っても起きて来ませんでした。寝室に様子を見に行ったのですが、姿がありません。こんな朝早くから、出かけるなんて変だと、屋敷を探し回ると、客間で冷たくなった父の遺体を発見しました」とのことだった。

 慌てて救急車を呼んだが、既に手の施しようがなく、駆けつけた救急隊員は事件性があるものと判断して、遺体には手を付けずに警察の到着を待った。

 前夜の様子を聞かれた勇太はこう言った。「夕食後に、『今から来客があるが、お前は顔を出すな』と父に言われました。私は二階の部屋に行きました。世捨て人同然の父に来客があるとは珍しいと思いましたが、父の言いつけを守り、朝まで部屋にいました」

 客間は指紋が拭き取られていて、凶器の灰皿は勿論、テーブルやドアノブから来客のものと思われる指紋は見つからなかった。だが、屋敷を尋ねて来た時につけたのであろう、玄関の外側の呼び鈴を拭き忘れたようで、来客のものと思われる指紋が残っていた。残念ながら部分指紋しか採取出来ず、来客の身元を特定することは出来なかった。

 犯人は車に乗ってやって来たようだった。

 国道から辻家までの道路を詳しく調べたところ、辻家への私道の曲がり角の路肩に、土がむき出しになっている場所があった。ここに僅かだが、タイヤ痕が見られた。

 一代の風雲児であった晴彦の死は、瞬く間に世間に広まった。

 辻晴彦は地元で名の通った人物だった。

「辻製作所」

 晴彦が経営していた会社の名前だ。辻製作所は産業用ロボットの駆動用モーターを設計、製造する会社として業界内で高いシェア率を誇る優良企業だった。

 被害者は父親から受け継いだ小さな町工場を、一代で、何百人も従業員を抱える会社へと育て上げた。並大抵の苦労ではなかっただろう。だが、現在、辻製作所は大手電機メーカーの吉村電機に吸収、合併され、吉村電機の工場のひとつとなっている。

 二年程前に、晴彦は突然、所有していた会社の株式を、吉村電機に譲渡した。

 吉村電機は辻製作所の最大の顧客であり、以前より吉村電機からは資本提携の話があったと言う噂だった。

 業界の関係者によると、晴彦は吉村電機からの資本提携の話を断り続けていたらしい。それが突然、破格の条件で、持ち株を全て吉村電機に譲り渡すと言い出した。そして、辻製作所を吉村電機に売り払った。

 晴彦の心境が突然、変化するようなことが、あったのだ。

 丁度、その頃、晴彦は妻を病気で亡くしている。そのことが原因だったのだろうと周囲では噂した。だが、親しい人間は、「そんなことはない」と漏らした。何故なら、晴彦は決して、愛妻家では無かったからだ。

 晴彦は仕事一筋の人間で家庭を顧みないような人物だった。妻とは不仲だったし、息子の勇太とも険悪な関係だった。

 妻の死で辻製作所の経営に興味を失い、会社を売り払ったとは考えられないと言うのだ。

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