第6話 中編――最後の挑戦状

あらすじ


「C」から届いた封書は、過去五つの事件が一本の線で繋がっていることを示唆した。

ヴァンスと語り手カーターは、配達時刻の矛盾、封蝋の意匠、筆跡と紙質を起点に徹底調査を開始する。

誰が、いつ、どのように成りすまして手紙を届けたのか――。

時刻表と嗅覚と癖、そして“入門編の全ピース”が、ここで一つの像を結びかける。



1 霧と鐘のあいだで


昼下がりの霧は薄く、街並みの輪郭を和紙の裏から覗くように柔らげていた。

我々の事務所の壁時計が二度、低く鳴る。

ヴァンスは封書を封筒ごと透明な袋に収め、懐にしまった。


「まずは配達の矛盾だ、カーター君。記録では午後五時。だが通りの監視員は六時十分に配達人の影を見た、と証言している」

「一時間以上のずれ……記録の誤記か、あるいは故意の改竄か」

「もう一つある。郵便支局の押印は十六時四十二分。我々の事務所まで徒歩で十八分。単純に足し算すれば五時前に着くはずだ」

「なら、五時の記録は合う?」

「合ってしまうのが、逆に気になる」ヴァンスの目が笑った。「合いすぎるのは、不自然だ」


我々は外套を羽織り、ガス灯の並ぶ通りへ出た。

霧は軽く、鼻の奥に微かな錆の匂い――海風に混じる湿った金属の気配。私は軍医時代に覚えた嗅覚で、今も無意識に空気を嗅ぎ分ける。

「匂いは嘘をつきません」ヴァンスが言う。「もし配達人がいつもの人物でないなら、香りに差が出る」


2 郵便支局にて


支局は石造りの建物で、出入りの靴音が絶えない。

古い木製のカウンターの向こうに、丸眼鏡の主任がいた。名札にはクライン――“C”で始まる名。私は反射的にヴァンスを見たが、彼は肩を竦めただけだ。


「この封筒の押印を確認したい」

主任は丁寧に手袋をはめ、スタンプの縁を虫眼鏡で覗いた。

「十六時四十二分、確かにここで。押したのはチャールズ――若い職員です。彼は定刻に休憩へ。五時には戻っております」

「配達を担当したのは?」

「表の通りはコナー、裏手はクロウ。この時間帯は交代のはずですが……」

彼は記録簿を繰る。「……ふむ。五時から六時にかけて、コナーが別区画の応援に回っている。裏手のクロウは遅延の報告。つまり、その時間、この通りは空白だ」


ヴァンスの瞳に小さな光が灯った。

「空白の十分――誰でも配達人を装える時間だ」


私は封筒の封蝋の縁を見た。百合の紋章。侯爵家の舞踏会で見たものに酷似している。

「この封蝋、王冠の上の点が一つ欠けています」私は言った。

主任が頷く。「古い印章で、欠けは二年前から。侯爵家の本家は新しい印章に替えたと聞きます。この欠けは古物商の流通に出回った古い型の可能性が高い」


ヴァンスは軽く指を鳴らした。

「古物商。“C”から“C”へ、だね」


3 古物商「カミーユ堂」


通りを二本折れた先に、小さな看板。フランス語訛りの女主人カミーユが迎えた。

「百合の印章? ええ、侯爵家の旧型なら先月、委託販売で入ったわ。買っていったのはクローク係の青年。舞踏会で働いていると言っていた」

「名は?」

「クレメント。色白で、少し香水がきつい。ベルガモットの香り」


私は前の事件を思い出した。仮面舞踏会で、廊下の“青い仮面”に漂っていた香り――ベルガモット。

「彼は何のために?」

「“記念に”と言っていたけど……封蝋用の蝋棒も二十本。手紙を大量に封じるつもりでなければ、こんな本数は買わないでしょう?」


ヴァンスが一枚の硬貨を置いた。「助かりました、マダム。最後に――最近、紙も売りましたか?」

「ええ。綿繊維を多く含むライティング・ペーパー。水に強く、酸に弱いやつ」


ヴァンスは手帳にさらりと記す。「酸に弱い――消字液に反応する。良い手紙はいつでも書き換えられる。ね、カーター君」


4 配達人の影


支局を出ると、午後の光は傾き、霧に黄色を混ぜていた。

角のカフェで我々は配達人コナーに会った。頬に風の紅が残り、手には革の鞄。


「その時間、あなたは別区画の応援に?」

「ええ。表の通りは五時から六時、無人でした。裏手のクロウが遅れて――」

「その間、誰かがあなたの制服で歩いても気づかない?」

「帽子と鞄さえあれば、遠目には……」コナーは渋い顔をした。「だが歩き方までは真似できない。私は右足を少し引きずる癖がある。気づく人は気づく」


ヴァンスが微笑む。「良いことを聞いた。癖は仮面より雄弁だ」


5 事務所前の女主人


我々の事務所の向かいには、小さな菓子屋がある。店主のミセス・クーパーに、配達の頃合いを尋ねた。

「ええ、五時すぎにベルが鳴ってね。窓から影を見たの。郵便の帽子、鞄、でも背が少し低い気がしたわ」

「歩き方は?」

「片方の足を外に払うような癖。私の夫が昔そうだったから、覚えているの」


私は手帳に線を引いた。

(コナー=右足を引きずる。影の人物=外に払う。)

一致しない。つまり、影はコナーではない。

「その影は、香りを残しましたか?」

「ベルが鳴ったあと、柑橘の匂いがした。強すぎるくらい」


ベルガモット。再び同じ単語が、音もなく机に落ちる石のように、心の底に沈んだ。


6 封書の筆跡


事務所へ戻ると、ヴァンスは封筒と便箋を黒いベルベットの上に広げ、顕微鏡を組み立てた。

「筆跡は“作れる”。だが癖字は完全には消せない」

彼は筆画の起筆の圧と払いの角度、インクの溜まりを示した。

「見たまえ、カーター君。“C”の下端の跳ねが紙の繊維を裂いている。これは硬いペン先で力任せに書く癖。……私たちは一度だけ、この癖を見ている」

「どこで?」

「侯爵家の仮面舞踏会。貸し出し棚の記録簿に書かれた『12番返却』の署名。クローク係クレメントの“C”が同じ裂けを残していた」


私の背中に冷たいものが走る。

「彼が――“C”?」

「まだ決めつけない。ただ、印章を買い、香水を使い、記録簿に同じ癖で署名した人物が、配達の空白とも符合する」


7 クローク係クレメント


侯爵家の裏手、使用人の控室。クレメントは色白で、目元に若い疲れを貼り付けていた。

彼は完璧な礼をし、ベルガモットの香りを控えめに漂わせた。

「印章? 買いました。舞踏会の記念に。封蝋用の蝋棒? 練習に必要で」

「配達人に成りすましたことは?」

「ありません」

私は彼の歩き方を観た。足首の可動域が広く、外へ払う癖。

(ミセス・クーパーの証言と合う。)

ヴァンスは彼の手許を無造作に眺め、右手の小指の傷に視線を止めた。

「その傷は?」

「紙で切りました」

ヴァンスはうなずいた。「綿繊維の強い紙は、切り傷が深くなる」


クレメントは一瞬だけ目を伏せ、すぐに微笑を戻した。その一瞬が、私には長く感じられた。


8 “C”の羅針盤


事務所に戻る道すがら、ヴァンスは短く言った。

「“C”は人物であると同時に、方角でもある。Compass、Corner、City――場所や機能を示す記号として散りばめられていた」

「言葉遊び?」

「遊びと油断は似ている。どちらも隙を生む。――“C”は、その隙で息をする」


私は黙って頷いた。

入門編の五事件。どれもが“C”という微かな音色を含んでいた。

その連続が偶然でないのなら、彼/彼女は最初から最後まで傍にいたことになる。


9 配達の瞬間を再現する


ヴァンスは再現実験を提案した。

「支局の押印時間から十八分で事務所前。五時前に到着。ここで一度、投函せず通過。五時の記録を作るため、裏通りで時計塔の鐘を待ち、五時の少しあとに戻る。

そのとき、配達人の格好でベルを鳴らし、柑橘の匂いを残す」

「つまり、五時の記録と実際に受け取った感覚の両方を作る?」

「その通り。二度通ることで“時刻”の記憶を二重化できる。聞き込みでも“五時頃”と“六時過ぎ”の両方が出た理由だ」


私は息を吐いた。

「では、“C”は我々の思考を操作している?」

「そう受け取るなら、すでに彼の術中だ。事実だけを拾い、癖を見ろ。――それが我々のやり方だ」


10 小さな音


その夜、私は事務所に残り、封書をもう一度読み返していた。

ヴァンスは窓辺で煙草に火を点け、火の色を霧に押し当てるように吸った。

「カーター君。手紙の語順、気づくかい?」

私は目を走らせた。


靴/川/船/足跡/仮面

列挙の順が――入門編の事件順と一致している。

「つまり、“C”は我々の歩みを正確に観察していた」

「もっと言えば――傍で」ヴァンスが言う。「常にだ」


扉が軽く鳴った。

同じ建物に住む下宿人の青年が、郵便受けの調整を申し出た。器用な手が金具を外し、バネを締め直す。

「最近ベルが鳴りっぱなしで」

ヴァンスは礼を言い、青年が去る背中を見送った。

「器用な手だ。クローク係も、手先の器用さが命だ」

「彼も“C”で始まる名前でしたね」

「クリストファーだね」

ヴァンスは笑んだ。「Cは街に溢れている。――だからこそ、一つだけを選べる」


11 読者への挑戦状(中編終わり)


ヴァンスはランプの芯を下げ、私に向き直った。

「ここまでで、必要な材料はすべて出揃った。

読者諸君――あなたに問う。

1. “C”の正体は誰か?

2. なぜ五つの事件に介入したのか?(目的/動機)

3. この封書の“配達の矛盾”は、具体的にどう仕組まれたのか?


答えはすでに本文中にある。

仮面は顔を隠すが、癖は隠せない。

時間は嘘をつくが、鐘は正確だ。

香りは人を欺くが、重ねた香りは混ざらない。

――さあ、推理を」


窓の外、鐘が一つ鳴る。

霧は濃く、街は静かだ。

だが私は知っている。静寂は、最も大きな声を秘めている。


(第6話 中編・了)



ヒント要約(本文中に置いた手掛かり)

•押印:16:42/徒歩18分 → 到着は17時前後。

•配達人の空白:17–18時は担当者不在(交代の穴)。

•封蝋:侯爵家“旧型”(王冠の点欠け) → 古物商経由/購買者はクローク係。

•香り:ベルガモット(舞踏会でも同香)→ 配達時にも強く残る。

•歩き方の癖:本物の配達人=右足を引きずる/影の人物=足先を外へ払う。

•筆跡の“C”の裂け:硬いペン先で強く、舞踏会記録の署名と一致。

•紙質:綿繊維多・酸に弱い → 消字液で改竄可能。

•語順(靴→川→船→足跡→仮面)=過去事件の順番。

•二度通過の再現:五時前に一度、五時過ぎにもう一度。記憶を二重化。

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