第2話 前編――霧の川面に浮かぶ身元不明

第2話 前編――霧の川面に浮かぶ身元不明


ロンドンの朝霧は、街の音を薄紙で包む。鐘の音も、靴音も、遠いところで折り返して返ってくるようだった。午前5時台、私――エドワード・カーターは診療所の窓を曇らせる湯気と格闘していたところ、いつもより荒い調子で呼び鈴が鳴った。3回、間を置いて2回。せっかちで、なおかつためらう人間の鳴らし方だ。


ドアを開けると、警部のハロルド・モリスが霧を背負って立っていた。帽子の縁には細かな水滴がびっしり付いている。


「カーター先生、起こして悪い。川だ。テムズの石段で、男が浮かんだ」


「溺死か?」


「見た目はな。だが服の具合が気に入らん。お宅の友人――例の探偵氏にも、もし都合がつくなら」


私は上着を引っ掛け、電話機に手を伸ばした。受話器の向こうで眠そうな声が「着るものに時間をくれ」と呟く。霧に包まれた朝の街へ、私たちは3人で向かった。



場所はサザーク、古い石段の降り口だった。川の水位は満ち潮の名残でまだ高く、石段の5段目まで濡れている。上流から押し寄せる水は鈍い鉛色で、舟の影は霧に飲まれて見えない。河岸に集まった野次馬の輪を超えると、帆布の覆いの横に、膝まで濡れた水夫が立っていた。


「朝5時半ごろだよ、旦那。石段の縁に引っかかってるのを見つけた。流れに押されて腹ばいになってたさ」


帆布をめくると、男が現れた。30代後半、やせ形。濃紺の上着は水を吸って黒くなり、髪は額に貼りついている。顔色は悪く、唇は青い。だが、私の目はすぐに別のところに留まった。上着の肘、ズボンの膝、靴の縁――そこにこびりついた泥が、不自然なひび割れ模様を見せている。水の中でこそげ落ちた形ではない。一度乾き、再び濡れた泥の特有の割れ方だ。


ヴァンスはしゃがみ込み、男の袖口を指先でつまんだ。袖の内側から、指で弾けば舞い上がりそうな白い粉がわずかに出た。私は吸い込むまいとして息を止める。白粉――舞台用の粉に似た匂いが、かすかに鼻をかすめた。


「時計は?」とヴァンス。


モリス警部が応えた。「懐中時計は胸ポケット。止まってる。1時15分だ」


私は男の手首を取り、指先を見た。右手の親指と人差し指の付け根にペンだこが育ち、爪の間には黒いインクの名残が薄く入り込んでいる。左手首の内側には小さな擦過傷。縄で縛られた跡ではない。どこかにぶつけたか、引きずられたときの傷だろう。


「身元は?」私は訊いた。


「まだだ」モリスは帆布の上に置いた小物袋を開ける。「ポケットに招待状の破れた半券。それから、細長い鉛筆。鉛筆には**『マーリン座・控え室』**と薄く刻印がある。劇場だな」


半券は水を吸い、紙の繊維がほつれているが、印刷の一部は判読できた。“Merlin Theatre”、そして昨夜の日付、“Private Preview” の文字。右下の角は鋸歯状の切り取り線でちぎられている。誰かが受け付けで対になる切片を回収したのだろう。


「劇場関係者、か」ヴァンスは短く言った。


私は男の髪に指を差し入れた。水草は絡んでいない。鼻腔に淡い香り――これは樟脳、衣裳部屋で使う防虫剤の匂いだ。上着の襟には赤い短い繊維が2、3本、細い針のように立っている。舞台幕のベルベットによく似た毛羽。


「死因は?」モリスが私を見る。


私は喉元と瞼の裏を調べ、胸部に手を当てた。肺の動きはないのはもちろんだが、鼻孔から水が上がった形跡は薄い。胸郭に押したとき、水の逆流音はない。溺死の典型とは言い難い。後頭部を探ると、髪の間に小さな腫隆。角の丸い鈍器で殴られた痕に見える。水で洗われたため出血はほとんど流れ落ちている。


「現時点では陸上で打撲。その後、投棄と見るのが妥当だ」私は言った。「解剖で確かめるべきだが」


モリスが頷く。「潮見表は?」彼は部下に合図し、小さな帳面を受け取る。「昨夜は1時50分が満潮。今朝5時過ぎにはまだ下げ始めたばかり。1時15分で時計が止まってる。偶然か、細工か」


「時計は水に浸れば止まるさ」水夫が口を挟む。「だが1時15分ってのは、なんだか芝居じみてる」


ヴァンスは半券を光に透かし、紙の縁の鋸歯状の形を目でなぞった。「切り取り線のピッチが独特だ。対になる半券があれば、歯型は一致するはずだ」


彼は立ち上がり、河岸から離れる石畳を見渡した。霧はまだ濃いが、靴の跡がいくつか残っている。中でも、石段の3段目から岸へ向かう擦ったような跡。誰かが体を引き上げたのだろう。その横に、細い線状の黒。鉛筆の芯を強く押し付けたときの粉の跡に似ている。私は屈んで指先に付ける。湿り気と共に、黒鉛のざらつきが残った。


「控え室の刻印がある鉛筆、川の石に残る芯の粉、舞台幕の毛羽、樟脳の匂い、白粉」ヴァンスは指を折った。「劇場の影が濃い」



遺体は担架で運ばれ、私たちはマーリン座へ向かった。昨夜、プライベート・プレビューが行われたという劇場だ。外観は古いが、入口のガラスは新しく、看板は金の縁取りが眩しい。開場前の客席は空で、舞台では照明係が2人、脚立に登って灯りの角度を調整していた。赤い大幕は重く、手で触れれば指の腹に短い毛羽が針のように刺さるだろう。


支配人の中年男が出迎えた。小柄で、よく回る舌を持つタイプだ。


「おやおや、お役人と先生方。昨夜はたいそうな賑わいでしてね。プレビューですから客は招待だけ。半券は入口で切りましたとも。ええ、こちらに控えがあります」


支配人は小さな箱を開けて見せた。中には鋸歯状の右下角が切り取られた半券の対片が幾枚も入っている。紙の縁のピッチと高さは、川で見つけた半券と同じ印象だ。


「昨夜の客の名簿を拝見したい」モリスが言う。


「招待状は制作のハンナ嬢が配り、受付は舞台監督のバートンが担当しました。名簿は……ああ、控え室に。ご案内しましょう」


廊下には樟脳の匂いが漂い、行き交う衣裳係の腕には赤い糸くずが絡んでいる。控え室の扉には白い粉の指紋が模様のように付いていた。案内された机の上、灰皿の脇に鉛筆が転がっている。軸には「マーリン座・控え室」。川で見つけたものと対になる刻印。


名簿を開くと、昨夜の招待客の名前と肩書が並んでいる。貴族、新聞記者、慈善家、芸術家、そして――劇作家の名が2つ。1つはこの劇場で新作を上演予定のコールトン、もう1つは同じく劇団に出入りする若手のアッシュビー。後者の名の横には、鉛筆で薄く×印が付けられていた。何を意味する×かは、分からない。


「昨夜の出入りは?」ヴァンス。


舞台監督のバートンが大きな体をきしませ、腕を組んだ。「受付は21時から。22時に開演。1時前に終演、客は三々五々。1時半には片付けを終えて、たいていの者は帰りました」


「控え室を使ったのは?」


「出演者と、コールトン先生、アッシュビー。あとは記者の何人かが先生方に挨拶したくらいだ」


ヴァンスは机の上を目でなぞった。インク壺の縁に固まった黒が二重の環を描き、紙の上には推敲の書き込みが走り書きで残っている。筆致は勢いがあり、ところどころに小さなインク飛沫。右利きの、筆圧の強い書き手だ。


「昨夜、喧嘩は?」モリスが訊いた。


沈黙。支配人が微笑を薄め、「芸の道には議論はつきものです」と曖昧に言う。代わって衣裳係の若い女性が口を尖らせた。


「アッシュビー先生が、コールトン先生に噛み付いてましたよ。『筋を盗んだ』って。ほら、新作のことです。似てるって」


支配人が慌てて目配せする。「いやいや、そこはお互いのインスピレーションが――」


「昨夜、アッシュビーはいつ劇場を出た?」ヴァンス。


「1時15分ごろだったかと。時計のベルが鳴るのがここにも聞こえるでしょう? その直後に、あの人が帽子をかぶって廊下を——」


「待ちなさい」モリスが手帳に走り書きしながら割って入る。「1時15分?」


私はヴァンスと目を合わせた。川で拾った懐中時計の停止時刻と同じ数字が、偶然の顔をしてこちらを覗く。


「アッシュビーは1人で?」ヴァンス。


「いいえ」衣裳係が首を振る。「舞台袖で、誰かと口論してました。見えたのは赤い裏地のコートだけ。男か女かは……」


赤い裏地。私は川辺で見た赤い短い繊維を思い出す。舞台幕の毛羽と似てはいるが、服の裏地の可能性もある。どちらにせよ、赤がここでも顔を出した。



控え室を出て、舞台袖を歩く。床には細かな白い粉が点々と落ち、松脂の匂いも混じる。バレエの練習に使うのか、道具係が滑り止めに撒いたのか。幕の継ぎ目に顔を近づけると、鼻先をくすぐる樟脳の匂いが強くなる。衣裳部屋の扉は固い。中は樟脳と布と汗の匂いが混じって、独特の甘さを持つ。


「先生方、何か探し物で?」衣裳部屋の年配の女性が顔を出した。指先は針で慣れた人の手で、爪は短い。


「赤い裏地のコートをご存知ありませんか」ヴァンス。


「昨夜はハンナ嬢が着てましたよ。支配人付の若い制作の子。裏地が赤で、外は黒。新しいコートで、端の糸がまだ少し出るんです。掃除のときに何本か拾いました」


「ハンナ嬢は今?」


「まだ来てません。夜更けまで働いてたみたいで」


衣裳部屋の片隅に、布切れと一緒に赤い短い糸が集められている。私はそれを指でつまみ、ジャケットの内ポケットに小袋ごとしまった。川辺で拾った繊維と繊維長と色味が似ている。


ヴァンスは舞台の出入口――搬入口の前で立ち止まった。床の車輪の跡がまだ新しい。昨夜の片付けで大道具を運び出したのだろう。車輪跡の間に、細く引っ掻いたような黒い線が何本も走る。鉛筆の芯が床をかすめたときに引く線と似た質感だ。


「鉛筆?」私は言った。「川の石段でも、黒い粉が残っていた」


「鉛筆は書く以外にも使う」ヴァンスは答える。「細い隙間に差し込んで仮留めしたり、楔の代わりにしたり。舞台の人間は即興の道具使いがうまい」



私たちは事務室に戻り、支配人の前に座った。モリス警部は招待客の名簿を睨んでいる。


「コールトンは?」モリス。


「昨夜は遅くまで演出と議論を。終演後もしばらく控え室で台本を直してました。帰ったのは1時半すぎでしょうか」


「アッシュビー?」


支配人は目を泳がせる。「彼は……プレビューの途中で立ち上がって外に出て、それから戻り、終演後もしばらく廊下を行ったり来たり。落ち着かない様子でした」


「ハンナ嬢は?」


「受付の締めをして、最後まで残っていました。鍵の片付けはバートンがやりましたが、招待状の半券の対片は彼女が箱に入れて持ち帰るはずでした。朝、私の机の上に置いてありましたので、間違いなく」


ヴァンスが半券の箱をもう一度取り上げる。川で見つかった半券の鋸歯状のピッチと、箱の対片の歯型は見事に一致するだろう。だが、まだ箱のどれが対になるものかは分からない。照合が必要だ。


「ところで、昨夜のプレビューの内容は?」ヴァンスが不意に訊いた。


支配人は肩をすくめた。「家庭劇です。愛憎、嫉妬、和解――観客は喜びます。新しい幕切れが評判でしてね。主役が、橋の上から河に向かって手紙を投げるシーンがある」


「手紙?」


「ええ。白い紙がひらひら舞う。美しいですよ。実際に紙を使うので、床に紙片がいくつも落ちます。掃除係が大変で」


私はヴァンスを見る。紙片。川。手紙を投げる。紙と水。劇場で昨夜見られた動作が、この朝の川と奇妙に呼応する。



劇場を出ると、霧はまだ薄くならない。ガス灯が花のようにぼんやり咲き、通り過ぎる馬車の影は輪郭を欠く。


「どう見る?」私は歩きながら問う。


「水死ではない。陸で打撲。1時15分が鍵だ。劇場ではその頃、アッシュビーが動き、コールトンは控え室。支配人は言葉を濁し、衣裳係は赤い裏地を証言した。川の半券は鋸歯状。対片は箱に。舞台袖の白粉、衣裳部屋の樟脳、幕の毛羽。川の泥は一度乾き、再び濡れた。つまり――」


「つまり?」


「遺体は一度、地面に横たえられ、泥が乾き、時間を置いてから川に投げ込まれた。潮の時間に合わせて、発見場所が計算されている」


「誰が? 劇作家か、制作か、舞台監督か」


「そしてもう1つ。招待状だ。川から出た半券。対になる片は箱の中に。誰の名かを探れば、身元が分かる」


「身元不明、の看板は長くは続かないというわけだ」


私はポケットから小袋を出し、赤い繊維を手のひらに落とした。繊維は短く、鮮やかで、太さは均一だ。川の石段で拾った毛羽と見比べれば、繊維長と色味はよく似ている。舞台幕か裏地か。いずれにせよ、劇場の赤と川の赤は、同じ赤であるように見えた。



午後に入り、霧はわずかに薄くなった。だが真実の輪郭は、まだ霧の向こうで息を潜めている。モリス警部は川の半券と劇場の箱の歯型照合を部下に命じ、私とヴァンスは診療所へ戻る道を歩いた。


ヴァンスはいつものように沈黙を愛するが、今回は珍しく口を開いた。


「カーター君。3つの束が見えている。紙、粉、時間だ」


「紙は招待状、粉は白粉と黒鉛、時間は潮と時計」


「そう。紙は身元を、粉は場所を、時間は手口を指し示す。これらが同じ手で結ばれていれば、犯人は自ずと浮かぶ」


「そして、動機は?」


「嫉妬か、盗作か、舞台への執着か。愛ではない。今回の愛は、川に投げた手紙のほうに使われている」


私は笑い、「詩人ぶるな」と肩をすくめた。だが、ヴァンスの言うとおり、昨夜の舞台と今朝の川は何かを響き合わせている。紙が宙を舞う演出と、紙がポケットに残る遺体。白粉が舞台袖に、白粉が死者の袖にも。1時15分、満潮、投棄。


「ところで」私はふと思い出した。「川で見つけた黒い線。石段の上の黒鉛の擦れ。劇場の搬入口の床にも同じ線が走っていた」


「鉛筆を楔に使ったのだ。何を留めるために? 扉か、台車か、遺体を運ぶ箱か」


私は背筋に薄い寒気を覚えた。遺体を運ぶ――それは思いたくない想像だが、否定できない。舞台のプロたちは、運ぶことに長けている。木箱、台車、幕、綱。全てが動線のための道具だ。


「身元が分かれば、すべてが早い」ヴァンスは言った。「半券の歯型が、名前を指す。名簿と照合すればいい」


「そして、もし名がアッシュビーでなければ?」


「それでも構わない。犯人がアッシュビーかどうかは別だ。死者が誰で、どこで何をし、いつ死んだか。そこが先だ」



夕刻に向けて、霧はやっと薄い布に変わった。ガス灯の花は輪郭を得て、石畳の濡れは乾き始めている。私は診療所の机に、今日の覚え書きを並べた。


――遺体:男、30代後半。陸上打撲の疑い。時計は1時15分で停止。

――衣服:肘・膝・靴にひび割れた泥(一度乾き、再び濡れた)。襟に赤い短繊維、袖に白粉。樟脳の匂い。

――ポケット:招待状の半券(鋸歯状)、鉛筆(マーリン座・控え室刻印)。

――現場:石段3段目に擦った跡と黒鉛の粉。満潮は1時50分。

――劇場:半券の対片は支配人管理。アッシュビーとコールトンが昨夜出入り。1時15分にアッシュビー退場との証言。舞台袖・搬入口に白粉と黒鉛線。衣裳部屋に赤い糸くず。

――演出:幕切れに紙を河へ投げるシーン。床に紙片多し。


ヴァンスは私の肩越しに紙を見ると、静かに言った。


「前編はここまでだ、カーター君。中編で、名と顔を確かめ、嘘を洗う。挑戦状は中編の終わりに」


私はうなずいた。窓の外、霧の残りが夕陽を受けて、薄い桃色に染まっている。川は見えない。だが、川はいつでも街の片側で、音もなく呼吸している。


そして、誰かの息が止まった時間――1時15分――もまた、街のどこかで、今日に繋がっている。


(第2話 前編・了)

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