IFの世界へ〜ヤドハロート・クルーズは闇に堕ちる~

キードゥル82年8月


「ごめんね、優しいアイシェ」


ヤドハロート・クルーズは牢屋の中でスヤスヤと眠っているアイシェ・エミリエールを見て呟くようにそう言った。


(……こんな状況下でも、こんなに眠れているんだね)


ヤドハロートの金の瞳の下には隈ができている。アイシェのことが心配で眠れなかった、というのは言うまでもない。普通の貴族ならば、この環境で眠れないのが普通なのだが、アイシェは特殊な環境だ。こんな状況でも寝られるようになってしまったのか、仕事漬けで寝不足なのか。

きっと、両者なのだろう。


「正義感が強いアイシェには怒られるかもしれないけれど……諦めてね」


ヤドハロートはそう呟き、牢の鍵を開け、愛しい人の体を抱いた。


◇◆◇


「……ん、んぅ」


アイシェ・エミリエールは目を覚ますと、真っ暗な牢屋ではなく、明るい太陽の差し込む場所にいた。布団は藁なんかではなく、ふかふかのベッドだ。


「え?ここ……」


(見覚えがある……)


「やぁ、おはよう、アイシェ」

「ヤドハロート……?」


そう。アイシェの幼馴染、ヤドハロート・クルーズの部屋だった。どうりで見覚えがあったわけである。


「え?え?」


アイシェは混乱した。なぜ、牢屋に捕まっていたはずの自分が、ヤドハロートの部屋で寝ていたのか。


「なんで、わたくしがここにいるの?……というか、ヤドハロートは村の方に視察に行くって……」

「あぁ、父上に任せて帰ってきたんだ。……それより、アイシェ、お腹空いてない?あ、アイシェの好きな林檎もあるよ」


(ヤドハロートはどうしてしまったの?)


今も笑っているけれど、いつもの優しい笑みを浮かべるヤドハロートは少し違う。アイシェが見えていない。何か、別の何かを見ているように見えた。


「ね、ねぇ――」

「ほら。どうぞ」


ヤドハロートがアイシェの言葉を遮って、切った林檎を差し出す。


「……ありがとう……」


アイシェはヤドハロートが手に持っているフォークを取ろうとすると、すっと避けられる。


「はい、あーん」


アイシェの口の前に林檎を差し出す。固まっていると、ヤドハロートは悲しい顔をして首を傾けた。


「……食べないの?お腹、空いてないの?」

「えっと……いや、これ……」

「じゃ、食べて?」


ヤドハロートはアイシェの口に半ば無理矢理、林檎を押し付けた。


「あっ、んっ、むぐぅ……美味しい」

「良かったぁ。じゃ、もう一個」


その流れで、アイシェは何度か林檎や果物を食べた。


(……美味しい、けど……なんでヤドハロートに!?)


ヤドハロートにそんなつもりはないはずだ、アイシェは自分にそんな目を向けられることがないと分かっている。そんな理想を持ち続けるのは酷だ。


「お腹いっぱい?……なら、準備しよっか」

「何の?」

「お出かけ」


ヤドハロートは短くそう答えた。一度、隣室に出てからまたすぐに戻ってくる。その手には淡い桃色のドレスがあった。子供らしくて可愛らしい。


「アイシェ、これに着替えて」

「……こんな綺麗な衣装、わたくしには似合わないよ。もっと、マリナとか……色を変えたら、お姉様とかに似合う衣装よ」


そう言うと、ヤドハロートは笑っていた目をスッと細める。


「そんなわけない。アイシェに似合うと思って、私が選んだものだから。……さ、着替えて?」


アイシェはヤドハロートに着替えさせられた。


(むーん……こういう装飾が多い衣装は慣れない)


「うん、うん、凄く凄く似合う」


ヤドハロートは恍惚とした表情で言った。


「さ、行こ!」


ヤドハロートはアイシェに手を差し出す。アイシェはぎこちないものの、その手をとった。

そのまま、クルーズ家の屋敷を出て、馬車に乗る。


「あの、ヤドハロート、お城に行くのよね?」

「……違うよ?あんな奴ら、放っておけばいいんだよ。フェルーネ様は、少し気の毒だけど」

「え!?」


てっきり、城に向かうとばかり思っていたアイシェは酷く驚いた。


「な、なんで?なら、どこに行くの?」

「……どこがいい?ヒサミトラールもいいけど、あまり歓迎されなさそうだから、ウジェートルか、ノルシュットルがいいね。個人的には、ウジェートルがオススメだよ」

「な、にを言ってるの?」


アイシェは、ヤドハロートが何を言っているのか、理解ができなかった。城に行くと思っていたのに、急に隣の他領に行くという話になっているのだ。


「あ、貴族じゃなくて平民として生きるのも手だよね。追っかけて来た時に見つかりにくそうだしさ!一緒に新生活頑張るのもなんかいいなぁ」


(言葉が、通じない)


「どこがいい、アイシェ?」


(……怖い)


いつもの優しいヤドハロートに戻ってほしい。こんな笑顔じゃなくて、もっと、心から笑っていてほしい。幸せになってほしい。そのためには、今こんな場所で、アイシェといるべきではないのだ。


「……ヤドハロート」

「ん?なあに?」

「一度、城に戻ろう?きっと、皆信じてくれるよ、わたくしが犯人じゃないって!ね、そうでしょ?きっと、お姉様もお兄様もお父様も……心配しているわ」


マリナの名を出さなかったのは、先日のマリナがよく分からなかったからだ。アイシェはマリナを愛していたし、マリナもアイシェのことが大好きなはず。でも、今はそれが本当なのか、よく分からない。


「はっ、心配?どうだろうね」


酷く低い、冷たい声が聞こえた。アイシェは怖くなって、パッと顔を上げた。アイシェの鮮血色の瞳とヤドハロートの金の瞳と目が合い、逃げられないと言わんばかりに、アイシェは壁に追い詰められた。


「ヤドハ、ロー、ト……いつもの、優しい貴方に、戻って……?」


アイシェはそう呟くような声を出す。ヤドハロートはアイシェの口を左手で塞いだ。「ん!?」と声ではない音が漏れる。反論を許さない手だ。


「ハァ……アイシェって本当にお人好しだね。アイシェ、私が優しいのならば、君は女神だよ。全てを許してしまう、〈慈悲の女神〉。嫌われている相手にまで、全力で尽くすんだもの。もう、浮気と言ってもいいかも。まぁ、そういうところがあっての、アイシェ・エミリエールなんだけどさ」


「ねぇ、アイシェは私のことどう思ってる?ただの幼馴染、だよね。側近の一人、とかだったら流石に悲しいけど」


「…………アイシェ、好きだよ。凄く好き。大好き。愛してる。もう、どこにも行かないで」


そのとき、ヤドハロートはアイシェにギュゥと強く抱きついた。ようやく息ができるようになったアイシェはゴホゴホと咳き込む。


「…………っな、んで?」

「アイシェはさっきからなんで、なんで、ばっかりだ」

「だって、わたくしなんか……。醜いし、そんなのが幼馴染なんて、ヤドハロート、も嫌でしょ?」


アイシェの瞳から、涙があふれてきた。その涙を、ヤドハロートはそっと手に乗せる。


「……アイシェは、泣いている姿だって、可愛いよ」


そう言って、二人の顔が近づく。ヤドハロートは、口に何かを含んだ。


それから、二人の唇が重なる。ヤドハロートの口から、アイシェの口に、何かが注ぎ込まれる。


「やど、は、ろー、と?なっ、んで、なんで」


アイシェは涙を流しながら、ヤドハロートに問う。ヤドハロートは、その質問に答えることはなく、薄っすらと笑った。


「おやすみ、アイシェ」


アイシェは睡魔に襲われ、意識を手放した。


◇◆◇


「おはよう、アイシェ。今日は雲一つない青空だ。だから、今日、外には出ちゃいけないよ」

「……」


「あ、こんな風に晴れていた日、一緒にピクニックをしたよね。楽しかったなぁ、アイシェもそうでしょ?」

「……」


「最近は、エミリエールの兵が五月蠅くなってきたよね。もうそろそろ、ここも見つかっちゃうかも。移動しなきゃね。次はノルシュットルに行こうか?ちょっと遠いけど、いいよね?」

「……」


「そういえば、今日はアイシェの十七になる誕生日だね。おめでとう。やっと、結婚できる。やったね、アイシェ。指輪買わなきゃ。あ、でも、ここからは出られないし、君を他の誰かに見せるのも嫌だなぁ。どうしようかな。ここで手作りしようかな。アイシェもその方が嬉しいよね?」

「……」


ヤドハロートはアイシェを前に抱いている。アイシェの痩せこけた体には、生々しい青く腫れた傷の上から、赤い花が散っている。

アイシェの鮮赤色の瞳には何も映らない。何も映さない。ただ、ただ、この状況を理解することを拒む。この小屋に来た当初は、反論もし、抵抗もしていた。だが、ヤドハロートの変わりっぷりにもう抵抗する、という選択肢がなくなってしまった。こうなっていることを、理解したくない。これは、夢だ。ずっと、そう思いながら。時折、眠ったときに見る幸せな昔の日常の夢を現実だと、心が頭に言い聞かせる。

ヤドハロートは時折アイシェの黒髪を撫でながら、昔話を一人で語る。窓一つない真っ暗な、誰も入らない魔獣の森の中にある、小屋の中で。誰も入れないような、強度すぎるほど硬い防御魔法をずっと行使して。


(……あぁ、今日も可愛い。愛しているよ、アイシェ。私だけの、私のためにいるアイシェ。アイシェ……)


ヤドハロートはアイシェを強く抱きしめる。

その時、小屋の外から大声が聞こえた。ヤドハロートが聞いたことのある、男の声だ。


「おい!これじゃないか?」

「……攻撃を」

『はっ!』


ヤドハロートの張った防御結界に、次々と攻撃魔法が打たれる。ヤドハロートが全力で作った結界は次々と放たれる攻撃魔法によりパキッ、パキッとひびが入った。


「……あぁ、五月蠅いなぁ」


ヤドハロートはアイシェを壁にもたれかからせるように置く。


「……?」

「待ってて、アイシェ。邪魔者を消してくるから」


ヤドハロートは壊れかけた結界を消し、小屋の外に出た。晴れていた空はどんよりとした雲に覆われてきている。

小屋の外にいたのは、四人の武官だ。何度か話したこともある者もいる。


「……」

「ヤドハロート、アイシェ様を返せ」


(……お前たちに渡したところで、アイシェは死ぬんだ。だったら、私が持っていても、良いではないか)


「……嫌だと言ったら、どうするのですか?」

「力ずくでやらせてもらう」


一人の中級武官が剣をこちらに構え、走ってくる。

ヤドハロートは右手を出し、剣を受け流した。


「なっ!?」

「何をした、ヤドハロート!」

「特に何も」


ヤドハロートは右手を振りかざし、火の魔法を放つ。フォーマカードゥと似た魔法だ。


「ぐぁあっ、く、そっ。それっ、魔術具かっ!」

「そうですよ。今更、よくお気づきで。文官である私が、貴方たち武官に勝つための対策をしていないわけがないでしょう?」


ヤドハロートはもう一度、魔術具で火の魔法を放った。


◇◆◇


「はぁっ、はぁっ」


ヤドハロートの目の前には四人の死体がある。


ヤドハロートが、殺したのだ。

だが、ヤドハロートもまた、怪我を負っていた。左腕には剣で切られた深い傷がある。


ヤドハロートは必死に、小屋の中に戻った。そうしてまた、結界を張る。


「……!!」


ヤドハロートが小屋の中に戻ると、アイシェは動かない体を必死に動かしながら、ヤドハロートに近付いた。


「……っ?」


アイシェは、もうすでに言葉を失っていた。アイシェの口からは、もう言葉は出ない。「ヤドハロート」と名を呼ぶこともないのだ。


それでも、それでも、必死に自分の方へ近づいてきてくれた、と理解したヤドハロートは涙をこぼしながら、アイシェを強く、強く、抱きしめた。


「……愛してるよ、アイシェ。私の……わたしと、結婚してください」

「……」


アイシェは、それに何も返せない。



ただ、ヤドハロート・クルーズは、もうとっくに闇の底に落ちているのだ。



◇◆◇


「アイシェ、大好きだよ。だから、大人になったら、わたしのお嫁さんになって」

「……うんっ!わたくしも大好きっ。いいよ、ヤドハロート!」


そんな昔を思い出した。

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