IV.新しい日常 前編
キードゥル88年3月
「あの、発言をお許しいただけますか?」
クリスティーネは軽く手を挙げた。少しの間、沈黙が流れる。
それから、レトルートが問うた。
「なんだ?」
「その、今までのお詫び、というか、不利益に対しての、正当な利益のお返し……です。書類仕事をお手伝いいたします。何十枚でも、何百枚でも」
そして、また沈黙が流れた。レトルートがフリーズし、ミカエルが困惑した表情で首を傾げる。
「……は?」
「君がやるの?」
「はい。今までのヒサミトラールへの不利益に対しての補填です」
淡々と答えると、全員は驚いた顔をした。
今回は、逆にクリスティーネが困惑する。
……何か間違えたでしょうか?
アイリスが戸惑いつつ、言葉を紡ぐ。
「貴女には記憶がないのでしょう?それを償う必要はないかと思うけれど」
「……でも、この体が行ったことですし。それで、ヒサミトラールの利になるのなら」
「まぁ、少しやるくらいには構わぬ。明日、側近に書類を持って行かせよう」
アイリスが「えっ?」と声をあげる。
「レトルート様っ?五歳の子供ですよ!?」
「少しくらいなら構わぬ。今のところ、人出は多いからな」
「クリスティーネ、無理はしないようにね」
「は、はい。ご心配ありがとう存じます」
クリスティーネはアイリスに心配そうなお顔で見られる。
アイシェに対してそんな顔をしてくれるのは、ローゼットやヤドハロートくらいしかいなかったので、少し――否、とても嬉しい気持ちになるものなんだと、初めて実感した。
◇◆◇
「おはよう存じます、クリスティーネ様」
「フィルオーナ様、おはよう存じます」
クリスティーネになってから、初めて太陽を見た。フィルオーナが驚きつつ、笑う。
「朝はお早いのですね。ですが、わたくしが来るまでは寝ていてくださって大丈夫ですよ」
「そ、そうでしたね。明日から気を付けます」
……レヴェッカがいるか、誰も起こしに来ないか、なので自然と起きる癖がついているんですよね。
着替えを手伝ってもらいながら、クリスティーネとフィルオーナは話す。
いつもはパパッと朝の準備を終わらせなければならなかったので、こんなにゆったりできるのはいつぶりだろうか。
「あの、クリスティーネ様」
……フィルオーナ様、急に改まりましたね。
「何ですか、フィルオーナ様?」
「いい加減、敬称はいらないのですが」
「へ!?あ、あぁ……」
「クリスティーネ様がそうしてくださらないと、わたくし、怒られてしまうかもしれません」
フィルオーナが頬に手を当てて俯く。
……断りにくいっ!というか、断れませんっ!
「分かりました。善処します、フィルオーナ」
「ふふ、良かったです」
着替えを終えると、暇になってしまった。
……こういうときに何をするべきなのか、全く分かりませんね。困りました。
「そういえば、ふぃ、フィルオーナ。本日は誰がいらっしゃるのですか?レトルート様の側近が書類を届けてくださるそうなのですけれど」
「あぁ、エットルト・アレクサンド様のことですね。エットルト様はヒサミトラール領主の側近で、武官団長の息子です。クリスティーネ様の従兄でもあるんですよ」
「従兄……!」
……親族って、前のクリスティーネを知ってるってことよね?嫌われていそうなのだけど。
「ただ、領主への忠義が厚い方なので、少し嫌われていると考えられます」
「……その様子だと、少しどころではなさそうですね」
しばらくして、ノックが聞こえ、「エットルトだ」と声が聞こえます。フィルオーナが開けてくれました。
「失礼する」
書類を持った大柄の殿方が入ってきた。
……これが、エットルト様。
「書類を持ってきた」
「ありがとう存じます」
エットルトがフィルオーナに書類を手渡す。なんだか、量が少ないような気がする。
「エットルト様、書類は後からまた持ってくるのですか?」
「これだけだが?」
「え……?量が少なくありませんか?」
……百枚……は厳しいけれど、数十枚くらいならばどうにかなると思うのですが。
「……は?これだけでも一時間はかかるぞ」
「いえ。三十分もあれば終わります」
わたくしとエットルトは二人揃って首を傾げた。
「其方ができるという強い自信を持っているのは分かった。だが、別に今は人手不足でもないから、文官たちの仕事を奪いすぎてはならない。それと、レトルート様にご迷惑をかけることは私が許さぬ」
「……確かにそうですね。分かりました」
エットルトはお部屋を出ていった。クリスティーネはテーブルに書類を広げ、羽ペンを持った。万年筆を買うか、誰かに譲ってもらおうか。羽ペンでは不便なのだ。
数字を記入していくと、気づくことがあった。
……字が汚いっ……。
衝撃の事実。前のクリスティーネは字を書いたことがなかったそうなので仕方のないことなのだろうか?
文字の練習をしなければならない。
……お願いして、聞いてもらえる?
「あ、あの、フィルオーナ!」
「何でしょう?」
「き、木札をたくさん用意してもらえますか?」
フィルオーナに訳を聞かれたので、「文字の練習がしたい」と言えば、快く了承してくれた。
……言ってよかった。
フィルオーナに木札を取りに行ってもらう間にも書類を進めていく。字が汚すぎて、ゆっくり書いているので、予想よりも遅くなるだろう。
しばらくして、フィルオーナが戻ってた。手には木札とトレーの上には飲み物がある。
「只今戻りました。どれくらい進みましたか?一度、休憩にいたしましょう」
「あ、あと二枚なので、終わらせてしまいます」
「まぁ……とても早いですわね」
フィルオーナが驚きつつも、飲み物を入れてくれた。クリスティーネは字の汚さと葛藤しながら、残りの二枚を終わらせた。
「の、飲み物を貰ってもいいですか…?」
「どうぞ。熱いので、お気をつけくださいませ」
フィルオーナにコップを貰った。茶色い液体が湯気を出している。
「……これは何の飲み物ですか?」
「ココアです。甘くて美味しいのですよ」
「……〈料理の神〉ルーゴデオに感謝、を」
コクリとココアを口に含みます。
……甘い……!
「……!」
「ふふ、お気に召していただけたようで何よりです。この後は何をなさいますか?」
「えっと、レトルート様に書類を提出します。その後は……」
書類仕事をしながら考えていたことを木札に書いていく。
書き終えたところで、フィルオーナに見せた。
「やることリスト、ですか。書類仕事、運動、魔法の特訓」
「はい。運動して体力を身につけます。魔法は幼い頃から触れておくことに越したことはないですから」
「なるほど。ですが、運動も魔法もわたくしがいるところでやってください。絶対です。ないとは思いますけれどね」
「はい、分かりました」
……人間に転生したのです。わたくしは復讐をする、絶対に。この機会を逃す気はありません。そのためだけに、わたくしは生きていくのです。
そう、心に誓った。
ココアを飲み終え、書類を持って、レトルート様の執務室に向かう。執務室は二階にある。ちなみに、クリスティーネのお部屋など領主一族全員の部屋は三階にある。
歩くこと数分。
「はぁ、はぁ……」
「大丈夫ですか?」
階段を降り始めたところで、息切れしだした。
「クリスティーネ様は城を歩くのも面倒だとおっしゃって、相手に移動させるか、わたくしに運ばせるようにしていましたからね……」
「そんっ、な……」
……最初は、城内を歩くところから始めるべきかもしれません。
「ゆっくりでいいですから。頑張ってくださいませ」
「は、い……」
精一杯階段を降り、二階につきます。静かで、領主一族の側近くらいしか廊下を歩いている人がいない三階と違って、文官が忙しく歩いている。
クリスティーネが降りてくると、一部の文官が「ヒッ」と声を上げた。
……怖がられすぎでは……?
とりあえず、挨拶から始めるべきだろうか。クリスティーネを見て怖がっている文官に頑張ってニコリと微笑む。
「ごきげんよう。お、お疲れ様です」
「えぇっ!?あ、はいっ」
驚きつつも挨拶を返してくれた。無視されることも覚悟していたので、挨拶して良かったと安堵する。
その後も、通りかかる文官たちに挨拶をしていく。何人かは挨拶を返してくれた。
もう、足が棒になりそうだ。けれど、執務室についたので、良しとしよう。
「失礼いたします」
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