I.事の始まり
キードゥル82年8月
「……おはよう存じます、アイシェ様」
「レヴェッカ、おはよう存じます」
レヴェッカ・ドフェルの声掛けで、エミリエールが第三領女、アイシェ・エミリエールは目を覚ました。
レヴェッカはツンと嫌そうな顔で、アイシェから顔を背け、窓を開ける。レヴェッカに着替えを手伝ってもらった後、食事を取りに行ってもらった。
その間に側近の二人を部屋に入れる。
いつも通りの光景だ。全く変わらない、平凡な日常。
『おはよう存じます、アイシェ様』
「おはよう、ローゼット、ヤドハロート」
部屋に入れた二人。
そのうちの一人。ローゼット・エーデルは上級武官。アイシェの従兄でもある。アイシェが側近を決めるときに、アイシェの姉――フェルーネ・エミリエールが自身の側近から移動させた。親族の中では唯一、アイシェを邪険に扱わない人物である。
そして、もう一人。ヤドハロート・クルーズは上級文官。アイシェの幼馴染。アイシェが側近を決める際、唯一立候補した人物だ。
レヴェッカは中級介添えだ。両親が勝手にアイシェの側近になることを決めたため、アイシェを恨んでいる。アイシェが決めたことではないのだが。
「そういえば、今日はお仕事はお休みのはずでは?」
そう。ヤドハロートとローゼットは今日の仕事は休むと言っていた。それなのに、なぜ来たのか?
「レヴェッカと二人きりというのは心配ですから」
「そうです。朝くらいは行こうとローゼットと話していました」
「そうなのね。心配してくれてありがとう」
二人の心配にアイシェは軽く微笑む。アイシェにとって、自分のことを心配してくれる人物というのは本当に少ないのだ。
そのとき、レヴェッカがドアを開け、部屋に入ってきた。ワゴンの上には朝食と昼食がのっている。
「只今戻りました」
「おはよう、レヴェッカ」
「あら、ごきげんよう、ローゼット、ヤドハロート」
(……仲良くはなれないのですよね)
相変わらず、ピリピリとした側近たち。だが、そんな理由で解任は不可能だ。ヤドハロートとローゼットは男性なので、着替えの手伝いなどができるのはレヴェッカだけだから。
貴族の着替えはボタンやリボンが背中側にあることが多く、一人ではできないため、不便だ。
「では、私たちは行きますね」
「えぇ、ありがとう。ローゼットはまた明日。ヤドハロートは一週間ほどね」
アイシェはローゼットとヤドハロートに軽く手を振る。
ヤドハロートは一週間ほど、クルーズ家の事情で村の視察に行くことになっている。ローゼットはまた別の事情だ。
「……わたくしはしばらくお仕事をします。レヴェッカは好きにしていていいですよ」
「そうですか。では、わたくしも失礼いたしますわ」
朝食を食べ終わった。レヴェッカが昼食は小さめの棚の上に置く。
アイシェが声をかける。その言葉を待っていたと言わんばかりに、レヴェッカが食器を持ってお部屋を出ていき、それを見届けたアイシェはテーブルに書類を広げた。
午前中はお仕事を大量に終わらせなければならない。
「フレイティ」
魔法を使って、書類を浮かせ移動させた。
アイシェはこれくらい、杖を使わずとも使える。現在使用している机は執務机ではなく、私的なテーブルなので、あまり大きさがないのが欠点だ。だが、そんなことを申し立てたところで、あの領主と次期領主が執務机を用意してくれるわけがない。
羽ペンを持って、計算などをしていく。万年筆がほしいところだ。
今度フェルーネにお願いしてみるのも良いかもしれない。それくらいなら、フェルーネにアイシェが書類仕事をしていることもバレないだろう。
書類仕事を始めて数時間。零の刻。
棚に置かれた昼食を一人で黙々と食事を食べて、書類仕事に戻った。一応、今日の分は終わっているが、それだけだと叱られる。
ふと、窓を見た。アイシェの部屋からは見にくいが、かすかに城の庭が見える。
「……マリナ」
金髪を揺らして、花を愛でているだけで幸せそうに笑っている十二歳の女の子。可愛いこと、この上ない。
(仕事に集中っ!)
「フレイティ」
書き込みが終わった書類を移動させつつ、計算をしていく。
そうやって、書類仕事を終わらせること三時間。陰三の刻になった。
もらっていたお仕事を全て終わらせた。通常の成人領主一族の三日分の仕事量なのだが、アイシェは気付いていない。
「行かないと」
(……あそこに行くのはやはり憂鬱なものですね)
あそこ――領主であり、父親でもあるトーマス・ロード・エミリエールの執務室では行く度に罵られる。
アイシェは憂鬱な気分で大量の書類を持ってトーマスの執務室に向かった。
「失礼いたします、エミリエール領主」
アイシェの自室から、長い廊下を歩いて階段を降り、少し歩いたところにトーマスの執務室はある。
アイシェはノックをして、執務室に入った。アイシェが入った瞬間、ピリピリとした空気が流れ出す。
「あぁ、アイシェか。トールに預けろ」
いつも通り、トーマスはやらないのに、お礼の一つも言わない。だが、どうにかできることではない。アイシェはそれを分かっているから、反論はせず「かしこまりました」と頷く。
アイシェが書類を手渡したのはトール・エミリエール。
アイシェの兄だ。トールは嫌なものを見るような――否、嫌なものを見る空色の瞳をこちらに向け、手を差し出す。
アイシェはトールに書類を全て渡し、踵を返す。
「早く帰ればいいのに」
「本当にね。〈呪われた子〉が来るだけで、空気が悪くなるんだもの」
「血の瞳を持つ、〈呪われた子〉め」
いつも通りの言葉だ。わざわざ聞こえるように言うのだから、困ったものである。もっと人がいないところでやるべきだと、アイシェは思っている。
「失礼いたしました」
ニコリと微笑んで執務室を出る。
アイシェは自室の方へ戻りつつ、廊下から外を眺めていると、またマリナが見えた。
すると、こちらに気が付いたマリナは大きく手を振る。
(…………淑女らしくありませんね)
そう思っていても、嬉しいと、愛おしいと思っている。アイシェはマリナに軽く手を振り返した。
アイシェは来た道を戻り、庭に出ることにする。
そうして、アイシェは正面玄関を避け、下女などが使う玄関から庭に出た。
少し歩くと、マリナが見えてきた。アイシェに気付くと、マリナはタッタッと走ってアイシェに近寄った。
「ごきげんよう、マリナ」
「ごきげんよう、アイシェお
「えぇ。でも、あのように大きく手を振るのは駄目ですよ」
「……はぁい。でも、お
アイシェは、マリナが花冠を頭に乗せていることを話題に出す。アイシェの目にはマリナが花の妖精のように見えた。
「ところで、その花冠は誰に?」
「あぁ、これですか?可愛いですよね。前にお
アイシェが幼い頃、フェルーネに教えてもらったものだ。フェルーネは今は亡き母――メディナ・ワイフ・エミリエールに教えてもらったと言っていた。
「えぇ、とても上手にできているわ」
「お
……ずっと気になっていたのですけれど。
「……ところで、側近はどちらに?」
マリナは一瞬、無表情になった後、そのまま無言でニッコリと笑った。
その時、「フォーマカードゥ」と声がした。火の基礎魔法だ。
(……火の魔法っ!……襲撃ですか!?)
まだ魔法はとんでこない。基本的には、詠唱をしたらすぐに魔法が発動されるのものだ。だが、優秀な魔術師は詠唱から少したってからの発動も可能だという。
「マリナ、下がって!」
アイシェは声が聞こえた方向からマリナを守るように立ち位置を変えた。その後、杖を出し、防御魔法を行使する。マリナは頭が混乱して、杖を出せていないようだった。
もう一度、「フォーマカードゥ」と言う声が聞こえた。今度は、後ろから。
火の魔法がアイシェの腕のすぐ横を通って空へ飛んでいった。
「……あがぁっ……ッッ!」
「……マリナ?」
マリナのうめき声。アイシェはゆっくり後ろを振り返った。
「……っぁあ…」
マリナの白い腕に、赤い血が垂れていく。マリナは腕を抑え、しゃがみ込む。その顔は、誰が見ても騙される、燃えるような痛みに耐えている顔だった。
(……い、や……!嫌ぁっ……!)
「誰か!誰かっ!!」
急いで駆け付けた城勤めの者たちにマリナは医療室に運ばれていった。
そして、今。アイシェは意識を失ったマリナの隣に座っている。
医療長が水の治癒を掛けたが、水の治癒は光の治癒の回復量に遠く及ばない。今のエミリエールには光の魔力保持者である医療員はいないので、どうにもならない。唯一、マリナ本人は光の魔力保持者だが、自分自身に治癒魔法を行使することはできない。
水の治癒によって、マリナの傷は塞がった。だが、一月ほど痛みは残るし、傷も残る、と医療長は言っていた。
マリナが傷を負ってから数時間。もう〈闇の神〉ディードジェスタの時刻。日は暮れ、ホー、ホーとふくろうが鳴いていた。
マリナの眉がピクリと動き、ゆったりと開かれる。橙の瞳が見えるようになった。
「……ぅあっ」
「ま、まりっな?」
「あー、アイシェお
甘い声を出し、「あははっ」と笑って起き上がる。月の光が逆光して、マリナの橙色の瞳が目立って見える。
「マリナっ、だ、大丈夫、なの?お、お父様たちを呼んでくるからっ」
嬉しさで、アイシェは涙を流す。立ち上がろうとしたアイシェの腕をマリナがグッと掴んだ。とても傷を負っているとは言えないような力だ。
「お
傷を負っているとは思えないような笑みを浮かべるマリナに、アイシェは少し深呼吸をして、椅子に座りなおした。
「あははっ、お
換気をするために開け放たれた窓から風が吹き、マリナの金髪が揺れる。アイシェとマリナの目が合うと、橙色の瞳が赤く染まっているのが分かった。
(……わたくしのような、鮮赤色)
「ま、りな?あ、貴女はっ何を言って……?」
「まだッ分かっかんないんですかぁっ!?あーもっ!どれだけ鈍感になれば気が済むんですか!?そういうのは好きな男の前で、やってればいいんですよ!わたしなんかにやって意味なんて一つもないですよ!わたしはっ、
(……マリナが、何を言っているのか、分からない。なんで、そんなことを言うの?)
「もういいです。復讐は明後日くらいには終わり。わたしは貴女のいない世界で、楽しく生きていきますから」
マリナは首に下げていた黒い魔石のペンダントを手に取る。トーマスの養女になる前からずっと持っていたもので、これ以外のペンダントを身につけようとはしなかったし、これを肌身離さず持っていた。
「おやすみなさい、
黒い魔石が光ると、ガクンと意識が揺らぐ。座っていられなくなるような睡魔が襲ってきて、アイシェは意識を失うように眠りについた。
「まり、な……」
「さ、連れてって?」
ディルト・マリナ――否、マリナ・ドティフ・エミリエールは淡く笑って命じる。
その命に頷き、レヴェッカ・ドフェルとルードルフ・ドフェルはアイシェ・エミリエールを連れ出した。
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