夕凪燕 短編集 ー 「螺旋階段の郵便配達人」
夕凪燕
第1話 「終わらない階段」
郵便配達人の男は、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、鞄の重みを確かめた。革の鞄にはぎっしりと手紙が詰まっている。そのほとんどは街の人々のもとへ届けられる、いつもの便りだ。だが一通だけ、見慣れぬ宛名があった。
差出人不明。宛先は「螺旋階段の上」。
はじめて見る住所に、男は眉をひそめた。地図には載っていない。しかし郵便配達人の鉄則は「どんな手紙も必ず届ける」だ。彼はため息をひとつ漏らすと、まだ温もりの残る朝食のパンをかじり、歩き出した。
噂は聞いたことがある。街の外れに、やたら高い螺旋階段があるらしい。誰が造ったのか、どこに続いているのか、誰も知らない。面白半分で登り始めた者は、途中で戻ってくるか、あるいは二度と帰ってこないとも言われていた。
男は配達帽を深くかぶり直し、重たい靴音を響かせながら、階段の麓に立った。
――本当に、ここで合っているのか?
黒い鉄でできた階段は、ぎしぎしと軋む音を立て、まるで空へねじ込まれるように延びていた。曇天の中に吸い込まれていくその姿は、不気味でありながら、なぜか心をざわつかせる。
配達人は手にした封筒を見た。宛名はたしかに「螺旋階段の上」。
「……なら、登るしかない」
決意を胸に、男は一段目に足をかけた。
⸻
登り始めてすぐに気づいた。階段はただの階段ではない。
十段ほど進むと、踊り場に小さな屋台が現れた。湯気を立てる鍋を囲んで、帽子をかぶった老人が一人、にやにやと笑っていた。
「おや、お客さんかい。郵便屋とは珍しいね」
「いや、配達中でして……」
「配達? そりゃご苦労なこった。だがあんた、気をつけな。ここじゃ階段そのものが客人を試すんだ」
老人は、意味深に目を細めた。
「試す?」
問い返す間もなく、老人の屋台もろとも、すうっと消えた。気づけば配達人は、何もない踊り場に立ち尽くしていた。
「……はて?」
不思議に思いつつ、再び歩き出す。
⸻
次の踊り場には、巨大な靴がいくつも積み重なっていた。革靴、長靴、ハイヒールにサンダル。山のようにそびえる靴の中から、か細い声が響く。
「郵便屋さん……手紙はないかしら?」
靴の隙間から現れたのは、靴職人らしい少女だった。煤で黒くなった頬を拭いながら、彼女は切実な眼差しを向ける。
「ごめんなさい。宛先は“螺旋階段の上”なんです」
「そう……やっぱり私のところじゃないのね」
少女は肩を落とすと、靴の山に溶け込むように消えていった。
配達人は汗を拭いながら、再び歩を進めた。
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どれほど登っただろう。何度も現れては消える住人たち。宙吊りのカフェでコーヒーを勧める夫婦、いつまでも「上か下か」で言い争う学者たち。彼らはみな一様に、手紙を欲しがった。しかし封筒の宛先は変わらない。
――螺旋階段の上。
配達人は、ふと封筒を持つ手に奇妙な重みを感じた。
「ん……?」
最初に持ったときよりも、重くなっている。まるで階段を登るほどに、手紙が膨らんでいくかのようだ。
「宛先だけでなく、中身まで……?」
彼は立ち止まり、しばし悩んだ。配達人として封筒を開けることは許されない。しかし、このまま登り続けて、果たして届け先にたどり着けるのだろうか。
風が吹いた。階段がきしむ。雲がうねり、遥か上空へと続いているのが見える。
配達人は帽子を押さえ、にやりと笑った。
「まあいい。上があるなら、登るだけさ」
再び足を踏み出した。ぎし、ぎし、と響く鉄の音が、不思議と心を高鳴らせた。
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階段は果てしなく続く。
配達人の鞄の中では、ただ一通の封筒がじわじわと膨らみ、音もなく脈打っていた。
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