夕凪燕 短編集 ー 『セーブポイントの向こう側で』

夕凪燕

第1話 「はじまりの草原、スライムは笑う」

 目を開けたら青が広がっていた。雲は飴玉みたいに丸く、風はゲームのオープニングでしか吹かないはずの完璧なさわやかさをしている。

 ――ここ、タイトル画面? いや、まぶたの内側にUIは出ない。


 立ち上がると、視界の端に薄いウィンドウが現れた。

《ようこそ、ルミナリア・オンラインへ。あなたは“勇者候補”としてチュートリアルを開始します》

 勇者候補。高校二年、日直のノートをしばしば落とす俺に、やけにまぶしい肩書きだ。


「……夢、だよな?」

《夢ではありません。ちなみにピンチのときはジャンプで回避が有効です。あと、初回は相棒のスライムが支給されます》

「スライムが、支給?」


 足元で、ぴょこん、と水風船が跳ねた。

「ぴ!」

 透明で、真ん中に金平糖みたいな核がきらっと光る。可愛い。

《名前をつけてください》

「……じゃあ、ピポ。よろしく」

「ぴぽ!」

 プルプル震えた表面から、小さなステータスが浮かぶ。《ピポ Lv1/特性:まもる、すいこむ、まけない心》。最後の一行が妙に心強い。


 草原の先に、小さな町が見える。木の塀、赤い屋根、石畳。どこからどう見ても、チュートリアルの拠点だ。

《目的:森の祠で“風の紋章”を手に入れ、セーブポイントを解放しましょう》

 セーブポイント。そこまで行けば、きっと何かがわかる。帰り道だって見つかるかもしれない。


 町に入ると、案内板の横でハンマーを肩に担いだ少女が手を振った。

「新顔! 勇者候補だね? 私はアリア、鍛冶屋見習い。装備、いる?」

「剣、ありますか」

「もちろん! 初心者向けね――でもただで持ってけとは言わないよ。かわりに一つ、お願い。森の祠で鉄花(てっか)を拾ってきて」

 依頼。完全にゲームだ。けれど彼女の笑顔は画面の向こうの作り物に見えない。

「わかった。必ず持って帰る」

「ありがと! 帰ってきたら、その剣、ちゃんと“君の剣”に仕立て直してあげる」


 ピポが袖を引っ張る。

「ぴ!」

「行こう」

 森へ続く小道は、陽の光を刻んだような斑(まだら)の影が揺れていた。鳥のさえずりがステレオみたいに左右から届く。俺は右手に剣、左手にピポ(抱き心地は想像以上に冷たくて気持ちいい)を抱え、深呼吸して一歩を踏み出した。


 最初の敵はキノコ。つぶらな瞳でこちらを見上げ、ぴょんと跳ねてくる。

「かわいい顔してるけど――来るぞ、ピポ!」

「ぴ!」

 ジャンプ、回避、斬撃。……斬れない。やっぱり現実の腕はバフが足りない。

「うわ、硬っ」

《ヒント:相棒“すいこむ”》

「ピポ、吸い込め!」

「ぴぽ〜!」

 ピポが深呼吸みたいに膨らむと、キノコの毒霧が吸い込まれ、体内の核が緑に色づいた。

《ピポに“毒耐性(弱)”が付与されました》

「えらい!」

 調子に乗ってもう一匹。今度は斬撃が通る。手のひらがじんわり熱い。達成感というやつだ。


 森の奥、風鈴みたいな音がして、苔むした祠が現れた。鳥居のような石枠の中心に、薄い膜が張られている。

《ミニボス:森の守り手》

 空気が渦を巻き、葉が舞い上がる。現れたのは小柄な獣人の騎士――狐の耳がぴくりと動く。

「勇者候補、名を名乗れ」

「……ユウ。普通の高校生だった」

「よかろう。吾はカザネ、この祠の番。風に好かれるか、試させてもらう」


 最初の一撃は見えないほど速かった。斜め上からの斬り下ろし。反射で剣を上げると、火花が散って腕が痺れる。

「ピポ!」

「まもる!」

 ピポが盾みたいに体を広げ、次の連撃をふにゃっと受け止めた。弾力、すごい。

《ヒント:風の“間”を読む》

 風が頬を撫でる。木々のさざめきが一瞬だけ止まる。――今だ。

「はっ!」

 踏み込み、横薙ぎ。カザネの剣がわずかに遅れ、彼の足元の葉が逆巻いた。

「見えたか」

「風鈴が鳴く前、音が吸い込まれる瞬間がある!」

「合格だ」

 剣先が俺の肩に軽く触れ、痛みの代わりに涼しい風が流れ込む。膝の力が抜けて座り込みそうになったところへ、カザネが笑った。

「風は軽やか、だが逃げない者に味方する。――これを持て」


 祠の膜が淡く開き、小さな紋章が宙に浮かぶ。銀の翼が刻まれたペンダント。

《“風の紋章”を手に入れた!》

 同時に、祠の奥で光の柱が立ち上がる。

《セーブポイントが解放されました》

 光の柱に近づくと、指先にぬるい電流が走り、どこか遠くのドアがノックされたような気配がした。

 ――帰り道、ほんとにあるのかもしれない。


「ユウ」

 カザネが真顔になる。狐耳がぴん、と立った。

「この世界は“ゲーム”だ。しかし、われらの痛みも、笑いも、すべてたしかにここにある。忘れるな」

「忘れない。俺は帰りたいけど、目の前のクエストもちゃんとクリアするよ」

「それでいい。風は君の背を押す」


 町へ戻ると、アリアが目を輝かせて走ってきた。

「帰ってきた! どうだった?」

「風の紋章、手に入れた。はい、鉄花」

「すごっ――ほんとに勇者候補なんだね。約束どおり、その剣、君だけの一本にしてあげる。名前、刻む?」

「刻んでくれ。“ホーム”って」

「ホーム?」

「帰る場所って意味。いつか――ちゃんと帰る。そのときまでの相棒だ」


 鍛冶場の炉がぼうっと明るくなる。火花が飛び、金属の歌が始まった。ピポはそのリズムに合わせて、たぷたぷと体を揺らす。

 セーブポイントの光は、町外れの丘で静かに瞬いている。次のクエストの矢印は、遠い砂漠のほうを指していた。


 冒険は始まったばかりだ。

 でも――スタート画面よりも、今のほうがずっとわくわくしている。

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