五十一睡目 体育と睡眠と

 体育祭の準備が、本格的に始まった。


 グラウンドには新しく引かれた白いラインがまぶしく浮かび、普段はどこか眠たげでだらけた空気のクラスも、今日はそわそわと落ち着かない。まだ夏の名残を引きずった陽射しがじりじりと肌を焼き、踏みしめるたびに乾いた砂が細かく音を立てる。


 風が吹くたび、汗と土の匂いが混ざった空気が頬をなでていった。


 遠くで別のクラスの笑い声がはじけ、誰かのホイッスルが高く澄んだ音を空に投げる。その音に引き戻されるように、真白はぎゅっと指先を結んだ。


 体育は、正直言って得意じゃない。

 走ればすぐに息が上がるし、動きも特別速いわけじゃない。それでも、だからこそ中途半端にはしたくなかった。ちゃんと汗をかいて、ちゃんと息を乱して、ちゃんと“やった”と言える時間にしたかった。


 その隣で。


「……運動、苦手」


 鳴古が、ぽつりと呟いた。

 ジャージの裾を指先でつまみながら、気のない視線でグラウンドを眺めている。やる前から疲れているような、いつものゆるい表情。


「ちゃんとやらないとだめだよ」


「……真面目だねえ……」


 けれど、その声に本気で嫌がる響きはなかった。逃げるでもなく、文句を言いつつも、そのまま真白の隣に立ち続けている。


 結ばれた紐が、ふたりの足首を軽く引き寄せた。


「よーい、スタート!」


 合図がかかり、反射的に地面を蹴った。


 思ったよりも強く踏み出してしまって、結ばれた足がぎこちなく引っ張り合う。

 ほんの一拍、呼吸がずれただけで、世界がぐらりと傾いた。


 一歩目で早速タイミングがかみ合わず、ふたりの体が同時によろける。


「あ、ちょ、待って!」

「……真白、速すぎ」


「鳴古が遅いんでしょ!」


 前に出たい足と、引き戻される足。

 重なるはずのリズムはばらばらで、ぎくしゃくとした動きが余計にバランスを崩す。


 紐がぴんと張り、足首にきゅっとした圧が伝わる。

 ふたり揃ってつんのめり、今にも転びそうなところで、咄嗟に真白は鳴古の腕をつかんだ。


「ちょっと……!」

「転ぶ転ぶ!」


 声が重なり、勝手に近づいた距離に一瞬だけ戸惑う。


 しかし止まれない。


 足だけが先に進もうとするのに、体はうまくついてこない。

 右、左。どっちだっけ、と考えた瞬間、動きはさらに混乱して、今度はほとんどスキップのような不格好なステップになる。


 周りからはくすくすと笑い声が漏れた。


「ぐだぐだだなー!」

「そっち息合わせなきゃ無理でしょ!」


 声が飛んでくるのに、真白の耳にはほとんど届いていない。

 意識の大半は、鳴古の動きと、自分の足と、その間の距離だけに集中していた。


 息が近い。

 吐く息が、頬のあたりでふわりと触れ合う。


「ちょ、鳴古、右!右だって!」

「……今どっち……?」


「そっちじゃないってば!」


 ふたりの声は次第に必死で、でもどこか笑い混じりで、まるでじゃれ合っているみたいだった。


 ついに大きくバランスを崩し、斜めに体が傾く。


「わっ……!」


 転ぶ、と思った瞬間。

 真白の肩に、どん、と鳴古の体がぶつかった。


 熱と重さが、はっきりと伝わる。


「ご、ごめ……!」

「だ、大丈夫……?」


 それでも奇跡的に転ばず、ふたりはぐちゃぐちゃな歩き方のまま、なんとか一周を走りきった。


 ゴールにたどり着いたころには、動きも呼吸も、完全にばらばら。

 息を切らし、肩で大きく呼吸しながら、思わず顔を見合わせる。


 そして、ふっと同時に苦笑した。


 息が互いに近い。呼吸のリズムどころか、鼓動の速さまでが伝わってくる距離。

 近すぎるくらいなのに、なぜか不思議と居心地は悪くなかった。


 それでも真白は、無意識に鳴古の腕をつかんだままだった。

 転ばないように、離れないように。


 その感触が思ったよりも確かで、じん、と指先に残る。


 ほんの一瞬だけ、心臓が強く跳ねた。


 太陽は容赦なく、背中を焼くように照りつけている。

 額の汗が頬を伝い、まつ毛の影を濡らしていく。


 影だけが静かに、よろよろと頼りないふたりの動きを真似しながら、足元に長く伸びていた。

 何度か走り、息が上がる。

 喉の奥が熱く、肺がぎゅっと縮む。それでも真白は膝に手をつきながら、「もう一回やろう」と小さく笑った。


 その姿は、頑張り屋というよりも、どこか健気だった。


「……真白」


「なに?」


「……そんなに頑張らなくても、いいのに」


 鳴古の声には、からかいではない、少しだけ本気の温度が混じっていた。


「でも、ちゃんとやりたいの」


 真白の言葉は小さいけれど、まっすぐで、揺るがない。


 鳴古は少し黙って、その横顔を見つめていた。

 額に浮かんだ汗、息を整えようと上下する胸、でもどこか楽しそうな、前向きな目。


 やがて、ぽつりと。


「……じゃあ」


 真白が首をかしげる。


「……真白の応援係になる」


「え?」


「……走るのは苦手だけど、応援なら得意」


 腕を組んで、どこか誇らしそうに。でも視線は少しだけ逸らしている。


「……ちゃんと頑張ってる真白、見てる係」


 その言葉が、ふと空気を変えた。


 騒がしいはずのグラウンドが、ほんの一瞬だけ遠くなる。

 胸の奥に、あたたかいものが落ちていく感覚。


「……それ、ずるくない?」


「……なにが」


「応援って、一番そばにいるってことじゃん」


「……そうだけど?」


 さらりと言われて、真白は小さく息をこぼす。その表情は困ったようで、でもどこか嬉しそうだった。


「じゃあ、ちゃんと応援してね」


「……うん。全力で」


 その“全力”は、鳴古らしい静かなものだろう。大声で叫ぶわけでも、派手に手を振るわけでもない。ただ、いちばん近くで、ちゃんと見ていてくれる。


 それで十分だった。


 夕暮れに近づいた空は、うすく橙色を帯びはじめていた。

 風が少しだけ涼しくなり、汗ばんだ肌をやさしく冷ましていく。


 結ばれた足の感覚と、ほどけない距離。

 並んだ影が、ひとつのかたちになる。


 体育祭の準備は、静かに、でも確かに進んでいく。

 そしてその時間の中で、ふたりの距離も、気づかれないほどゆっくりと、自然に縮まっていった。

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鳴古さんはいつも眠い。~過眠症ギャルののんびり青春百合ライフ~ 貝塚伊吹 @siz1ma

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