四十五睡目 日焼と睡眠と
翌朝、目が覚めると、腕のあたりがじんわりと熱を持っていた。
日焼け止めを塗ったはずなのに、昨日の陽射しは思ったよりも強かったらしい。
布団の中の空気まで、どこか夏の匂いを含んでいる。
寝返りを打つたびに、シーツが汗を吸い込んだ感触がして、少しだけ現実に引き戻された。
鏡の前で腕を伸ばしてみると、少し赤くなった肌が、夏の名残のようにひりひりと疼いた。
指先でそっと撫でると、じんわりとした熱が指に移る。
昨日、波打ち際で笑っていた自分の姿が、ふと脳裏をよぎる。
風に髪を揺らす鳴古の横顔、オレンジ色の光、冷たいソーダアイス。
どれも夢のように遠く、けれど、まだ確かに身体のどこかに残っていた。
そのとき、スマホの通知が震えた。
鳴古からのメッセージだ。
〈肩、痛い〉
〈焼けた?〉
〈……うん。冷やしてる〉
〈ちゃんとアロエ塗った?〉
〈塗った。……ヒリヒリ〉
〈それ、昨日の頑張りの証だね〉
〈……頑張ったのは、日差し〉
思わず笑って、ベッドの上で転がった。
鳴古の短い言葉には、いつも独特の間があって、読み返すたびに余韻が残る。
まるで、行間に小さな呼吸があるみたいだ。
〈今日、何してるの?〉
〈宿題、少しだけ〉
〈珍しい〉
〈……昨日、真白に会ったから〉
〈どういう理屈?〉
〈……やる気が出た〉
その言葉が少し嬉しくて、私は返事を打つ指先を止めた。
画面の光が、まだ眠そうな瞳に反射する。
窓の外では、風がカーテンをゆっくり揺らしている。
蝉の声はまだ残っているけれど、その合間に混じる風の音は、どこか涼しかった。
季節の境目というのは、きっとこうして気づかないうちにやってくるのだ。
〈じゃあ、勉強会する?〉
〈……どこで〉
〈図書館とか。静かだし〉
〈……真白、もう終わってるでしょ〉
〈少しは残ってるよ。付き合う〉
〈……やさしい〉
〈当然〉
画面を閉じたあとも、心の中には鳴古の声が残っていた。
文字なのに、声の抑揚まで浮かぶのは不思議だ。
少し拗ねたような、でも優しい響き。
昨日の帰り道、あの「……夏が終わっちゃうの」という声の余韻と、どこか同じ色をしていた。
数分後、鳴古からまた短い通知が届いた。
〈じゃあ、明日。午後〉
〈了解〉
そのままスマホを伏せて、私は天井を見上げた。
白い天井の模様が、波のように見えた。
昨日の海の光が、まだ瞼の奥に残っている気がする。
潮風の匂い、笑い声、そして鳴古の髪の間から漂ったシャンプーの香り。
それらが混ざり合って、淡い夢の残り香のように心をくすぐった。
ふと机の上の宿題ノートを開く。
未完成のページに、波のような影が落ちている。
昨日までは面倒で仕方なかった課題が、今日は少しだけ違って見えた。
「鳴古と会うためにやる」と思うと、鉛筆の芯が軽く動く。
ページをめくる音の向こうで、蝉がひときわ高く鳴いた。
その声が消えると、部屋に静けさが戻る。
まるで夏の残響を確かめるように、真白はペン先で小さく点を打った。
昼を過ぎると、陽射しの角度が変わった。
ベランダの鉢植えの影が少し伸びて、部屋の奥まで届いている。
風の匂いも、どこか澄んでいた。
冷たい麦茶を飲みながら、私は昨日の波の音を思い出す。
あのとき感じた胸の痛み――「終わってほしくない」と思った感情が、今も小さく胸の奥に残っていた。
スマホがもう一度震えた。
〈真白、明日さ……アイス、また食べたい〉
〈いいね。今度はチョコ?〉
〈……うん。でも、溶ける前に食べきる〉
〈それができたら、鳴古は天才〉
〈……努力する〉
そのやりとりのあと、私は思わず吹き出した。
笑いながら、胸の奥に小さなあたたかさが広がる。
昨日の夏はもう戻らないけれど、こうして続く時間が確かにある。
それだけで十分だと思えた。
外へ出たくなって、私は軽く着替えて家を出た。
午後の街は、日曜らしい静けさに包まれている。
自転車のベルの音、氷を砕く店の音、遠くで流れるラジオの声。
どれも少し霞んで、夏の終わり特有の柔らかさを帯びていた。
近くの公園に行くと、噴水の水しぶきが陽の光を散らしていた。
子どもたちの姿は減って、ベンチの影に座る人たちがまばらに見える。
私は木陰のベンチに腰かけて、空を見上げた。
白い雲が、少しだけ薄くなっている。
昨日の海と同じ空なのに、まるで別の時間みたいだった。
ベンチの上で、鳴古のメッセージをもう一度読み返す。
「……やる気が出た」
「……努力する」
短い言葉の奥に、たぶん照れくささが隠れている。
その照れを想像するだけで、頬が自然とゆるんだ。
帰り道、風が少し冷たくなった。
蝉の声の代わりに、草むらの中から鈴虫の音が混じり始めている。
季節は確実に進んでいく。
それでも、昨日の海で見た光は、今も私の中で静かに波打っていた。
ベッドの上で伸びをして、赤くなった腕をそっと撫でる。
ひりつく感触が、昨日の太陽の証のように生々しい。
その痛みの中に、ほんの少しの幸福があった。
触れるたびに、昨日の海が思い出される。
私は窓を開けた。
風がゆっくりと入り込み、カーテンを揺らす。
遠くの空で、雲の影がゆっくりと流れていく。
その動きが、季節の手触りのように思えた。
「明日は、どんな風が吹くんだろう」
つぶやくように言って、窓を閉める。
まだ部屋の中には、夏の名残が残っている。
けれどそれはもう、終わりの気配を帯びた優しい熱だった。
ひりつく腕をそっと撫でながら、私は小さく息を吐いた。
明日はきっと、少し秋に近い風が吹く。
そしてまた、鳴古と並んで机に向かう時間が始まる。
――夏の続きを、少しだけ違う形で。
そんな予感が、心の奥で静かに灯っていた。
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