三十四睡目 会話と睡眠と
放課後、紫前先生から頼まれた用事で体育館に寄ることとなった。今日は体育倉庫の鍵を返すだけの簡単な用事だ。廊下を歩きながら、鳴古がのんびりと私の隣に並ぶ。いつも通り半分眠そうに目を細め、制服の袖で顔をこすっている。
「……眠い。」
「また授業中に寝てたでしょ。」
「……午後まで持たなかった。」
「そっか、午前も寝てたのに?」
「……午前だから、余計に眠い。」
相変わらずの言い分に、私は小さく笑う。鳴古のそのぐだぐだした表情も、なんだか愛おしい。足取りはのんびりとしていて、私が少し歩調を速めると、彼女はゆっくりと私に追いつこうとする。
体育館に到着すると、私は倉庫の扉を開け、鍵を差し込んで回す。金属の音が小さく響き、冷たくて埃っぽい空気が鼻をかすめた。中にはバスケットボールやマット、各種用具がきちんと並んでいる。簡単に目を通すと、棚の隅に置かれた跳び箱の角に鳴古が手をついて体を支えながら、ゆるりと覗き込んでいる。
「……これ、重そうだね。」
「いや、今日は返すだけだから。見るだけだよ。」
「ふーん……」
彼女は興味ありげに倉庫の中を見回すけれど、すぐにふわりと目を細めてため息をつく。まるで空気の中で眠気が漂っているみたいだ。私はその背中をちらりと見て、自然と頬が緩む。
私は鍵を返し終えると、ふと倉庫の隅に小さな掃除用具のセットが置かれているのに気づいた。ちょっと手を伸ばして埃を払うと、鳴古が横から顔を出す。
「……手伝おうか?」
「大丈夫だよ。」
「……じゃあ、見てる。」
彼女の声は眠そうで、ときどき舌足らず。でも、その目は真剣で、私を見つめる角度が、少しだけ照れているようにも思えた。思わず顔が熱くなる。
倉庫の空気は静かで、床の木目が夕陽を反射してオレンジ色に輝いていた。鳴古の髪もその光を受けて金色が煌めき、ふわりと風が吹くと柔らかな匂いが漂ってきた。小さな瞬間、ただそれだけで世界が温かくなったように感じる。
用事を済ませた後、私は倉庫の外へと足を向けた。体育館の裏手に抜ける小さな扉を押して外に出ると、眩しいほどの夕焼けが広がっていた。長く伸びた体育館の影、風にそよぐ木々、校舎の窓――すべてが柔らかな茜色に染まり、世界全体がゆったりとした時間に包まれているようだった。
鳴古と並んで立ち止まり、私はしばしその光景を見つめた。夕陽に照らされた二人の影も、校庭の石畳も、いつもより少しだけ特別に見える――そんな気がした。
「……まぶしい。」
鳴古が目を細めながら隣に立つ。頬に赤い光が映えて、眠たげな表情もどこか柔らかく見えた。
「すごいね、今日の夕焼け。」
「……真白は、好き?」
「うん。こういうの見ると、なんだか安心するんだ。ちゃんと今日が終わるんだなって。」
「……ふむ。」
小さく相づちを打つ鳴古の声に、なぜだか少し嬉しくなる。言葉は少ないけれど、ちゃんと届いている気がするから。
「ほら、あの雲。アイスみたいじゃない?」
「……溶けかけてる。」
「そうそう。チョコソースかけたみたいでおいしそう。」
「……食べたら、口の中、真っ赤。」
「ふふっ、確かに。夕焼け味のアイスって、どんな味なんだろうね。」
くだらないやり取りなのに、自然と笑いがこぼれる。鳴古も口元だけ、ほんの少しだけど緩んでいた。
「ねえ、風、気持ちいいね。」
「……眠くなる。」
「またそれ? でもわかるかも。ちょうどいい涼しさだし。」
「……ここで寝てもいい?」
「だめだよ、体育館裏で寝てたら怪しまれるって。」
「……真白が見張ってて。」
「え、それ私も共犯じゃん。」
そんな他愛のないやり取りが、茜色の空の下でずっと続いていた。気づけば、胸の奥がじんわりと満たされていく。
だからこそ――つい、口に出してしまった。
「ねえ。鳴古って……私といるときだけ、よく喋るよね。」
自分でも驚くくらい、声が小さく震えていた。鳴古はしばらく黙ったまま、夕焼けを見つめている。
やがて――小さく口角を上げた。
「……そうかな?」
とぼけたように、気の抜けた声。けれど、その頬の赤さは隠せていなくて、私の胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
「え、そうだよ。だって授業中とかは全然……」
思わず言いかけたそのとき、鳴古がぽつりと、遮るように呟いた。
「……真白だから……かも。」
短いけれど、逃げ場のない一言だった。風が木の葉を揺らし、茜色がさらに濃くなる。それだけの言葉なのに、胸の奥にそっと触れられたみたいに熱が広がっていった。
「……っ!」
視線を逸らそうとしても、頬が火照って仕方がない。鳴古はもう夕焼けの方を見ていたけれど、ほんの少しだけ耳が赤くなっているのが見えて、胸がぎゅっと締めつけられる。
「な、なにそれ……ずるいよ、そういう言い方。」
照れ隠しに、思わず強めの声を出す。
「私だからって……どういう意味なの? ほかの人には……」
そこまで言って、喉が詰まった。問い詰めたいのに、言葉が先に逃げてしまう。胸の奥が締めつけられ、手のひらが自然に握りこぶしになってしまう。鳴古の視線は相変わらず遠くに向かっていて、私の動揺には気づいていないようだ。
私は小さく息を吸って、もう一度言おうとする。けれど、声にならない。胸の奥の感情があふれそうで、喉で止まってしまう。もどかしさで手をぎゅっと握りしめ、指先の震えに気づく。鳴古がそっと手を伸ばしてくれたら、握ってしまいたくなる――そんな衝動に駆られる。
沈黙が、夕焼けの光と一緒に二人を包み込む。言葉がなくても、胸の奥の熱が伝わる気がして、自然と肩が少し近づいたような錯覚に陥る。鳴古は微動だにせず、ただ夕陽の色を見つめ続けている。
体育館の裏手。二人きりの茜色の時間。
鳴古の言葉は、夕焼けと一緒に、静かに私の心を染めていった。
私はまだ問い詰められずにいるけれど、それでもこのままの時間が、永遠に続いてほしいと思った。
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