三十一睡目 図書と睡眠と
放課後の図書室は、昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返っていた。
窓から差し込む柔らかな夕陽が、本棚の背表紙を撫でる。光と影がゆるやかに揺れ、その一つひとつがこの空間を小さな聖域のように包み込んでいた。
ページをめくる音や、遠くで咳払いをする気配がかすかに響くだけ。
その落ち着いた空気が胸の奥までじんわりと沁み込んでいくのを、私は心地よく感じていた。
「……どんな本、探すの?」
静けさを破ったのは、隣にいる鳴古の低く柔らかな声だった。
眼鏡の奥で眠たげな瞳がきらりと光り、分厚いベージュのカーディガンの袖口が歩くたびに揺れる。彼女の姿は、どこか季節の境目みたいに温かさと落ち着きをまとっていた。
「この前の授業で先生が紹介してくれたやつ……『白亜の門』だっけ。現代文学の棚にあるはずなんだけど。」
私は声を落として答え、二人並んで棚の間を進む。
正直、本を探すこと自体よりも、こうして鳴古と歩いている時間のほうがずっと嬉しい。夕陽の光を浴びてゆっくり歩く彼女の横顔を盗み見ては、胸の中にぽうっと温かな火がともるのを感じていた。
「……ここ。」
鳴古が足を止めた。
細長い指先が示した先、本棚の上段に目当ての本があるらしい。私は頷き、背伸びをして手を伸ばす。けれど、あとほんの数センチが届かない。
「んんっ……!」
つま先で踏ん張って手を伸ばした、その瞬間。
横から同じ本に向かって伸びた手と、私の指先がかすかに触れ合った。
「……あ。」
「……」
その一瞬だけなのに、指先がびっくりするほど熱を帯びて、息が詰まる。
私が慌てて手を引っ込めるよりも早く、鳴古はさらりと口を開いた。
「……前より、近いね。」
「え……」
静かな声なのに、心臓を直に叩かれたみたいに跳ね上がる。
視線を向けると、彼女は自然な手つきで本を取り出し、まるで何事もなかったようにページをぱらぱらとめくっていた。
夕陽が差し込む横顔に金色の髪が柔らかく揺れ、私の胸はざわつくばかりだった。
――「前より、近い」。
その言葉が、学園祭で一緒に過ごした「星空停留所」の情景を一気に呼び覚ます。
あのとき。
暗く仕切られた教室の中に、青白い光の投影と小さな街灯のランプが揺れていた。
周りに人の気配はあったのに、不思議と自分たちだけが取り残されたみたいに静かで、息づかいまでやけに近く感じられた。
――並んで腰かけた椅子、言葉の少ない沈黙。
照明に浮かび上がる横顔と、肩先がかすかに触れ合ったときのざわめき。
今、夕陽が包む暖かな図書室に立ちながら、そのときの柔らかな暗がりを思い出す。
光の色も空気の匂いもまるで違うのに、胸に広がる感覚はあのときと同じだった。
「……真白?」
「えっ、あ、な、なに?」
ぼんやりと回想に浸っていた私に、鳴古が小首をかしげる。
眼鏡の奥の瞳がまっすぐこちらを映していて、慌てて言い訳を探そうとした。
「う、うん! 本も見つかったし……借りよっか」
「……真白、顔赤い。」
「ちょっ……そんなことないから!」
小声で抗議すると、彼女は眠たげに瞬きをして、けれど口元をほんの少しだけ緩めた。
その穏やかな微笑みに胸がさらにかき乱され、視線を逸らすこともできない。
……そのとき。
「あっ、これだと思ったら全然違った。」
私は慌てて本を引き抜き、表紙を確認して顔を真っ赤にした。
そこにあったのは、どう見ても現代文学ではなく――色鮮やかな動物のイラストが並んだ児童書だった。
「えっ……なんで、こんなところに……」
しどろもどろになりながら本を抱え直す私の横で、鳴古がゆっくり瞬きをした。
「……それ、現代文学じゃない。」
「わ、わかってるよ! でも、紛れ込んでただけで……!」
必死に弁解する私をよそに、彼女は淡々とした様子で一歩近づいてきた。大きなカーディガンの袖がかすかに揺れ、細い指先がすっと伸びる。
「……ちょっと貸して。」
ひょい、とその本を受け取ると、鳴古は無表情のまま数秒だけじっと表紙を見つめた。眼鏡の奥で眠そうな瞳がわずかに細まり、金色の髪が肩でさらりと揺れる。
「……うさぎとカメ。」
「わーっ、声に出さないで! 恥ずかしいから!」
慌てて手を伸ばす私を軽くかわしながら、彼女はページをぱらぱらとめくる。その仕草も落ち着いていて、絵本を手にしているのがかえって不思議に見える。
「……真白が読むなら、似合いそう。」
「な、なんでそうなるの! 私そんなキャラじゃないし!」
「……慌てる真白、かわいい。」
「~~っ!」
耳まで真っ赤になるのが自分でもわかって、余計にしどろもどろになる。
彼女はようやく絵本を閉じると、何事もなかったように棚へ戻した。
「……現代文学のふり、してたのかも。」
「そんなわけないでしょ!」
小さな肩の揺れ。ほんのりと笑っているのが伝わってきて、胸の奥がざわつく。眠そうな顔のまま、楽しそうに私を見ている――そんな鳴古の仕草に、余計にどうしていいのかわからなくなった。
目の前には、夕陽に照らされる鳴古。
学園祭の「星空停留所」で感じた、あの静けさと包み込むような温もり。
今は暖かな図書室で、彼女がすぐ隣にいる。
どちらの時間も、私にとっては大切で、心を揺らし続ける記憶だった。
本棚の間に漂う、紙と光の匂い。
二人だけで分け合う静かな空気は、どこか秘密めいていて、けれど確かな幸せを含んでいた。
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