二十九睡目 大雨と睡眠と
放課後の空は、昼間の青さが嘘みたいに急速にくもり始めていた。西の方からどんよりとした鈍い灰色の雲が押し寄せ、風もじっとりと湿気を帯びている。嫌な予感がしてはいたけれど、まさかここまで急に、とは思わなかった。
「やばっ、降ってきた!」
校門を出て数分。ぽつりと頬に大粒の冷たい感触が落ちたかと思えば、次の瞬間にはバケツをひっくり返したような雨。通学路のアスファルトに白い水しぶきが弾け、視界が一気に霞んでいく。
「鳴古、走ろ!」
私は隣の彼女の腕をぐいっとつかんだ。
「……むり……走るのきらい……」
泣きそうな情けない声を漏らしながらも、鳴古は私に半ば引きずられるようにして前へ進む。ぽてぽてと小動物みたいな足取りで、雨の中をなんとかついてくる。
「もう、速く!」
「……転ぶ……」
「転ばないって!」
私は必死で笑いながらも手を離さず、角を曲がった先にあるコンビニの光を目指した。濡れた髪が頬にはりつき、シャツの肩口はすぐにじっとりと重くなる。
息を切らせながら駆け込むと、ようやく軒下の明かりにたどり着いた。
「ふう……助かった。」
背中を壁に預けて深呼吸をする。視界の端に、遅れて鳴古も追いついてきた。分厚いカーディガンの肩はぐっしょり濡れて、重たそうに張りついている。本人はあまり気にしていないように、眼鏡のレンズについた水滴を指でぬぐっていた。
「……びしょびしょ……」
「ほんとだよ。もうちょっとで全身ずぶ濡れになるとこだった。」
私は慌てて鞄を探り、いつも入れてあるハンカチを取り出した。鳴古に差し出すと、彼女は一瞬ためらうようにまばたきをして、それから小さな声で言った。
「……真白が、拭いて。」
「え、私が?」
「……うん。」
素直に受け取ればいいのに、と呆れつつも、断りきれない自分がいる。彼女の前に立ち、伸ばしたハンカチで額に貼りついた金色の前髪をそっと押さえる。すると、思ったよりも近い距離で、鳴古の顔が目に飛び込んできた。銅の様な縁がきれいなメガネが水滴で曇り、その奥の黒い瞳は相変わらず眠たげだけど、肌は白くて整っている。
「……よしっと。これで大丈夫かな。」
「……まだ濡れてる。」
「細かいなあ。自分でやりなよ。」
口ではそう言いながらも、耳の横に垂れた髪の先まで拭いてやる。こうして見ると、やっぱり鳴古は背が高い。私よりずっと大きく見える。細身なのに、脚はまっすぐで長い。カーディガンが大きめでだぼっとしている分、逆にシルエットの良さが際立って見えた。
羨ましいな、と心のどこかで思う。私だってそれなりに身長はある方だと思うけど、こうして横に並ぶと子どもっぽく感じてしまう。特に制服のスカート丈の違いや、脚のラインの綺麗さなんかを見せつけられると、ため息が出そうになる。
「……真白も濡れてる。」
「え?」
気づけば鳴古が私の手を取っていた。濡れた指先に彼女のハンカチが当たり、優しくなぞられる。驚いて見上げると、彼女は無表情のまま、ただ淡々と作業を続けていた。
「……冷たそう。」
「いや、そんなこと気にしなくても……」
「……真白がしてくれたから……返す。」
理屈の通らない理屈。でもその声音があまりに自然で、私は反論できずに黙り込んだ。妙にくすぐったくて、胸の奥がざわつく。雨音が強いせいで心臓の音まで聞こえそうで、落ち着かなかった。
鳴古は今度は私の頬に目を落とし、濡れた前髪を指先でそっとよけた。眠たげな瞳を半分閉じたまま、のんびりとした手つきで額から頬へ、顎のあたりまでハンカチを滑らせていく。
「……まだ濡れてる。」
囁くように言いながら、彼女はゆっくりと繰り返す。拭うというより撫でられているようで、思わず身動きが取れなくなった。
「鳴古……そんなに丁寧にしなくても……」
「……雑なの……きらい。」
無表情のまま淡々と答えるけれど、その仕草だけは驚くほど優しい。くすぐったいのに、もっと続けてほしいと心の奥で願ってしまう。
しばらくそうしていたが、ようやく鳴古は手を離し、無言でコンビニのガラス戸を指さした。中にはカラフルなビニール傘が並んでいる。
「……買う?」
「んー、どうしよっか。買えば帰れるけど……」
私は額の汗とも雨ともつかないものを拭いながら、ガラス越しに商品を見やった。値段はワンコイン程度。別に高いわけじゃない。だけど今すぐ必要かと言われると、迷ってしまう。
「ね、鳴古はどうしたい?」
問いかけると、彼女は少し考えるように目を伏せ、それからこちらを見て小さく首を振った。
「……このまま、もう少しここにいたい。」
「え……なんで?」
「……静かだから。」
即答だった。その声は雨音に混じってかき消されそうに小さかったけれど、はっきりと耳に残る。彼女の眼鏡の奥の瞳が、夕暮れの街灯を映して微かに揺れている。
「静かって……こんな土砂降りなのに?」
「……真白といるから。」
不意に落ちた言葉に、思わず息が詰まる。冗談みたいにさらっと言うから、余計に心臓に響く。慌てて顔を背けたけれど、頬の熱は隠せそうになかった。
雨はまだ強いまま、アスファルトを叩き続けている。通りすがりの人々は傘を差して足早に歩いていく。その中で、私たちだけが軒下に取り残され、静かに時間を共有していた。
「……真白。」
「なに?」
「……さっき拭いてくれたの、気持ちよかった。」
「……!」
思わず振り返ると、鳴古はメガネを指で直し、ほんの少しだけ口角を上げていた。笑っているような、眠たげなだけのような、その曖昧な表情がたまらなくずるい。
「べ、別に。普通のことだよ。」
「……またして。」
「なにそれ。子どもじゃないんだから。」
拗ねたように言い返しながらも、心のどこかで「またしてあげたい」と思ってしまう自分がいた。それを悟られたくなくて、私はわざと鞄の中をガサガサ漁り始めた。
気づけば、雨脚は少しだけ弱まっていた。でもまだ傘なしで歩けるほどじゃない。結局、私たちはもうしばらくこの場所にいることになるだろう。
コンビニの軒下。オレンジ色の街灯と白い蛍光灯が交じり合う狭い空間で、濡れた制服の裾が少しずつ乾いていく。雨音が作り出すリズムの中で、隣に立つ鳴古の存在が、不思議なくらい心を落ち着けていた。
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