十六睡目 学祭と睡眠と(1)

「はーい、みなさん。今日から文化祭の準備を始めてもらいます!」


 昼下がりの教室に、紫前先生の張りのある声が響き渡る。まだ夏の余韻が残る午後の光は、窓から柔らかく差し込み、机の表面をきらきらと照らしていた。机に置かれたノートやペン先に光が反射して、まるで小さな星が瞬いているみたいだ。


 その「文化祭」の言葉は、教室の空気に小さな火花を散らした。みんなの目が一瞬ぱっと輝き、声が弾む。


 「文化祭だ!」「楽しみ!」「よっしゃ、授業潰れる!」


 あちこちで飛び交う声。笑い声や小さな歓声が重なり合って、教室全体がふわりと浮かんだように感じられる。そんな空気の中、私は窓際の席に座ったまま、ひとりぽつんと取り残されたような気持ちになった。


 ……みんな、自然に盛り上がれるんだな。


 私は小さく息を吐き、頬杖をつく。もちろん文化祭が嫌いなわけじゃない。ただ、人と一緒に何かをするというだけで、胸の奥にちくりとした不安が芽生える。私はこのクラスに馴染めているのだろうか――そんな思いが、どうしても頭をかすめる。


 春から始まった新しいクラスでの生活は、それなりに楽しい。だけど、私は結局のところ、鳴古としか深く話していなかった。


 鳴古は不思議な子だ。教室ではいつも眠たそうにしているのに、なぜかクラスの皆から自然に慕われている。ほんの少し笑っただけで、周囲の空気が柔らかくなるような、そんな雰囲気を持っている。彼女といると、自然と人が寄ってくる。私はそのおこぼれをもらっているだけで、自分自身が輪の中にいるわけじゃない気がしていた。


 どうしよう。準備ってことは、みんなで動かなくちゃいけないんだよね。ちゃんとできるのかな――そう思いながら、つい隣の鳴古を見てしまう。


 案の定、彼女は机に突っ伏してすやすやと眠っていた。長いまつげが揺れ、頬にはわずかな紅が差している。小さく口を開けているせいか、寝息が教室のざわめきの中でふわりと聞こえてくる。……いや、よく見ると、眠っているふりをしているようにも見えた。前髪の奥の瞳が、時折こちらをちらりと覗き、周りの音に反応している。まるで本当に眠っているのか、遊んでいるのかを見極めているようで、ちょっとだけ笑ってしまう。


 「さて!」


 学級委員長が立ち上がり、黒板にチョークを走らせる。

 

 「それじゃあ、出し物の案を出していこう。どんどん意見出してね!」


 その一声で、教室の空気はさらに弾む。


 「喫茶店!」「お化け屋敷!」「ゲーセン!」

 

 声が重なり合い、教室全体が一気にお祭りの前夜みたいに明るくなる。私は小さなため息をつきながら、手元のノートに無意識に名前を書き連ねる。


 すると――


 「居酒屋!」


 紫前先生の突然の一言に、教室中が爆笑の渦に包まれる。みんなが腹を抱えて笑う中、私は少し離れた席で笑いを堪えながらも、心の中がほんのり温かくなるのを感じていた。


 ふと、隣を見ると、鳴古はまだ机に突っ伏していたが、こちらをちらりと見た。目は半分閉じているけれど、どこか楽しげに光っている。やっぱり、彼女がいるだけで教室の雰囲気が柔らかくなるのだと改めて思った。


 私はなんとなく感じた疎外感から逃げるように、そっと声をかけてみる。

 

 「ねえ、鳴古。どんな出し物がしたい?」


 鳴古はゆっくり顔を上げ、トロリとした目で私を見つめた。眠そうなのに、瞳の奥には少しだけ好奇心が光っている。少し考えるように目を細め――


 「……寝具屋さんか、カプセルホテル。」


 ぽつりと、夢の続きをつぶやくように言った。私は思わず口元から笑いがこぼれる。


 「ふふっ……なにそれ。」


 小さな声に反応した前の席の子が、興味津々で振り向く。

 

 「え、なに?鳴古が何言ったの?」


 私はつい答えてしまう。

 

 「寝具屋さんとか、カプセルホテルだって。」


 すると、教室中から笑い声があふれる。

 

 「え、それめっちゃいいじゃん!」「休憩スペースとか欲しいよね!」「文化祭で昼寝できるとか最高!」


 思わず私も、その会話の輪に入り、笑顔を返す。鳴古の隣にいるだけで、普段なら遠慮してしまう私も、自然に笑えていた。胸の奥がじんわりと熱くなる。ずっと外側にいるような感覚だった私が、少しだけ輪の中に入れた気がしたのだ。


 鳴古は机に突っ伏したまま小さく笑い、私に向けて目を細める。黒目がちな瞳が、眠そうで、それでいて少しだけ甘い光を放っている。手元に顔をうずめているのに、私だけに向けたその視線には、どこか温かい光が宿っていた。


 「ふふ、やっぱり鳴古はすごいね。」

 

 小さくつぶやくと、鳴古は軽く肩をすくめ、まるで照れるように眠たげに微笑む。


 「……すごいのは、真白……だって、笑ってくれたから。」


 その言葉は小さくて、教室のざわめきにかき消されそうなほどだ。それでも、確かに私だけに届いた。まるで小さな秘密を共有しているみたいに、胸の奥が甘く満たされる。


 私はそっと手を鳴古の手に重ね、微かに寄り添う。隣にいるだけで、世界がふんわりと柔らかくなる。初夏の光に照らされた教室は、ただのお祭り準備の場ではなく、私と鳴古だけの小さな幸福な世界になったように思えた。


 鳴古はいつもの天然な雰囲気のまま、でもほんの少しだけしっかりした様子で私を見つめ返す。その姿は、笑顔も眠そうな目も、全てが愛おしくて、胸の奥にじんわりと甘さが広がった。

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