六睡目 試験と睡眠と

 ある日。

 「テスト始めるよー」

 紫前先生の明るい声が教室内に響いた。


 今日は数学の中間テストがある。この日のために、私は何度も繰り返し勉強してきた。ノートには赤と青のインクがびっしりと走り、教科書のページは付箋で埋め尽くされている。昨夜も遅くまで復習をしていたから、正直少し、いやかなり眠たいけれど、それでも負けるわけにはいかない。


 前から回ってくる白い答案用紙を受け取ると、即座に名前を書く。テストは時間勝負だ。少しでも無駄にしてはいけない。


 ふと、隣の鳴古の様子が気になって、ちらっと横を見てみると――やはりいつもの調子で爆睡していた。


 机に突っ伏しているわけではない。背筋をゆるく伸ばし、前を向いたまま、ゆらゆらと小さく揺れている。目は閉じられ、長い睫毛が静かに影を落とし、髪の間から覗く耳がほんのり赤い。規則正しい寝息が小さく聞こえてきて、まるでここが教室ではなく彼女の自室であるかのようだ。


 前の席の子が、ちょいちょいと指先でつついてテスト用紙を渡そうとする。しかし、まるで石像のように反応がない。前の席の女の子は困った顔になってこちらを見た。


 ……仕方ない。


 私は横から、そっと鳴古の腕をつついた。


 「……んにゃ……?」


 むにゃむにゃと小さな声をあげ、鳴古はゆっくりと顔を上げる。眠たげな目がとろんと開き、カーディガンの袖で隠れた指先がもぞもぞと動いた。その指でようやく答案用紙を受け取ると、彼女は小さくあくびをして、またこてんと首を傾ける。


 「試験開始!」


 紫前先生の力強い声が教室中に響いた。


 瞬間、教室には一斉にペンが走る音が広がった。シャッシャッと、紙の上をインクが削るような音。消しゴムのこする音や、ページをめくる紙のざわめき。私はその音に自分のペンを重ね、ひたすらに答えを書き込んでいく。


 だが、その中にひとつだけ異音が混じっていた。


 すやすやと気持ちよさそうに眠る鳴古の寝息だ。


 横目でちらっと見ると、やはりペンすら持っていない。答案用紙は机の端に置かれたまま。名前も書いていない。まるでいつもの授業と変わらない。前を向いたまま、首をゆらゆらと揺らし、ほんのり紅潮した頬が朝日を受けて光っていた。


 「……おいおい……」


 私は思わず咳払いをしたり、机の上でわざと物音を立ててみたりした。しかし、一向に起きる気配はない。


 5分、10分、15分……。制限時間の45分は刻々と減っていく。時計の針が進む音まで聞こえてくるようで、勝手にじんわりと汗が滲む。


 それでも鳴古は、微動だにせず眠り続けている。まぶたの端がときおりぴくりと震え、小さな寝言のように「ん……」と呟いた。その度に私は無駄に心臓を跳ねさせてしまう。


 一方、私の手も止まりがちだった。……テストが想定よりも難しい。三角関数の応用問題が出ている。何度も解いたはずなのに、頭が真っ白になってしまう。


 残り時間は、もう10分を切っていた。やばいやばい。心臓が早鐘を打つ。余裕がない中で横をちらっと見ると、まだ鳴古は寝ている。すやすやと寝息を立てながら、唇を小さく開いて、首を傾けて……。


 「……もう、かまってられない。」


 私は必死に自分の答案に向き合った。計算用紙に数字を書きなぐり、手が震えるのも気にせず時間の限り問題を解き続けた。


 ――チャイム。


 「終了! 後ろから回収して」


 静寂を破るように、紫前先生の声が響く。教室の空気が一気にほどけ、安堵と疲労の吐息が広がった。


 鳴古は――寝ていた。


 それも、答案用紙を覆い隠すように机に突っ伏して。


 「ちょっと! 鳴古!」


 慌てて小さく声をかけながら彼女の肩を揺すると、寝ぼけ眼の鳴古が、ぱちりと瞬きをしてこちらを見た。赤みの差した頬、眠たげな目。相変わらず可愛いなあ……なんて一瞬思ってしまったのだが、その瞬間、ちらっと見えた彼女の答案用紙に驚愕した。


 ――びっしりと書き込まれていたのだ。


 いつの間に? 名前欄だけではなく、計算式も、答えも、余白にまで細かい文字が埋められている。まるで時間を全く無駄にしていないような、丁寧で完璧な解答用紙だった。


 私は言葉を失った。


 


 数日後。


 テストが返却される日がやってきた。教室は妙な緊張感に包まれている。答案が返ってくる瞬間ほど、ざわざわとした気配が漂うときはない。


 「名前を呼ばれたら前に取りに来なさい。」


 紫前先生の声に従って、次々と名前が呼ばれていく。答案を受け取る生徒たちの表情は様々だ。喜び、落胆、無表情。友達同士で点数を見せ合い、笑い声や悲鳴が小さくあがる。


 「親墨鳴古」


 鳴古の名前が呼ばれた。だが彼女は机に突っ伏して眠っている。私は仕方なく横から肩を軽く叩いた。


 「……んー……」


 小さな声をもらしながら、鳴古はゆっくり顔を上げる。寝癖が少し跳ねている髪を直すこともなく、ぼんやりと立ち上がる。教壇まで歩く足取りは、相変わらずふらふらだ。


 その姿を見て、周囲から小さな笑い声が漏れる。だが鳴古はまるで気にせず、答案を受け取って、またふらふらと席に戻ってきた。


 その前に、私の名前が呼ばれた。答案を受け取り、気になる点数を見る。――73点。思ったより低い。胸がちくりと痛んだ。昨夜までの努力がよぎり、ため息が漏れる。


 鳴古が戻ってきたところで、私は嘆くように声をかけた。

 「……頑張ったのになぁ。全然取れなかった。」


 鳴古は半分寝ながらも、にこっと笑って言った。

 「頑張ったんだから……いいじゃん。」


 その言葉に、ほんの少し救われた気がした。


 「……そういう鳴古は何点だったの?」

 気になって尋ねると、鳴古は「んー」と呻きながら答案をちらっと見せてくれた。


 ――97点。


 顎が外れるかと思った。


 「なんで……? 鳴古、いつの間に?」


 「最後の……少しだけ……解いてた。」


 眠たげな声でそう答えると、そのまま彼女は机に突っ伏し、すぐにまた夢の世界に戻ってしまった。


 彼女の髪が頬にかかり、寝息が規則正しく響く。私は呆れながらも、不思議とその姿から目を離せなかった。

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