『ココアの温度』— あるふたりの、名前のない愛

rinna

プロローグ

「…また出てったか。」


神崎 まりなは呟き、唇の端で自嘲の笑みを浮かべる。

昨日、ルームシェアの相手だった女が荷物をまとめて出て行った。

理由はいつも同じだ。

神崎 まりなの仕事——風俗嬢という「汚い」職業を知った途端、目は冷たく、言葉は鋭くなる。

「悪いけど、ちょっと無理」と吐き捨てた彼女の声が、まりなの耳にまだ残っている。

もう何人目だろう。数えるのも馬鹿らしい。


どうせ、誰も長くはいない。

知ったら、みんないなくなる。


家族にも、友達にも、ルームシェア相手にも裏切られてきた。

まりなにとって、信じられるのはお金だけだ。

お金は裏切らない。

風俗の仕事は、まりなを縛り、でも同時に生かしてきた。



都心の喧騒から少し離れた、古いアパートの三階。

アパートの階段を登り、錆びた手すりに触れながら、まりなは鍵を回す。

ドアが軋む音とともに、薄暗い部屋に滑り込む。

蛍光灯の明かりがチカチカと点灯し、狭いリビングを照らす。

神崎まりなの住む部屋は、狭いながらも機能的に整えられていた。

キッチンとリビングが一体になった空間に、二つの個室。

家賃を抑えるために、ルームシェアを繰り返してきたが、いつも長続きしない。

相手がまりなの仕事を知ると、決まって荷物をまとめて出て行く。

ソファには、前のルームメイトが置き忘れた安物のクッション。

キッチンのシンクには、洗い物の皿が一つ。

まりなは缶コーヒーをテーブルに置き、ソファに体を投げ出す。

ハイヒールを脱ぎ捨て、ストッキングのつま先を擦り合わせる。

足の裏がジンジンと痛む。


「…はぁ。疲れた。」


彼女の声は、誰もいない部屋に吸い込まれる。


まりなはソファーに座り、ため息をついた。


「しょうがないか。また一人か」

心の中で呟く。


幼少期から家族に愛されなかった過去が、胸を締めつける。

父の無関心、母の冷たい視線。

見放され、愛を求めては拒絶された日々。

誰も信じられない。

お金だけが、唯一の味方だ。



仕事の記憶が、頭の奥でちらつく。


東京の夜は、いつも湿った匂いをまとっている。

ネオンの光がビルのガラスに反射し、路地の奥で煙草と汗、アルコールの残り香が絡み合う。

神崎まりな——源氏名マリア——は、薄暗い個室の鏡の前で口紅を塗り直していた。

蛍光灯がチカチカと瞬き、彼女の顔に不自然な影を落とす。

部屋には、客の残したタバコの灰の匂いと、安物の香水が混じり合い、鼻腔を刺す。

ベッドのシーツは乱れ、枕元には使い捨てのローションのボトルが転がっている。

まりなは鏡に映る自分を見ないように、視線を逸らした。

彼女の唇は、ルビーレッドの口紅で完璧に塗られていたが、その下の肌は疲れでくすんでいる。


「次、10分後ね。マリア、準備しといて。」


店のマネージャーの声がドア越しに響く。

まりなは小さく頷き、鏡台の引き出しから新しいコンドームを取り出した。

客の肌の感触がまだ手に残っている。


客の体の下で息を潜め、機械的に演技を続けていた。

嬌声が喉から漏れ出る。

「あっ、すごい……もっと、深く……」その声は甘く、媚びるように部屋に響くが、心の中では何も感じていない。

ただの仕事。繰り返しのルーチン。

客を満足させるための道具として、自分を動かすだけ。



夜の匂いがずっと肌に残っていた。

蛍光灯の冷たい白と、紫がかったネオンの残光が薄いカーテン越しに伸びている。


神崎まりな――店では「マリア」と呼ばれる――は、狭い個室のベッドの端で髪を掻き上げながら、まだ耳の奥に残る音を数えていた。


嬌声が壁に吸い込まれて、換気扇の低い唸りと混ざり、まるで自分の鼓動だけが確かめ合うように部屋にこだまする。

香水と汗と、アルコールの甘さ。指先には微かに石鹸の泡の匂いと、客の使い古したコロンの匂いが混ざっている。


シャワーを浴びる。

熱い水が夜の膜を洗い落としてくれるわけではないと知りつつも、皮膚についた記憶の膜を一枚ずつ剥がしていく行為は、どうにも必要だった。

湯気が鏡の曇りを作り、頬に伝う水が涙か汗か分からなくなる。

体を拭き、薄い化粧を落として、また薄く塗り直す。

鏡の中の自分はいつも少しずつ変わる。夜が作る仮面と、朝が要求する素顔のあいだを行き来する人形みたいに。


タバコに火をつけると、口の中の苦みが少しだけ中和される。

生臭さや、薬のような甘さ、そして自分の喉に貼りついた言葉にならないもの――それらが煙とともに空へ昇っていく。


指先でまたメイクを直し、唇にやっと色を足す。

あと、三人。

鏡越しにそう呟いて、ドアノブに手をかける。

外は冷たい空気が残っているだろう。

抱かれることに慣れてしまった体と、抱かれることで何かを確かめようとするこころ。

どちらも、もう長い付き合いだ。



帰り道は夜明けが忍び込んでいて、タクシーの窓越しに街の形がゆっくりと変わるのを眺めていた。


家に辿り着くと、ついリビングのソファに体を沈めたまま眠ってしまったらしい。コートは脱ぎっぱなし、バッグは床に投げ出され、靴下は片方だけ脱げている。そういう無防備さを見せられるのは、たぶん誰にも期待していないからだ。

眠りは浅く、夢はいつも途中で切れる。だがその日は、夜の余韻が薄くなる前に、ほんの短い平穏が差し込んだ。


窓の向こうに午前の柔らかい光が差し始めるころ、玄関のチャイムが鳴った。

九時少し前。

目を開けると、頭が重く、まだ夢の端切れが視界に残る。

だれか来るなんて予定はない。

だが、チャイムはまた鳴る。

もう一度。

紛れもなく誰かが来たのだ。

まりなはゆっくりと腰を上げ、短く乱れた髪を掻き上げながら、カーテンを割らずに玄関を覗く。


ドアの向こうには、淡いブルーのワンピースを着た女の子が立っていた。

白いカーディガンを肩にかけ、小さな鞄とスーツケースを手元に寄せている。

髪は黒く、前髪はきっちりと切り揃えられている。

顔は整っているけれど、どこか堅さがある。

新しい場所に来た人の、少し緊張した空気。

まぶたの裏で彼女の姿がはっきりと遠ざかっていくのをまりなは感じた。


二人は、ほんの一瞬だけ視線が合った。互いに挨拶をするべき場面なのに、どちらも声に出さないで済ませたいと思った。

会話なんて、私たち二人にはきっと無理だろう――まりなの心の奥で、既視感のようにそう呟く何かがあった。

向こうも同じことを考えているのがわかる、とは到底言えない。

でも、彼女の目がわずかに潤んでいるのを見て、まりなは驚いた。

自分が思っているよりも、誰かの視線は自分に届くのだと、胸の奥がざわつく。


ドアを開ける指が震えた。

玄関の明かりが二人の間を照らす。

声は出しにくく、礼儀めいた掛け声は双方の口元で消えた。

向こう側の女の子は、ぎこちないけれど確かな声で「おはようございます」と言った。

まりなはそれを受け取り、「おはよう」とだけ返す。

言葉は薄く、風のようにすり抜ける。

でも、その短い交わりが、夜の孤独よりはずっと温かく感じられた。


真白 陽菜子――その名はまだ誰の声にも乗っていない。

まりなは、玄関で小さく笑って、スーツケースを持つ手を見た。

自分が今いる場所が、誰かの新しい出発点になるのだと、急に思った。

夜に帰ってくる私と、朝から笑うあなた。二人の時間は重なって、どこかで少しずつ溶けていくだろうか。


ドアの向こうで鞄の金具がかちゃりと小さな音を立てる。

九時の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の埃を金色に染める。

会話はまだ少ない。

礼儀正しさと距離感が交互に置かれる日々の始まりだ。

だが、まりなの胸の奥では、タバコの苦みでは消えない何かが、じわりと溶け始めているのを感じていた。

それはまだ名前のない温度で、ココアのようにゆっくりと広がるものだった。

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