善因
師姪
「……どこにいるのですか、
遠くで声がした。
声の感じからすると、子ども。
それも、女の子の声だ。
ぼんやりとかすんだ視界のなかで、その声だけはやけに鮮明に耳に届いた。
どこかで聞いた覚えがある。けれど記憶を手繰っても、その部分だけぽっかりと抜け落ちて思い出せない。
「そこに、いるのですか」
声が近づく。
靄の向こうから現れた少女は、ぼさぼさの黒い髪に、ぼろ布のような着物。痩せこけて、目だけが光っていた。
────絶対に、覚えがあるのに。
白く飛んだ記憶を、必死にたぐる六花。
やっぱり、なにも思い出せない。それでも、どうにも目の前の傷ついた子を放ってはおけなかった。
声をかけて、抱きしめてやりたいのに、まるで金縛りにあったように声が出ない。
────こっちへおいで。どうしてそんな、かなしい顔をしてるの。
そう考えているうちに、六花の足元がぐにゃりと崩れはじめる。
────どうかあの子を、あの子だけは……!
少女のほうに一歩踏み出すたび、どんどん地面はぬかるんでいく。
まるで底なしの沼を渡るかのように、足取りがおぼつかない。
六花はもがいて手を伸ばす。しかし、おぼれながら見上げたそこにはもう、哀れな少女の姿はなかった。
代わりに在ったのは──つややかな漆黒の衣をまとった、長身の女。
その眼は金に光り輝き、六花を射抜く。
「六花。必ず、あなたを迎えにいきます」
差し伸べられる手。
懐かしいようなその声を最後に、視界はすうっと闇に落ちた。
* * *
────変な夢だったなぁ。
六花は、寝不足のまなこをこすってなんとか意識を持ち直した。
自分の名前を呼ぶ声が、まだ耳に残っている。
六花が宿を借りていたのは、五大山の裾野にある小さな末寺だ。
『以教治天』──教えをもって天下を治む。その言葉どおり、五大山はいまや現世を支配する最大勢力となっていた。
幕府や朝廷の御代も、遠い昔の話だ。
しかしその威光も、うらぶれた末寺にまでは届かない。破れっぱなしの障子からは、春の陽がさんさんと差し込んでいた。
「ちょっと、聞いてますの⁉」
目の前に座る少女、芙蓉は十四歳。母親に似た薄墨の髪と、子猫のように丸く愛らしい目の
「そうやってぼうっとしてる
皮肉めいた言葉の裏には、六花の体調が本当に悪かったらどうしよう、という幼い不安が見え隠れしている。
慌てて笑顔を作る六花。
「例の怪異の件でしょ。わかってるよ、危ないことには首突っ込まないから」
「そう言って、いつもいつも勝手なことばかり! ぜったい、信じませんわよ」
「大丈夫だって! そりゃ記憶は戻んないけど、それ以外は元気いっぱいだから安心してよ」
芙蓉がまだ幼かった頃、六花は大きな病気をしたのだという。それより前のことは、自分でもほとんど覚えていない。
なにがあったのか、どんな病だったのか。六花自身も、妹弟子の話でしか知らない。知っているのは、なかなか治らず長く寝込んでいた、ということぐらいだ。
芙蓉は、しょうがない、と言わんばかりに嘆息した。
「本当に気をつけてくださいましね。みにくい怪異が現世に出てくるなんて、ああおぞましい……!」
自分で話しながら鳥肌が立ったらしく、芙蓉は自分で自分を抱きしめて身震いしている。
怪異とは、
そのすべてが人間に仇なすわけではない。けれど、そう認める者は、現世には少なかった。
ちょうど炉にかけた薬缶がいい音をさせはじめたので、六花はふたつの湯呑にお茶を注ぐ。
無住の小さな寺で、湯呑といっても『お嬢様』の芙蓉が使い慣れているようなものはない。粗茶だけど、と前置きして、湯呑を差し出した。
「六花は、またしばらく遊行しますの?」
「うん。絵解きしながら、今度は東のほうに行こうと思ってるよ」
五大山僧の生業のひとつだ。教えを描いた絵を解きながら、諸国を回って勧進をおこなう。
六花が出家した理由もこれにある、と言っていい。病で記憶を失ってからも、なぜだか師匠の絵解きの節回しは覚えていたものだった。
「ってことは、お山には帰らないつもりなんですのね」
「堅苦しいのは性に合わないしね、
六花は、芙蓉の母──六花にとっては妹弟子である尼僧の名前を口にした。
芙蓉はまたむっつりとした顔になって、湯呑をくるくると回す。
「当たり前ですわ! あたくしもおかあさまも、あなたがいつ五大山に帰ってくるか、念話をよこすか、って待っていますのよ」
喋るうちに、芙蓉の語気はどんどん上がっていく。
「六花! ……まさかとは思いますけれど、禁域に行こうだなんて考えていませんわよね⁉
────こういう妙に勘がいいとこまで、母親そっくり……!
さすがの六花も、これには内心冷や汗をぬぐう。
まさに今からそこに行く気だと知られたら、むっつり顔ではすまないだろう。
芙蓉の言う禁域とは、五大山令で立ち入りを禁じられた土地のことだ。所属する僧の大半にとって、幽冥地府や怪異は、現世の秩序を乱す『法敵』に他ならない。
となれば、あえて禁域に向かうものが、五大山からどう見られるか──それも、推して知るべしだ。それでも六花は、行くつもりでいた。
「禁域っていっても、まだそこに住んでる人がいるんだよ。あたしはその疎開を手伝いにいくだけ」
「そうなんですの? ええと、ええ……?」
思わぬ六花の反撃に、しどろもどろになる芙蓉。いまだ、と六花はたたみかけた。
「五大山からお願いしたのに、引っ越しの手伝いもしてあげないなんて、ちょっとひどいでしょ?」
「い、言われてみれば、そうかもしれませんわ。でも、おかあさまはダメって言ってましたし……」
「吉野には
六花がそう言うと、芙蓉は口をへの字にして考え込む。その表情は、母親の吉野そっくりだった。
────この感じだと、吉野は禁域指定に絡んでるんだろうな。
六花がどうせ禁域に向かうとみて、吉野も
いまや五大山の一角、
「芙蓉もくる? お山で学ぶのも楽しいけど、芙蓉の
意外にも、姪弟子はう〜んと考え込み、一口茶をすすると答えた。
「篳篥は、いま修理に出してますの。戻ってきたら、付き合ってあげてもよくってよ」
ツンとした態度のままだが、耳の先が赤い。照れているのだ。
六花は笑いを噛み殺しながら頷いた。
「……ふふ、うん! 楽しみにしてるよ」
同時刻
人の死後、その魂をさばく『あの世』──幽冥地府。
その中心にそびえるのが、閻魔庁である。
静まり返った法廷にひとり立つのは、長身の女。
女の顔も、姿も、鏡には映らない。
それもそのはず、鏡の名は『
代わりに映し出されるのは、墨染の法衣に栗色の髪をはねさせた尼僧。
姪弟子の肩を叩き、ほがらかに笑うその女性は──六花だった。
女の肩から、ほっとしたように力が抜ける。
鏡像に手を伸ばし、尼僧の姿をやさしく撫でた。
「……やっと、見つけた」
そこに、ぎい、と重たい音がして、女──閻魔王は振り返る。
きしむ扉を開けたのは、彼女と同じ黒い装束の少女だ。
「
少女は、閻魔王の表情に気づくと顔を綻ばせた。
「やっと、その時が来たのですね。行ってらっしゃいませ、猊下」
=============
※拝師制度が好きなのですが、わかりづらいかもしれないので補足です
・
自分の兄弟弟子のとった女の弟子のこと。姪弟子。
・
自分の師匠の兄弟弟子のうち、自分の師匠より弟子入りが早かった人のこと。
「伯母」「伯父」のようなもの。伯母弟子。
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