第7話
遥が、影魅が海主様との謁見後の事を知ったのは、母親と共に朝食の準備を済ませ、両親と朝食を共に食べている時の雑談だった。
遥のお父さんが、感心した様子で、カゲボウシが影魅という名前を海主様から賜った事、海主様の試練を達成し、証を貰った事を話していた。
「影魅様は、今、神社の社務所にて眠っておられるようだ。」
「あの人……えっと、影魅、様?は、大丈夫なの?」
「服が泥だらけだったのと、あちこち傷がある程度で、特に命に別状はないそうだよ。」
その時、家の電話が鳴って、お母さんが首を傾げて立った。
お父さんが、膝を叩いて頷く。
「いやあ、凄いお方だなぁ。海主様に認められるなんて、滅多にないことだ。」
お父さんはご飯を頬張り、よく噛んで飲み込んでから、ふっと、真顔になった。
「彼女は、いったい、海主様に何を望んだのだろうな。」
普通だったら、謁見だけで終わっていた筈なのに、試練を課された影魅。何か海主様に願い、その条件として、試練を課されたのではと、お父さんは言う。
その言葉に、真希の顔で、自分の握ったおむすびを美味しいと言う彼女の顔が思い浮かんで、遥は表情を曇らせた。
「……体を真希ちゃんに返したい、って言ったのかも。」
「ええ?」
お父さんは、しかめっ面になって、箸を下ろした。
「真希、って、あのよそもんの子だよな?除け者にされてて可哀想って、遥が言っていた?」
「うん……」
お父さんは、難しい表情で唸り、食卓を見つめた。
「禁忌の術で降ろされたカゲボウシが、そんな事を願ったのか。体を返したら、自分はまた死んでしまうだろうに。」
「ごめんなさい……」
その言葉に、自分がやってしまった事を責められているような気がして、遥は胸がつきりと痛んだ。
箸を握り締めて俯く遥に、お父さんは慌てて言った。
「いや、確かに禁忌を犯した遥は悪い事をしたが、カゲボウシ……影魅様には、許して貰ったんだろう?
それに……」
お父さんは、忌々しいと言わんばかりに宙を睨んだ。
「どうせ、山の所の女狐が、遥とその友達を惑わしたに違いねぇ。良い子の遥が、普通、そんな事をするとは、お父さん思えないんだよ。
実際、海主様も、遥を叱ったりしなかったじゃないか。」
遥は、微かに頷いた。
家に帰ってから、遥は真っ先に神社に行って、両親と共に、遥は海主様に謝りに行った。
しかし、触手だけを見せた海主様は、遥を叱らなかった。それどころか、こんな子供の悪戯でわざわざ怒ったりなどしないと、笑いながら言われたのだ。
遥は許される前に、責められる事すら無かった。
でも、遥は知っている。海主様も、その眷属の方々も、真希を酷く恨んでいる。そんな海主様が、真希が戻ってくる事を許す筈がない。
それでも、あの人は。
遥達に、知らない子供の体に降ろされたあの人は、真希を想い、海主様に願ったのだろう。
真希に体を返したいと。
(私は、良い子なんかじゃない。)
遥は、影魅が無事と知って、涙が出そうになるほどに安堵した。しかし、こうも思ってしまった。
影魅の願いが叶って、影魅が消えてしまうのは、嫌だな、と。
それが当然の摂理で、そうでなきゃならないのに、そうなるのが、遥はとても嫌だった。
食事の手を止める遥に、表情を曇らせたお母さんが声をかけた。
「遥、今日、学校がお休みになったそうよ。」
「えっ?」
まさか、自分達が禁忌を犯したから?そう考えて、顔を青くする遥に、お母さんはもの憂げに言った。
「その……真希ちゃんのご家庭で事件があって……その関係で、この町一帯の学校全てがお休みだそうよ。」
お父さんの顔が強張った。
「学校全て、って事は……山の神関係か。」
「ええ、恐らく……」
遥は、震える手で、箸を置いた。やはり、遥達が、禁忌を犯したから。
だから、真希の家族が、犠牲になってしまった?
「私、の、せい?」
お父さんとお母さんは、遥の声に弾かれたように振り向き、慌てて首を振った。
「いいや、遥は関係ない!」
「ええ、あくまで事故に関することだから、遥は何も悪くないわ。
悪いのは、邪悪な山の神よ。」
お母さんの顔が歪む。お父さんも、しかめっ面になった。
遥の両親は、山の神である九尾様のことが大嫌いだった。どうしても山の方に行かねばならない用事がある時は、必ず海主様の神社の社務所に寄り、お守りを買ってから行くくらいには。
この町は、海の近くの港区と、山の近くの山裾、そしてその中間の三つの区間に別れている。
港区では海の神様である海主様を奉り、山裾では山の神である九尾様を奉っている。中間区域の町は、どちらも神として崇めているものの、どちらか一方に偏る事はない。
そして、港区では、山の神を邪悪な神として毛嫌いし、山裾では海の神を理不尽な神として嫌っている。
彩は山裾の区域生まれで、香澄は中間区域生まれだ。
遥は、何処の区域どころか、そもそもこの町の生まれではない。顔も知らない誰かが海辺に捨てた、捨て子が遥だった。
子供に恵まれなかった両親が、海主様に願ったところ、隣町の海辺に赤子が捨てられている、その子を自分の子供にしなさい、と神託を下さったから、遥はこうして、優しい両親の元で何不自由なく暮らせている。
両親は海主様に信心深く、大好きな両親からその話を聞いていた遥は、海主様に感謝していたから、何か海主様にお返しできないかと考えるのは時間の問題だった。
その時、巫女様に、海主様は人が作る料理が好きだと聞いて、お母さんに料理を習い始めたのだ。
今でも遥は覚えている。ちょっと焦げてしまった焼き魚を、わくわくしながら神社に持っていって献上した事、献上した後で、不味いと言われないか不安になった事、その後、態々遥の前に触手を見せて頂き、海主様から「とても美味しかった」と言葉を賜った事。
両親もその事に大喜びで、遥は自慢の娘だと、いっぱい褒めてくれた。
巫女達も遥を褒めてくれたが、しかし、巫女長と呼ばれるお婆さんだけは、今も料理を献上する遥に難しそうな顔をする。
「海主様の覚えが良いことは、悪い事じゃないけれどね。
いいかい遥、大いなる者は、私らちっぽけな人間とは視座が違う。
神様にとっての良いことが、人間にとっての良いこととは限らない。
神様に愛される事は、決して良いことじゃないんだよ。」
そう言う巫女長に、一番仲のいい巫女のお姉ちゃんは、いっぱい海主様に褒められる遥に嫉妬しているんだと笑って、げんこつを貰っていた。
遥も、何故、海主様に愛されるのが悪いのか、今でも分からない。両親に愛されている遥はとても幸せだ。なら、とても凄くて偉大な海主様に愛されるのは、幸せな事なのではないのだろうか?
魚の眷属様も、岩の眷属様も、遥にとても良くしてくれる。中間区域では、夜にはお化けが徘徊するそうだけれど、港区ではそんな事はない。眷属様がお化けを退治してくれるからだ。
皆、眷属様は怖いというが、遥は、眷属様が怖いとは思わなかった。眷属様がいない夜は怖いけれど、彼らが見守ってくれるのなら、闇夜も怖くない。
海主様は、いずれ、遥を神域に招待して下さるのだそうだ。そこで、神域でしか食べれない特別なものを食べさせてあげると。
遥は、その日を楽しみに待っている。
学校が休みになって時間が空いたので、お昼頃に、遥は二人分のお弁当を持って、神社に向かった。
神社の鳥居の前に立つと、馴染みのある視線を感じる。これは、岩の眷属様だ。
見えないけれど、確かにそこにいる。遥は安心して、鳥居をくぐった。
神社の本殿と拝殿は海の上に建てられていて、引き潮の時にしか参道が現れない。
社務所は、その参道の前、浜辺に建っていた。
巫女達は、遥の顔を見ると、顔を曇らせ、あまり歓迎していないような表情をする。最初の頃は、皆、笑顔で迎えてくれたのに、最近はずっとこうだから、遥は悲しい。
社務所へ向かうと、丁度玄関から出てきた巫女が、ぱっと顔を輝かせた。
「遥ちゃん!学校はどうしたの?」
「夏お姉ちゃん、学校はね、お休みになったんです。」
「あらそうなの?ラッキーじゃない!」
夏は、明るく笑うと、遥が持つ肩掛け鞄を見て、片眉を上げた。
「また海主様への捧げ物?」
そう言って、そっと他の巫女を見やる。
「もうちょっと期間開けたら?巫女長の苦言が煩いでしょ?海主様も、献上品の頻度が下がった程度で怒ったりしないわよ。」
遥は、首を振った。
「違うの。えっと、これは、あの人……影魅ちゃ……様にって、持ってきたんです。」
「あら、影魅様に?」
夏は羨ましそうに遥の鞄を見た。
「いいなあ……それ、遥ちゃんが作ったお弁当でしょ?私も食べたーい。」
「夏!!いつまで油売ってんだい!」
「やっべ、巫女長の雷が落ちた。」
夏は舌を出すと、遥にウインクを飛ばした。
「影魅様は試練でお疲れになって、眠っていらっしゃるけれど、遥ちゃんのお弁当が食べられるなら、きっと跳ね起きると思うわ!」
じゃ!と元気よく言って、夏は駆けていく。遥はその背を見送って、社務所に入った。
社務所の中は、本当は巫女や漁師しか入ってはいけないのだけれど、遥は、海主様が許可しているので、社務所に入っても咎められない。
影魅は、仮眠室として使われている和室の中央に敷かれた布団の中で眠っていた。
障子戸から漏れ入る光が、和室の畳を柔らかく照らしている。
眠っている影魅の、露出した顔のあちこちに貼られたガーゼが痛々しい。片耳は特に酷かった。
和室に入ると、ツンとした薬の匂いが鼻を突いた。
近くに寄ると、影魅の艷やかな濡羽色の髪が目に入る。
「……あれ、真希ちゃんの髪色って、こんな色だったっけ……?」
真希の髪色は、僅かに茶色が入った黒髪だった筈だ。こんなに綺麗な黒色ではなかった。もしかしたら、光の加減で、違う色に見えているのかもしれないが。
視線がその髪に吸い寄せられる。とても綺麗だ。
「んん……」
遥がまじまじと影魅を見つめる視線に気付いたのか、影魅が唸って、ゆっくりと目を開く。
キラキラとした宝石のような目で見つめられて、遥は胸の鼓動が速くなった。
影魅は、暫くぼーっと遥を見つめて、ふにゃ、と、笑った。
「あれ、遥ちゃん?」
胸の鼓動が煩い。遥は何故か言葉が出なくて、黙って頷く。
影魅はゆっくりと身を起こした。
「えーっと、おはよう、でいいのかな。
どうしたの、遥ちゃん。」
「その、これ……」
遥は鞄からお弁当を出して、影魅に見せた。
影魅の目が輝く。
「わぁ、お弁当?ありがとう!」
その時、影魅のお腹の虫が鳴いた。影魅は恥ずかしそうに顔を赤らめて、お腹を押さえる。
ちょっと上目遣いで遥を伺う影魅に、遥はくすくす笑って、お弁当を差し出した。
「一緒に食べようと思って、作ってきたの。」
「おお、遥ちゃんの手作り弁当!女神がいる……!」
「そんな、大袈裟だよ。」
影魅はわざとらしく遥に拝む。その際に、包帯の巻かれた両手が見えて、遥の表情が曇った。
「その……痛くないの?」
「へ?あ、ああ。痛くない……って言ったら嘘になるけど……まあ、我慢できないほどじゃないから、大丈夫。」
「そう……その、無理しないでね。」
「うん。ありがとう。」
柔らかく微笑む影魅のことが、何故か直視できなくて、遥は慌てて視線を外した。
影魅が顔を輝かせて遥の作った弁当を食べるのを、遥は笑みを浮かべて見ていた。
影魅は幸せそうな顔でもぐもぐと咀嚼し、ふと、眉をあげると、何処かの方へ得意気な表情を見せる。そして、またお弁当を食べ始める。
遥が自分の弁当の半分を食べ終わる頃には、影魅はお弁当を完食し、巫女が淹れてくれたお茶を啜っていた。
「美味しかった……」
「ふふ、お粗末様です。」
影魅は空っぽになった弁当箱を残念そうに見つめると、蓋を閉じ、丁寧に風呂敷で包み始める。
ふと、思い立ち、影魅は顔を上げた。
「ああ、そうだ。海主様の眷属……えっと、巨大な海老みたいなの。」
「岩の眷属様?」
「ああ、岩っぽいね。うん、その眷属の一人が、次はお菓子以外もくれると嬉しいって。」
遥の脳裏に、順番にお菓子を受け取る岩の眷属様達の姿が思い浮かぶ。
「え?そうなの?じゃあ、次はお菓子以外を差し入れしようかな……」
お弁当を食べながら、考え込む遥から視線を逸らし、今は見えない海老の気配がする方へ影魅は視線を向けた。
さっきまで、遥のお弁当を食べる影魅に嫉妬と殺気の入り混じった視線を送っていた海老だが、幾分か視線が和らいだのを感じた。
「食い意地張ってるうえに過保護だなぁ。」
「え?」
「んー?なんでもないよ。」
影魅はなんて事もないと言わんばかりに笑った。
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