仮初妻の本懐 〜白蛇様と痣持ち少女〜

夜見星来

第一章

痣持ち少女

 山間にある小さな村――四ツよつや村では百年に一度、村娘が生贄として白蛇の神様に捧げられる。

 目隠しをされたまま村の領地を出た先にある蛇目じゃのめ神社に連れて行かれ、そこで神様の供物として魂を差し出すのだ。

 その生贄として、明日、天都澪あまつみおは連れて行かれる。


 もちろんこれは澪の意思ではなく、村の総意だ。

 澪には左腕に大きな痣がある。否、痣とは呼べないほどに大きく広がった黒斑は、今や澪の左肘から下を薄黒く染めていた。

 その痣のせいで、澪は育ての親から煙たがられている。もっと言えば村人からも奇異の目で見られ、今回の儀式でいい厄介払いができると、皆から思われていた。


「姉さん。姉さんいますか」


 浅葱あさぎ家の、母屋ではなく納屋同然の場所に押し込められた澪の元に、浅葱家のひとり娘である寧々子がやってくる。

 寧々子は、澪の返事を聞かずに納屋の戸を開けた。


「姉さん、明日は本当に行かれるのですか?」


 寧々子ねねこは戸を開けたまま、中には入らずに澪を見下ろした。

 見下ろす格好ではあるものの、寧々子の表情は悲壮感に満ちており、澪を蔑むような目はしていない。

 綺麗に手入れされた黒髪に大きな目、鈴を転がしたような声で名前を呼んでくれる寧々子は、自分と血が繋がっていない義妹でありながらも可愛いと思えた。寧々子が本当の妹であれば、どれほどよかったことかと思うほどだ。


 澪の両親は幼い頃、流行り病で死んだ。奇跡的に澪はその病に罹らず、母の妹の嫁ぎ先である浅葱家へ引き取られたが、左腕にあった痣が大きくなるにつれ寧々子の両親からは気持ち悪がられ、以来、この吹けば飛ぶような薄暗く、湿った納屋の中に押し込められている。

 それでも生活ができるだけの備品を与えられているのは、虐げられながらも浅葱家の家事全般を担っているからだ。その他にも農作業などを手伝っており、純粋な労働力としては重宝されている。

 それもあって、暑さ寒さこそ辛いものの、納屋での生活は澪に一雫の安息をもたらした。寧々子の両親にいびられない瞬間があるだけマシだ。


 ただ、納屋にいるといちいち寧々子が母屋を出て此処までこなければならず、それだけが澪の気掛かりだった。


「……えぇ、行きます。行かなければ、ならないもの」

「でも……」


 寧々子が大きな目を潤ませて、納屋の中へ一歩足を踏み入れる。


 寧々子は両親から納屋の中へは入らないよう、きつく言いつけられている。

 澪の手に触れたら穢れが伝染ると言われているのだ。

 だけど、そんなことはない。炊事中に女中の手に触れても、その人に痣が伝染ることはなかった。

 それに、まだ痣が小さかった頃はよく寧々子とも遊んでいた。それをよく知っている寧々子は、一度躊躇う素振りを見せたものの納屋の中へと入り、澪の左手を強く握った。


「姉さんが行く必要ないわ。だって、姉さんは何も悪くないもの。この痣だって、誰かに伝染ることはないのに」

「ありがとう。そう言ってくれるのは寧々子だけよ」

「私は姉さんが優しいことをよく知ってるわ。小さい頃、たくさん遊んでくれたもの……。それなのに、手もこんなに……ぼろぼろになって……」


 寧々子が傷だらけの指先をさすってくれる。

 暑い日も寒い日も、休むことなく水にさらした手は細かなヒビがいくつも走り、濡れるたびにつきつきと痛む。

 澪の手は年頃の娘でありながらぼろぼろで、髪にも艶がなかった。

 そもそも寧々子ほど髪も長くない。家事に邪魔だからと、手ごろな刃物で肩から下の髪を切っており、髪の長さもまばらだった。肌の張りもなく、化粧っ気もない。


 目の前で手を握ってくれていると寧々子と自分の姿を比較して、澪は劣等感で胸が張り裂けそうになった。


「心配してくれてありがとう。でも決まったことだもの。逃げ出せないわ。それに、もし私が逃げ出したら……」


 ――寧々子が生贄として白蛇様に捧げられてしまうかもしれない。


 それだけは絶対に避けねばならなかった。

 寧々子の両親は娘を守るだろうが、村人たちはそうもいかない。

 四ツ谷には、「百年に一度、蛇目神社に生贄を送らないと、白蛇様の祟りですべての財を失うほどの大火に見舞われる」という言い伝えがある。そのため、件の神社に生贄を捧げるのは絶対であった。

 だから自分が逃げ出したら、次に矛先が向かうのは唯一の味方である義妹の寧々子だ。


 ――もしも寧々子が本殿に連れて行かれてしまったら。


 想像しただけでも寒気がした。


「寧々子、私は大丈夫よ。だから、本当に心配しないで」

「でも……」


 寧々子が目を伏せ、瞳に涙を溜めたときだった。

 納屋の戸が乱暴に開かれ、寧々子の母である唯子が澪の頬を強く打った。


「私の娘に触らないで頂戴!」


 空気を裂くような乾いた音が響き、左頬が焼け付くほどの熱を持つ。床に這いつくばる形で倒れた澪に追い打ちをかけるように、唯子ゆいこが澪の髪を引っ張った。


「最後の最後まで面倒をかけて!」

「お母様やめて! 私が姉さんに触れたのよ」

「あなたは黙ってなさい!」


 もう一度、乾いた音が響き、静かに涙を流す寧々子を唯子が無理やり引っ張っていく。


(もう慣れてしまったわ……)


 こんなことに慣れていいはずがないのに、心が麻痺してしまったせいか、悲しみすら湧かない。あるのは諦めだけだった。


 この奇怪な左腕の痣がある限り、澪には何処にもいく場所がない。むしろ、今日まで寝床として納屋を与えられ、仕事を与えられただけでも有り難く思わねばならなかった。

 村の外に出されてしまったら、本当の意味で食い扶持がなくなってしまう。


 澪は何度も振り返る寧々子の泣き顔を見ながら、どうか泣かないでと微笑んだ。姉としての、なけなしの矜持だ。


 澪はその義妹の泣き顔を最後に、次の日の晩、目隠しをされて納屋から引きずりだされたのだった。

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