第26話 探偵の妨害と作者の動機
(……俺は、誰だ?)
俺、
数日前、俺は確かに俺自身が消滅する瞬間を目撃したはずだ。いや、正確に言えば、俺と瓜二つの顔をした、作者によって生み出された「ツッコミ担当」の俺が、壮絶な断末魔と共に光の粒子となって消えていくのを、オリジナルである俺はただ呆然と見ていることしかできなかった。
あれからというもの、俺の心は虚無感という名の分厚い雲に覆われている。俺という存在は、果たして本当にオリジナルなのだろうか。もしかしたら、俺もまた、作者の気まぐれによって生み出された、無数のコピーのうちの一人に過ぎないのではないか。そして、いつか役目を終えたら、あの時の彼のように、親指を立てて「アスタラビスタ、ベイビー」と言いながら溶鉱炉に沈んでいく運命にあるのではないか……。
(いや、それは別の映画だ)
俺は思考を修正した。それにしても、だ。あの事件以来、作者からの干渉がぱったりと途絶えている。まるで、嵐の前の静けさのようだ。あるいは、単に次の無茶苦茶なプロットを思いつかずに、筆が止まっているだけか。どちらにせよ、不気味なことこの上ない。
事件のない平穏な日常。それは、かつての俺が渇望してやまなかったもののはずだ。しかし、一度、あの壮絶なツッコミと不条理の渦に身を投じてしまうと、この静けさは、もはや退屈を通り越して苦痛でさえあった。
(謎……。ちゃんとした、骨のある謎を……!)
結局、俺はそういう生き物なのだ。矛盾とご都合主義に満ちた世界で、それでもなお、論理という名の細い糸をたぐり寄せ、真実という名の小さな光を見つけ出したい。それが、探偵という
コンコン。
その時、事務所のドアが、控えめにノックされた。俺は、ハッと我に返り、居住まいを正す。
「どうぞ」
俺がそう言うと、ギィ、と古びたドアが開き、そこから小さな女の子が、おずおずと顔を覗かせた。歳は、小学校低学年くらいだろうか。両手で大切そうに、古びた犬のぬいぐるみを抱きしめている。
「あの……ここ、探偵さんの、おうちですか?」
舌足らずな、しかし、懸命な声だった。俺の、乾ききった心に、その声がじんわりと染み渡っていくのを感じた。
「ああ、そうだよ。写楽探偵事務所だ。どうしたんだい、お嬢さん」
俺は、できるだけ優しい声で、彼女を事務所の中に招き入れた。女の子は、ソファにちょこんと腰掛けると、大きな瞳を不安げに揺らしながら、小さな声で言った。
「ポチが……。ポチが、いなくなっちゃったんです……」
ポチ。実にストレートなネーミングだ。
「ポチ、というのは、犬かい?」
「はい……。昨日、公園で拾った、白い子犬なんです。お母さんには内緒で、段ボールのおうちに入れて、お部屋でこっそり飼ってたんですけど……。今朝、学校から帰ってきたら、いなくなってて……」
そう言うと、女の子の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
子犬の、捜索依頼。
殺人事件でもなければ、国際的な陰謀でもない。ましてや、宇宙人がらみの超常現象でもない。ただ、一人の少女の、ささやかな、しかし切実な願い。
(まともだ……)
俺の心に、一筋の光が差し込んだ。
(今回こそは、まともな仕事ができるかもしれない……!)
作者の気まぐれに振り回されることなく、ただ純粋に、探偵としての職務を全うできる。その、あまりにも当たり前のことが、今の俺には、何よりも尊く感じられた。
「分かった。この写楽家逹、必ず、君のポチを見つけ出してみせると約束しよう」
俺がビシッと胸を叩いて見せると、女の子の顔が、ぱあっと輝いた。その純真無垢な笑顔を守るためなら、俺はどんな困難にも立ち向かってみせる。俺は、探偵としての誇りを胸に、固く、固く、誓ったのだった。
「それで、お母さん。詳しいお話を伺ってもよろしいでしょうか」
俺は、依頼人である女の子、ミクちゃんの自宅を訪れていた。リビングに通され、ミクちゃんの母親と向かい合ってソファに座っている。母親は、娘の突拍子もない行動に恐縮しきりだったが、俺が「これも仕事ですから」と笑顔で言うと、少しだけ安心したように表情を和らげた。
(よし、いい雰囲気だ。この調子で、聞き込みを進めていけば……)
俺は、手帳とペンを取り出し、母親に最初の質問を投げかけようとした。
「まず、ポチがいなくなったと思われる時間帯ですが、ミクちゃんが学校に行っていた間、ということですね。その間、お母さんはずっとご在宅で?」
「はい、そうです。わたしは一日中、家に……」
母親が、そう答えようとした、まさにその瞬間だった。
ガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!!!
ドドドドドドドドドドドドドドドドッ!!!!
ダダダダダダダダダダダダダダダダッ!!!!
窓の外から、突如として、鼓膜を突き破るかのような、凄まじい騒音が鳴り響いた。それは、ただの工事の音ではなかった。削岩機がヘヴィメタルを奏で、巨大な鉄球がサンバのリズムを刻み、作業員たちの「よいしょー!」という掛け声が、なぜかヨーデルになっている。
(……始まったか)
俺は、ペンを握りしめたまま、静かに天を仰いだ。この、あまりにも分かりやすい妨害工作。犯人は、一人しかいない。
(作者! お前、またか! また、しょうもない物理攻撃で、俺の仕事を邪魔するつもりか! しかも、なんだそのふざけた効果音は! 少しは真面目にやれ!)
俺の内心の抗議も虚しく、騒音はボリュームを増すばかりだ。母親は、申し訳なさそうに眉をひそめている。
「申し訳ございません、探偵さん。最近、どうもこの辺りは工事が多くて……」
(いや、絶対違う。これは、この物語の構造的な欠陥だ)
俺は、母親に聞こえるように、腹の底から声を張り上げた。
「いえ、お気になさらず! それで! その間! 何か変わったことはありませんでしたか!?」
「いいえ! 特に何も! あら、探偵さん! どうぞ、紅茶を召し上がってください!」
母親は、そう言うと、テーブルの上に、湯気の立つ紅茶のカップを置いてくれた。その心遣いが、今の俺にはありがたかった。俺は、喉を潤すために、カップに手を伸ばし……そして、その動きをぴたりと止めた。
カップが、赤熱していた。
まるで、窯から出したばかりの陶器のように、淡いオレンジ色の光を放っている。カップから立ち上る湯気は、陽炎のように揺らめき、その向こうの母親の顔が、ぐにゃりと歪んで見えた。
(……飲めるか、こんなもん!)
俺は内心で絶叫した。なんだこの紅茶は。摂氏千度の紅茶がどこにある。これはもう、飲み物ではない。兵器だ。
(作者! 悪ふざけが過ぎるぞ! 俺を殺す気か! これは、もう妨害ではなく、明確な殺意だろうが!)
俺が、目の前の超高温紅茶とどう戦うべきか、必死で思考を巡らせていると、母親がにこやかに言った。
「あら、お口に合いませんでしたか? わたしの特製なんですよ。少しだけ、スパイスを効かせてあるんです」
(スパイスじゃなくて、核融合か何かが起きてるんだよ、そのカップの中では!)
俺は、引きつった笑顔で「い、いえ、大変美味しそうです。少し、冷ましてからいただきます」と答えるのが精一杯だった。
仕方ない。紅茶が飲めないなら、聞き込みを続けるまでだ。俺は、母親の証言をメモに書き留めようと、胸ポケットから愛用の万年筆を取り出した。そして、手帳の真っ白なページに、ペン先を走らせた。
……インクが出ない。
(またか……)
俺は、ため息をつきながら、ペンをカチカチと振ってみた。しかし、ペン先からは、インクの代わりに、色とりどりのシャボン玉が、ふわり、ふわりと、リビングの空間に舞い始めた。
母親とミクちゃんが、「わぁ、きれい」と、無邪気に歓声を上げている。そのファンシーな光景の片隅で、俺だけが、死んだ魚のような目をして、虚空に舞うシャボン玉の行方を見つめていた。
(……作者。お前、もう、物語を成立させる気がないだろう)
道路工事のオーケストラ。灼熱の紅茶。シャボン玉製造機と化した万年筆。度重なる、あまりにも幼稚で、そして執拗な妨害工作。俺の中で、作者に対する感情は、もはや呆れを通り越して、別のものへと変わり始めていた。
俺は、手帳とペンを静かにテーブルに置くと、すっくと立ち上がった。そして、母親とミクちゃんに向かって、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。少し、野暮用を思い出しました。調査は、また後ほど、改めて」
俺は、そう言い残すと、二人の困惑した表情を背に、その家を後にした。
外に出ると、あれだけけたたましかった工事の音は、嘘のようにぴたりと止んでいた。
俺は、空を見上げた。灰色の雲の向こうにいるであろう、全ての元凶に向かって、静かに、しかし、確固たる決意を込めて、呟いた。
「……分かったよ、作者。お前のやりたいことは、よく分かった。そこまでして俺に謎を解かせたくないというのなら、望み通り、この事件、俺は降りさせてもらう」
俺は、踵を返し、事務所への帰路についた。その足取りは、敗北者のそれではない。新たな戦いへの、静かな覚悟を秘めた、戦士のそれだった。
事務所に戻った俺は、ソファに深く身を沈め、目を閉じた。
作者は、俺にまともな謎を解かせたくない。その理由は、まだ分からない。だが、目的は明白だ。俺の探偵としての活動を、あらゆる手段を使って妨害してくる。
ならば、こちらもやり方を変えるまでだ。
――推理をやめる。
それが、俺が出した結論だった。
俺が探偵として謎を解こうとするから、作者は妨害してくる。ならば、俺が探偵であることを放棄し、ただの傍観者になれば、作者も手出しはできまい。
子犬のポチの行方? 母親の秘密? 知ったことか。俺はもう、何もしない。このまま、物語が終わるのを、ただ待つだけだ。
そう決意した瞬間、俺の心は、不思議なほど穏やかになった。
数時間が、経過した。
事務所のドアが、再び、コンコン、とノックされた。俺は、目を開けることもせず、「どうぞ」とだけ答えた。
入ってきたのは、ミクちゃんの母親だった。その手には、小さな段ボール箱が抱えられている。
「探偵さん……。先ほどは、大変失礼いたしました」
「いえ……」
「あの……実は、お話ししなければならないことが……」
母親は、意を決したように、ゆっくりと語り始めた。
「ポチは……わたしが隠していました」
段ボール箱の中から、くぅん、と小さな鳴き声が聞こえる。
「実は、娘は、重い犬アレルギーでして……。あの子が、あまりにも嬉しそうに子犬を可愛がっているので、どうしても、取り上げるのが忍びなくて……。でも、このままでは娘の体に障る。だから、探偵さんに頼んで、どこか遠い、安全な場所に連れて行ってもらった、ということにしていただけないかと……。本当に、申し訳ございません」
母親は、深々と頭を下げた。
優しい、嘘。
娘の体を想う、母親の、苦渋の決断。
その、あまりにも人間的な、切ない真相に、俺の心は、静かに揺さぶられていた。
(そうか……。そういうことだったのか……)
ふと、俺の脳裏に、一つの可能性が浮かび上がった。
(もしかして、作者が、あれだけ執拗に俺の調査を妨害してきたのも……この、母親の優しい嘘を、守るためだったのではないか……?)
俺という、論理と事実だけを追求する探偵に、このデリケートな家族の問題を、無粋に暴かせないために。作者は、自ら道化を演じて、俺を遠ざけようとしたのでは……?
だとしたら、なんだ。あの幼稚な妨害の数々も、少しは、可愛げのあるものに思えてくるではないか。
柄にもなく、少しだけ目頭が熱くなった。なんだ、あいつ、ただの朴念仁じゃなかったのか。俺は、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、あの創造主を見直したのだ。
「……分かりました。お母さんの気持ち、お察しします。この件は、私に任せてください。ミクちゃんには、うまく説明しておきましょう」
俺がそう言うと、母親の顔が、安堵にほころんだ。
その、心温まる空気が、事務所を満たした、まさにその時だった。
俺のポケットのスマートフォンが、ブブッ、と短く震えた。画面には、見慣れた、あの間の抜けたフォントで、テキストメッセージが表示されている。
作者からだった。
『写楽が普通に謎を解いちゃうと面白くないじゃん?』
・・・・・・・・・・・・・・。
俺の、感動が、音を立てて、蒸発した。
思考が、完全に、フリーズした。
優しい嘘を守るため? 違う。
ただ、物語が、単調になるのが、嫌だっただけ。
ただ、俺が、普通に活躍するのが、気に食わなかっただけ。
その、しょうもなすぎる、あまりにも、しょうもなすぎる動機。
俺の中で、何かが、ぷつり、ぷつり、ぷつりと、音を立てて、連続で、切れていった。
呆れ、諦め、そして、最終的に俺の心を支配したのは、純度百パーセントの、混じりけのない、静かな、しかし、底なしの「怒り」だった。
俺は、母親が帰った後、一人、静まり返った事務所で、ゆっくりと、天を仰いだ。そして、俺の喉の奥から、血を吐くような、絞り出すような声が、漏れ出た。
「いい加減にしろ、この作者ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!」
探偵の、魂からの絶叫が、夕暮れの新宿の空に、虚しく、そしてどこまでも、響き渡るのであった。
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