第3話・魔女と本の手招き

 少し走ると、スリの犯人と似た格好の人々が大勢いるのが目に入った。道の端に座り込んでいる者がほとんどである。俺は似た格好の放浪者たちを注意深く見つめ、犯人を探した。

 ふと顔を上げると、犯人の特徴とそっくりの人間が俺の少し前をそろそろと歩いているのを見つけた。俺は全速力で走り、そいつの肩に勢いよく手を置いて自分の方へ引き寄せる。

 相手は薄暗い路地裏でもはっきりとわかるほど、ギョッとした顔で振り返った。逃げようとする犯人の両肩をがっしりと掴み、俺は怒鳴りつけた。犯人の顔がみるみるうちに恐怖に染まる。当たり前だ。理解できない言語で捲し立てられ、ウォレット!ウォレット!と叫ばれるのだから。財布に必死になる俺の顔がよほど恐ろしかったのか、犯人は俺の財布を放り投げたあと、俺の手をすり抜けて路地の暗闇へと溶けて消えた。

 俺がため息をつき、放り投げられた財布を拾い顔を上げると、そこには俺を瞬き一つせずじっと見つめる不気味な老婆がいた。人間とは思えないほどギョロリとした瞳で見つめられ、底知れない不気味さと恐怖を感じた俺は、踵を返して逃げようとした。

 しかし、今までピクリとも動かなかった老婆が、老婆らしからぬスピードと力で俺の腕を掴んだ。もしかすると自分の生活圏で大声をあげて騒いだことを怒っているのだろうか。はたまたペンダントとブレスレットとストラップフル装備の浮かれた観光客の俺を見て、いいカモだと捕まえたのだろうか。どちらにしろ、これ以上面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。

 しかし、老婆に力強く腕を掴まれて逃げることができない。俺は観念して話を聞くことにした。適当に聞いて適当にいなしてさっさと帰ろう。そう決めて、充電が溜まり始めたスマートフォンの翻訳アプリを起動した。しゃがれた声で、老婆は俺に話しかけてくる。

「若者、お前にはこの本を手にする権利がある。持ってけ。」

「はああ?」

 急に怪しい本を持って行けと言われて警戒しない人間がどこにいるだろうか。動揺する俺を気にする素振りも見せず、老婆は説明を続ける。

「この本には摩訶不思議な力が宿っておる。使い方は至って簡単。まず表紙に人物の名前を書く。すると、中に書かれた物語の内容が、表紙に書いた人物の人生の中で最も物語にしやすい出来事についてになる、といった代物だよ。」

 そんなことを言われても、はいそうですか珍しいから貰っていきます、と言うほど俺も馬鹿ではない。どうせどうせ貰うと手に取ったらその瞬間に金銭を要求されるに違いない。それに、他人の人生のハイライトなど知りたいとも思わない。

「へえ、そうですか。そりゃすごい。それでは。」

 とにかく早くこの場を離れようと適当な返事をして、掴まれた腕を引き抜こうと力を入れる。それと同時に老婆の手にも力がこもる。じっと見つめてくる老婆の瞳の奥は、底知れない闇である。

「そう焦るな、若者。お前は思い出すべきものがあるはずだ。それに表紙には誰の名を書いてもいいのだ。今までこの本を手にした者たちも、歴史人物や著名人の名前を書いて人生の参考にしたり、親の名前を書いて親孝行に使ったりと、人生に何かしら活用している。まあその活用の仕方によっては、身の破滅を招いた者もいたが。ああそれと、なにもこの本の表紙に書くのは個人名じゃなくてもいい。『世界で一番金持ちな人間』とか『この本の前の持ち主』だとか、そんな書き方でも、その条件に当てはまる人間の物語が生成される。」

 面白い話ではあるが、微塵も欲しいとは思わない。胡散臭さが拭いきれない。俺はきっと、今心の底から面倒くさそうな顔をしていることだろう。老婆はそんな俺の様子を気にも留めず、にやりと気味の悪い笑みを浮かべた。

「お前の親友の名前を書いてもいい。」

 なぜか俺の心臓がドクンと大きな音を立てた。親友って優助のことか?いや、俺の親友は優助ただ一人だけだ。なら、この老婆は優助を知っているということなのか。

「お、お前は、何者なんだよ。」

 俺は震える声で老婆に問う。老婆はにやりと笑った薄気味悪い顔のまま言った。

「あたしは、魔女だよ。」

 そうしてようやく俺の腕を離した。

「少しでも気になるのなら、またおいで。」

 老婆は最後まで、その薄気味悪い笑みを崩さなかった。

 それから俺は痺れた腕をさすりながら逃げるようにその場を離れた。あの老婆は自分は魔女だと言った。朝に市場で忠告されたことを思い出す。

「市場の裏通りには行くな、魔女がいる。」

 恐怖と混乱と、一ミリの興味が混ざり合って考えがまとまらないまま大通りまで歩いた。老婆の眼を思い出しながらバスに乗り、老婆の言葉を思い出しながらホテルの自室に戻った。

「そういえば、思い出すべきものってなんだよ。」

 ホテルのベッドに腰掛けながらぽつりと呟く。しかし半日歩き続けた体は疲れ切って限界であり、頭が回らない。心身ともに疲れ切った俺は、そのままばたりとベッドに寝転がり、そのまま眠りに落ちた。


 「優助!」

 俺が優助の後ろ姿に呼びかけても、返事がない。いつもは優しい笑顔で振り返って、どうしたと聞いてくれるのに。さらさらと揺れる長めの綺麗な髪が赤い光に照らされている。ゆっくり近づくと、優助はこちらに振り向くこともなく、そのまま前に進んですっと消えてしまった。急いで優助がいたところに駆け寄るが、優助は跡形もなく消え去っていた。


 ガバッと勢いよく起き上がる。妙な夢ではあったものの、悪夢というほどのものでもなかったはずだ。だというのに俺は汗をびっしょりと掻いており、前髪が額に張り付いていた。着ていたシャツも背中にぴったりと張り付いて気持ちが悪い。

 今見た夢は何だったのだろう。もしかして、あの老婆が言っていた『思い出すべきもの』に関係するものなのか。俺は優助に関する大切なことを何か忘れているのだろうか。偶然出会った老婆の言葉を真に受けるのは馬鹿馬鹿しいと思いつつも、中途半端な時間に目覚めてしまった俺の頭は考えることをやめられなかった。明け方の光が差し込んできたホテルの一室で、俺は頭を抱えた。

 悶々とした気持ちのまま、俺は支度を済ませてホテルをチェックアウトした。朝食ビュッフェで食べた大好きなメロンも味がしなかった。来た時は興奮するほど綺麗だと思ったホテルのロビーも、帰りはなんとも思えなかった。

 俺はぼんやりした頭で、このまま空港に向かおう、それがいい、と考えていた。そう考えているのにも関わらず、俺は無意識に足を市場の方へ向けていた。

 昨日の場所まで、俺は引き寄せられるように歩いた。昨日と同じように色とりどりの店が賑わう市場を抜けて、一本奥の道に入る。この道順で裏通りに行ったことなどないはずなのに、行き慣れた場所へ向かうかのように俺の足は迷いなく動いた。まるで魔女に、本に、こちらへおいでと手招きされているようだ。頭では空港に向かうべきだとわかっているのに、いつのまにか俺の心には本を手に入れて優助の名前を書かなければならないという使命感に満ち溢れていた。

 あっという間に俺は魔女の前にいた。魔女は昨日と同じ気味の悪い顔でにたりと笑った。

「本は、まだあるか。」

 俺は恐る恐る魔女に尋ねた。魔女は待ってましたと言わんばかりに本を差し出す。そうしてゆっくりと口を開いた。

「持っていきな。金はいらないよ。」

 昨日とは違い、俺の口からは滑らかに言葉が出てきた。

「昨日お前は、俺にこの本を持つ権利があると言ったよな。なんで俺なんだ。」

「そりゃあたしもわからないよ。この本が、お前だと言った。それだけのことだよ。本はどんな奴の手に渡っても、どんな扱いを受けても、必ずあたしの手元に戻ってくる。そうして次の持ち主を探す。あたしはそれを気ままに手伝ってやってるだけさ。」

 魔女はそう言いながら俺の手に本を添えて、握らせた。俺はそれに素直に従い、本をリュックに仕舞った。そして、今度こそ空港に向かった。

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