第6章 影の名探偵たち

 「……異界の“誤り”、だと?」


 私は口の端をわずかに吊り上げた。

 この男――“反転ワトソン”は、あくまで冷静な面持ちで私を見つめていた。

 銃を構えてもいない。だが、その瞳には油断など一滴もない。


 「我々の世界は君のような“混沌の欠片”を拒む。秩序は保たれねばならん」


 「その“秩序”とやらの名のもとに、いくつの命が切り捨てられた? 君はそれを見過ごすのか、ワトソン」


 「ワトソン、ではない」

 彼は静かに答えた。

 「私は、“記録官(クロニクル)”。摂理の代行者であるホームズ卿の、唯一の証人だ」


 私は理解した。

 この世界では、ホームズの相棒は医師などではなく、真実を記録するただの“観察者”に過ぎない。

 その名も、存在も、“反転”している。


 「通してもらおう。私は“私”と話をしに来た」


 クロニクルは一歩脇に避けた。

 「我が主はすでに君の到来を予期している。どうぞ、影の名探偵よ」


 私は、黒曜石のように磨かれた床を踏み、221Bの内側へと入った。



 居間は、私の知るそれとほとんど変わりなかった。

 が、空気が異様だった。


 暖炉の火は逆に燃え、椅子の脚は天井に向かって生えていた。

 窓から見える街並みも、逆立ったまま不気味に沈黙している。


 そして、ソファに座っていた“彼”――

 もう一人のシャーロック・ホームズは、口元に紅茶を運びながら、私を見上げた。


 「来たか、“可能性の残滓”よ」


 彼は私と全く同じ顔をしていた。

 だが、その身なりは漆黒のコートに血のようなスカーフ。

 その眼差しは、私が長年排除してきた“情”を完全に殺したような冷たさを湛えていた。


 「君がここで何をしようとも、この世界は変わらない。混沌は駆逐された。君は“欠陥”だ」


 「……あの殺人も、君の秩序の一部か?」


 「秩序を維持するには、不安定な要素を排除する必要がある。

  選ばれた者による、完璧な世界。それが“クロスフォール”だ」


 私は手帳を投げた。

 そこには、向こうのロンドンで起きた殺人事件の記録が記されている。


 「だがこの記録は消せまい。“正しさ”の名を騙り、罪なき人々を処刑してきたのは――君だ」


 反転ホームズは、わずかに眉を動かした。


 「……ならば、決着をつけよう」

 彼は立ち上がった。

 「“名探偵”の座にふさわしいのは、どちらか。鏡の迷宮で、真の探偵を決める時が来た」



 扉が開き、二人のホームズは、夜の街へと歩み出た。

 この街のどこかに、答えがある。


 そして、最後に待つのは――

 “自己”との最終対決。

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