第4章 鏡の中の訪問者

 ベイカー街に戻った私は、暖炉の前でひとり硬直していた。


 “あの筆跡”は確かに私のものだった。だが、私はそれを書いた記憶がない。

 では、誰が――。


 鏡に映る自分を、私は見た。

 夜の部屋で、燃える暖炉の炎が鏡の奥を赤く染める。

 その中に映る私は、確かに“私”だった。だが、どこかがおかしい。


 ほんのわずかに――目の奥にあるものが、違っていた。

 まるで“私”が、鏡の中からこちらを見ているような……そんな錯覚。


 いや、錯覚ではない。

 私は、はっきりと見たのだ。


 鏡の中の“私”が、片眉を吊り上げ、にやりと笑ったのを。


 「……なに?」


 立ち上がろうとした瞬間、私は背後から“冷気”を感じた。

 振り返る。誰もいない。


 だが――部屋の鏡の表面が、波打っている。


 水面のように、ゆらゆらと。

 私は思わずステッキを構えた。


 「姿を現せ」


 返事はない。だが、鏡の中の“私”が動いた。

 私が動いていないのに、“鏡像”だけがゆっくりとこちらへ歩いてきた。


 その“鏡の私”は、まるで硝子を突き破るように――こちらの世界へ、一歩、踏み出してきた。


 私は息を呑んだ。

 それは、確かに“私”だった。

 顔も、背格好も、服装さえも。だが、その瞳の奥にあるものだけが……違った。


 「ようやく、会えたな。シャーロック・ホームズ」


 “彼”は笑った。


 「君は誰だ?」


 「おかしなことを訊くな。“私”だよ。もう一人の、お前自身だ」


 「……鏡の中の存在、か」


 彼は頷いた。


 「私は鏡の世界から来た。君たちの世界では“正義”が支配しているが、私の世界では“悪”が理を成す。

  それが自然であり、調和なのだ。混沌など許されない」


 私は額に汗を感じながら、距離を詰めた。


 「では、その“調和”のために、殺人を?」


 「選択肢を排除しているにすぎない。君の存在が、世界の不均衡をもたらしているのだ」


 私の心に冷たいものが走る。


 「……つまり、私を排除する気か」


 「いずれ。だが今は、君に“理解”させに来た。

  名探偵という称号に相応しいのは、君ではない。私の方だ」


 鏡の中の“私”――いや、“反転したホームズ”は、ゆっくりと後退し、再び鏡の中に消えていった。


 鏡は波打ちを止め、いつものように、ただの鏡に戻った。


 だが私は知っている。

 この世界に、もう一人の“私”が入り込んだことを。


 そして――


 “彼”が今、どこかで次の殺人を準備していることを。

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