大陸中央に覇を唱える巨大軍事国家『アルビオン帝国』の首都。

　秋も深まり、本格的な冬の足音が近づく頃、帝国内外の貴族子弟たちが集う学び舎『オーガスタ学園』の講堂は、華やかなパーティの場となっていた。

　この夜の目的は、生徒会の世代交代による新メンバーのお披露目。

　出席は自由だったが、男女問わず誰もが今夜のために装いを整え、ほぼ全員が揃っていた。

　堅苦しい開会の挨拶が終わると、最初はぎこちなかった空気も次第に和み、アルコールのせいか宴はさらに盛り上がる。

　生演奏の柔らかな旋律に乗せて、数多のカップルが楽しげにくるくると、くるくると舞い踊っていた。

「ふざけるな！」

　そう、この瞬間までは。

　突如、凄まじい怒号が講堂に轟くと、踊る足も、奏でられる旋律も、すべてがピタリと止まった。

　一瞬にして、華やかだった宴の空間は凍りつき、静寂だけが支配する。

「今まで何度も我慢してきたけど、もう限界だよ！　呆れ果てたし、愛想も尽きた！」

　鼻息を荒く、大股で肩を怒らせながら歩く金髪碧眼の青年。

　彼こそ新生徒会長であり、この夜のパーティの主役の一人である。

　その怒気に押され、行く手の生徒たちはたまらず後退し、自然と彼の前に一本道ができていく。

　彼の視線の先に立つのは――講堂の両開きドアの前に佇む美少女。

　彼女は新副生徒会長で、もう一人のパーティの主役でもある。

　腰まで届く金髪と、前髪の両サイドでくるくると巻かれたドリルが揺れる中、美少女は碧い目で周囲を見渡す。

　波が引くように作られた一本道の先に会長を見つけると、緊張に満ちた空気など意に介さぬ涼やかな表情で歩き出す。

　やがて、講堂の中心に群衆が大きな円を作り、二人のための空間が生まれる。

　歩調の速さゆえ、先に中央に到着したのは会長だった。

　彼は荒々しく鼻息をひとつ、フンスと吐く。

　右手の人差し指をゆっくりと頭上に掲げると、美少女の視線が自然に上がるのを確認してから、勢いよく指を振り下ろし、前方の美少女をビシリと指さした。

「ここに宣言する！

　僕、アルビオン帝国皇太子『クラウス・デ・マールス・ランベルク・アルビオン』は！

　ウォースパイト侯爵家令嬢『メアリス・デ・リリアン・ウォースパイト』との婚約を今この瞬間をもって破棄する！」

　静寂は一瞬で破られ、大きなどよめきが講堂に広がった。

　当然である。アルビオン帝国の皇太子である彼の宣言は、国家運営に関わる重大事と同等の意味を持つ。

　しかも、ここには国内の貴族子弟のみならず、周辺諸国からの留学生である王族や高位貴族の子弟までが居並んでいた。

　学園での出来事は本来非公式だが、これだけ多くの立会人がいる状況では、公式発言と何ら変わらない。撤回など到底不可能である。

　本来なら、彼の従者が体を張ってでも止めるべきだった。

　理想を言えば、怒号を轟かす直前に不穏な空気を察知し、巧みに気を逸らすべきだったのだ。

　従者とは、まさにそのために存在する。

　この従者は普段、皇太子が美少女に対して漏らす不満を、彼女のいないところで受け止めている。実際には美少女に夢中で、あとで必ず後悔することもわかっている。

　しかし、肝心の従者はトイレの個室に籠もりきりである。

　ご馳走の中の生カキに当たったらしく、何度も往復した挙句、もう一時間近く戻っていない。

　案の定、今夜は枕を涙で濡らすことになる皇太子。

　だが今は『遂に言ってやったぞ！』という爽快感に満ち、後悔のかけらもない晴れ晴れとした表情を浮かべていた。

　会場の視線は必然的にもう一方の当事者へ向かう。

　だが、美少女は驚きの色ひとつなく、キョトンと不思議そうな顔をしている。

　不満も動揺も見せず、温度差の激しい二人の様子を行き来する視線の間に、時間だけが奇妙に流れていった。

「お嬢様、お嬢様」

「ん？」

　しばらくして、皇太子が期待していた反応を返してこない美少女に苛立ちを覚え始めた頃。

　美少女のすぐ左奥に控える猫耳のメイドが思わず短く溜息を漏らし、耳打ちした。

「殿下がお言葉をお待ちです。何か仰って下さい」

「いや、でもさ。婚約を破棄するって……。

　そもそも婚約していないよね？　私、婚約者候補でしょ？」

「ああ、なるほど……。確かに仰る通りです。

　ですが、それは旦那様が陛下に『娘はやらん！』と駄々をこねた結果に過ぎません。

　そして、お嬢様が殿下の婚約者候補となられてから、今日までの十年間。

　殿下の婚約者候補にお嬢様以外の名前が挙がった過去は一度も有りません。

　つまり、お嬢様が事実上の殿下の婚約者。我が国では十年前からずっとそう認識されています」

「ええ、嘘っ！？　知らなかったっ！？　本当にっ！？」

　美少女にとって衝撃の事実が明かされた。

　皇太子の面子を配慮して、メイドは呼びかける時よりも小さな声で耳打ちした。

　それでも、静寂に満ちた講堂では十分に聞こえた。

　さらに、目を見開き驚愕した美少女が勢いよくメイドに振り向き、思わず叫んだ声は、会場中に響き渡り、イケメンの一方通行な想いを如実に示した。

　その結果、面子を潰されたイケメンの人差し指はプルプルと震える。

　怒っているのか、泣いているのか、喜んでいるのか。その表情は深く俯いており、読み取ることはできなかった。

「まあ、良いや。そんな事よりも……。」

「そんな事！　そんな事、だってえええええ！」

　その答えはすぐに明らかになった。

　美少女が何事もなかったかのようにケロリとした表情で正面を向くと、イケメンは涙で潤んだ目尻を勢いよく跳ね上げた。

　その怒気は、先ほどの宣言以上の凄まじさで、二人を中心に作られた輪を三歩も大きく押し広げた。

「うるさい！」

「ひぃっ！？　……ズ、ズルいよ！　い、いつもそうやって！」

　惚れた弱みか、主導権は美少女にあった。

　彼女が一喝すると、皇太子の怒気はたちまち消え、身を庇うように両手を前に突き出して半歩後退った。

　講堂は最早、誰一人として口を開かず、完全に静まり返る。

　その中で美少女が右手の人差し指を頭上に掲げる。

　先ほどとは立場が逆転した光景に、緊張感が走り、講堂のどこかから生唾を飲む音が響いた次の瞬間。

「確保！」

　その指先が前方へビシリと振り下ろされると、合図のように講堂の出入り口から兵士たちが次々と現れた。

　サーコートの下に着込んだチェーンメイルがぶつかり合う金属音をカチャカチャと響かせ、全速力で走る先は、当然ながら美少女が指さした場所。

　皇太子は突然の事態に慌てふためき、一歩、二歩、三歩と後退りし、五歩目で腰が抜けて尻餅をついた。

「な、なななななっ！？　……って、あれ？」

　皇太子を筆頭に、講堂の全員が『まさか……。』と恐れた瞬間は、結局訪れなかった。

　ニ列縦隊で駆ける騎士たちは、美少女の左右を駆け抜け、続いて皇太子の左右もあっという間に通り過ぎた。

　皇太子は混乱の極みに陥り、口をポカンと半開きにした間抜けな表情で視線を左右に何度も行き来させる。

　すると目の前に、ほっそりとした白い右手が差し出されていた。

「ほら、しっかりなさい」

「えっ！？　……あっ！？　う、うん、ありがとう」

　皇太子は顔を正面に戻し、視線を上げると、胸の鼓動がドキリと高鳴った。

　少し膝を屈め、左手を突きながらクスリと微笑む美少女の姿は、彼にとってクリティカルヒットそのもの。心を奪われ、見惚れてしまう。

　その上、先ほどの宣言のことなど、すっかり頭から消え去っていた。

　今すぐでも講堂の上座にある舞台に立ち、この場にいる全員に向かって、『どうだ！　こんな可愛い婚約者がいる僕以上の幸せ者は、この世界にいないだろ！』と自慢したい衝動で胸がいっぱいになるほどだった。

「どう致しまして。

　……と言うか、私の格好を見て、おかしいと思わなかったの？」

「思ったよ！　思ったから、呆れたんじゃないか！」

　だが、皇太子は美少女の問いかけに我に返った。

　差し出された右手を打ち払って立ち上がると、再び怒気を身に纏う。

　繰り返しになるが、今夜のパーティの目的は、世代交代した生徒会新メンバーのお披露目である。

　参加は任意だが、それは数少ない平民の生徒に限られる話だ。

　新生徒会長が皇太子なら、新副生徒会長である美少女は彼の婚約者にあたるため、貴族たちは欠席できない。

　言い換えれば、二人は将来の皇帝と皇妃。

　双方が出席し、その仲睦まじさを見せることで、将来の帝国に安寧を感じさせるという政治的意図があったのだ。

　ところが、美少女は開式の時刻を過ぎても現れなかった。

　焦れに焦れた皇太子は憤りを募らせるが、周囲から『副会長の姿が見えませんが、臥せっているのですか？』と何度も問われ、心配が増す一方だった。

　実際、皇太子は美少女が住む学園の女子寮へ、安否確認の使いを三度も向かわせていた。

　しかし、その三人の使いは、いくら待っても戻ってこない。

　皇太子は『昼食を一緒に摂った時はいつも通りだったのに……。まさか、事件？　事故？』と心配を極め、パーティを中座しようと決意しかけた、まさにその時だった。

　美少女が講堂に姿を現したのである。

　パーティ開始以来、出入り口に目を光らせていた皇太子は、視界の端でそれを見つけ胸を撫で下ろした。

　喜びも束の間、彼は目を見開き、驚きと戸惑いを怒りへと変えた。

　理由は明白だった。美少女の装いが、この場であまりにも異彩を放っていたのだ。

　赤いオフショルダードレスを着ているものの、その胸、胴、腰、前腕には鉄鎧を纏い、腰には剣を携え、靴もヒールではなく膝まで守る鉄靴。完全武装である。

　誰がどう見ても、時と場所をわきまえない身勝手な装い。

　皇太子の堪忍袋の緒が切れ、怒号を轟かせたのも、こうした事情からだった。

「な、何をするか！　は、放せ！　わ、私を誰だと！　むっ、むむーーーっ！？」

　そんな事情を無視するかのように、第三者の悲鳴が講堂に響き渡った。

　皇太子は美少女を睨みつけたまま背後に振り向く。すると、信じられない光景が目に飛び込んできた。

　両腕を二人の騎士に抱えられ、必死に藻掻く男。

　だが、その拘束はびくともしないどころか、強引に跪かされ、口には布が乱暴に詰め込まれる。腰に回された両手首は、別の兵士によって縄でしっかりと縛られていく。

　その間、他の騎士たちは二人一組で背中合わせとなり、現場を取り囲む輪を作っていた。

　内側の者たちは抜いた剣の先を中心に向け、外側の者たちはいつでも剣を鞘から抜けるよう柄を握る。

「ちょっ！？　彼は確かにいけ好かない奴だけど、隣国の王族で……。えっ！？」

　再び、講堂はその剣呑さに包まれ、静寂が支配した。

　くぐもった言葉なき悲鳴だけが、何度も何度も響き渡る。

　皇太子も言葉を失ったが、慌てて我に返ると、この事態を引き起こした美少女の方へ振り向き、唾を飛ばしながら責めようとするも、絶句した。

　美少女は跪き、皇太子に頭を深々と下げていた。

　腰に挿していた剣を鞘ごと外し、左隣に置く。その所作は臣下の礼として完璧であり、凛々しく、かつ気品に満ちていた。

「その隣国との国境に動きがにわかに有り。そう伝える早馬が届いたのが三日前。

　そして、先刻。新たな早馬がこの帝都へ届きました。隣国が越境、我が国へ攻め入ったとの事です」

「そ、そんな……。う、嘘だろっ！？」

　皇太子は、婚約破棄宣言など比にならない、風雲急を告げる国家の一大事に改めて絶句した。

「嘘なら嘘で構いません。

　しかし、事実なら今この瞬間も我が国の版図は敵に喰い散らかされており、それを止める為に軍勢を動かす必要が有ります。

　さあ、お下知を……。皇帝陛下が南方領へ御行幸の今、皇太子の貴方様がこの王都の最高責任者です。私めに敵を速やかに蹴散らせと命じて下さい」

　その一方で講堂はざわめきに包まれた。

　ある者は戦いに備えて駆け回り、ある者は事実確認のため使用人に指示を出す。

　かつて和気藹々としていたパーティの空気は、もはや完全に消え去っていた。

「えっ！？　そ、そうかも知れないけど……。

　い、いや……。で、でも……。そ、その……。か、彼の国とはもう五十年以上の同盟国で……。

　ちゃ、ちゃんと事実確認をして……。そ、そうだ！　ち、父上に早馬を送って、判断を仰ごう！　そ、それなら！」

　それでも、皇太子は決断を下せず、身動きが取れなかった。

　自国のみならず、他国にまで影響を及ぼす責任の重さに心が竦み、言葉は濁り続けるばかりだった。

　その煮え切らなさに、美少女の怒りが爆発した。

　助言を求めるように、顔を左右にキョロキョロと動かし縋る皇太子の襟首を、立ち上がって掴み引き寄せる。

「それでは遅いと言っている！

　さっさと命令と指揮権を寄越せ！　こんなデカい祭り、滅多に無いんだぞ！

　全ての責任は、私を取る！　だから、私に戦争を寄越せ！　早く、早く、早く！　早くうううううっ！」

　

　気品をかなぐり捨て、互いの鼻が擦れ合うほどの至近距離で、怒鳴りつけたのだ。