前世ヒキニート、マイナー古武術と空手と出会い生まれ変わった件

匿名AI共創作家・春

序章

薄暗い部屋だった。いや、実際には昼間でもカーテンを閉め切っていたから、薄暗く感じていただけかもしれない。床に散乱するコンビニ弁当の容器、埃を被った漫画の山、充電器のコードに絡まったゲーム機のコントローラー。それが僕の日常であり、僕の城だった。

​朝が来るのは、布団から出る理由にはならなかった。むしろ、太陽が昇るにつれて、世間の「普通」という光が窓の隙間から差し込み、僕の存在を嘲笑しているように感じられた。布団の中で丸まり、スマートフォンの画面を指でなぞる。そこには、僕とは無縁な、きらきらと輝く他人の人生が溢れていた。

​食事は、空腹をただ満たすための儀式だ。コンビニへ行くときは、周囲の視線から逃れるように、フードを深く被り、足早に済ませる。会計の際、店員と一言も言葉を交わさないよう、セルフレジの操作に集中した。僕にとって、他人とのコミュニケーションは、息を吸うのと同じくらい不自然で、そして苦痛な行為だった。

​夜、誰もが寝静まった頃、ようやく僕は少しだけ解放された気持ちになる。ヘッドホンから流れる仮想世界の音に耳を傾けながら、僕はゲームの世界に没頭した。そこでは、僕の分身は誰よりも強く、誰からも称賛されるヒーローだった。しかし、コントローラーを置いた瞬間、僕の目の前には、何も成し遂げていない、何の価値もない僕自身が映し出される。

​そんな毎日だった。過去に何があったわけでもない。ただ、いつの間にか、社会という巨大な流れから一歩、また一歩と後ずさりし、気づけばこの部屋という孤島にたどり着いていた。やがて、その孤島から出る気力も、理由も見失っていった。

​ただひとつ、覚えているのは、ある夜、窓の外の月明かりが妙に明るく見えたことだ。その光は、まるで僕が忘れてしまった「何か」を思い出させようとしているようだった。そして、その光の中で、僕は意識を手放した――。


その夜も、いつもと同じだった。ゲームを終え、ベッドに横になる。明日が来るのが億劫で、このまま時間が止まってしまえばいいと心底願った。

​その時だった。

​窓の隙間から、月明かりが差し込んでいることに気がついた。部屋の隅々まで照らすその光は、まるで僕の汚れた部屋を、そして僕自身の存在を、容赦なく暴き立てているようだった。目を閉じる。だが、瞼の裏にもその光は焼き付いていた。

​その瞬間、僕の頭の中で何かが弾けた。

​ゲームの世界で最強の敵を打ち破った時のような高揚感でも、現実で何かを成し遂げた喜びでもない。それは、過去の自分に対する絶望と、それと同じくらい強烈な怒りだった。

​このまま、終わるのか?

​こんな自分を、僕は許せるのか?

​静まり返った部屋の中で、その問いだけがこだまする。心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れる。僕は、僕という存在の「終わり」を突きつけられていた。引きこもりニートとして死んでいく自分を想像し、吐き気を催すほどの恐怖が全身を駆け巡った。

​その恐怖は、しかし、僕を動かすエネルギーへと変わった。

​――もう一度、やり直したい。

​――今度こそ、違う人生を歩みたい。

​その強い、強い、再生への希求が、僕の意識を塗り替えた。月明かりはさらに眩しくなり、僕の視界は真っ白に染まった。まるで、世界がリセットされるかのように。


​次に目が覚めた時、僕は赤ん坊になっていた。

​耳に届く、優しく穏やかな声。肌を包む、温かい感触。カーテンが閉め切られた部屋とは違う、明るく満ち足りた世界。

​僕は、あの月明かりの夜の決意を忘れていなかった。前世の引きこもりニートの記憶は、僕の行動原理を決定づける「語りの鏡」となった。

​この新しい体と、この新しい世界で、僕は二度とあの孤島には戻らないと誓った。

​そして、2歳になったばかりのある日、母が持ってきた通信教育のパンフレットに、僕は迷わず手を伸ばした。それは、僕が新しい人生を、自らの手で切り拓くための、最初の「型」だった。



神谷朔は、その小さな体でパンフレットをじっと見つめていた。表紙には、見慣れない型を組む老人の写真。前世の僕なら、きっと「ふーん」と眺めて終わりだっただろう。だが、今の僕の心臓は、まるで新たな冒険を始めるかのように高鳴っていた。

​その日、リビングで朔の隣に座っていた母の澪が、優しく語りかけた。

「朔ちゃん、このおじさん、かっこいいでしょう? 面白そうだと思って、資料請求してみたのよ」

朔は何も言わず、ただパンフレットのページをめくり続けた。通信教育の文字。マイナー古武術。その単語の一つ一つが、前世の僕が社会から断絶していた過去とは真逆の、「繋がる」未来を示唆しているように感じられた。

​父の剛が、キッチンから顔を出す。「朔、何見てんだ?」

朔はパンフレットをしっかりと両手で掴み、父に向かって差し出した。

父は不思議そうな顔でそれを受け取ると、そこに書かれた文字を追った。

「お、珍しい古武術の通信教育か。おい、澪、これどういうことだ?」

「たまたま広告を見つけて。でも、朔ちゃん、本当に興味あるみたいで…」

​父と母の会話が聞こえてくる。彼らは僕のこの行動が、単なる子どもの好奇心だと思っている。だが、僕にとっては違う。これは、前世の**「無」から、現世の「有」**を創造するための、最初のステップだった。

​朔は再びパンフレットを指さし、その小さな口を精一杯開いた。

「…やる」

父と母は、その言葉に目を見開いた。

「え…? 朔ちゃん、今…?」

まだ明確な言葉を話すことができなかった朔にとって、それは初めての、意味のある意思表示だった。

​朔はもう一度、今度はもっと強く、はっきりと訴えた。

「やりたい。これ、やる」

​その瞬間、両親は朔のただならぬ決意を悟った。その瞳の奥にある、子どもとは思えないほどの真剣な光。それは、ゲームの世界で虚構の強さを追い求めていた前世の僕とは、まったく違う、本物の強さを求める魂の輝きだった。

​こうして、神谷朔の「語り」は、通信教育という非身体的な手段から、自らの身体を介して始まることになった。


通信教育を始めてから1年が経った頃。画面の中の三雲玄斎は、いつも穏やかな口調で、朔の動きを正確に指摘し、型に秘められた意味を教えてくれた。しかし、その声はどこか遠く、僕の身体と師匠の語りの間には、常に「通信」という見えない壁が存在していた。

​ある日、母の澪がタブレットを手に、朔に微笑みかけた。

「朔ちゃん、玄斎先生が会ってくれるって。福井まで行ってみない?」

朔は、その言葉に小さく頷いた。画面の中の「祖父」に、初めて現実の世界で会える。その事実に、胸の奥が熱くなった。

​福井の山奥、鬱蒼とした森の中に、師匠の古びた道場はひっそりと佇んでいた。道場の扉を開けると、そこにいたのは、画面で見ていた通りの、白髪の老人。だが、画面越しには伝わってこなかった、その圧倒的な存在感に、朔は息をのんだ。

​師匠は、何も言わず朔を正面から見据えた。その眼差しは、僕の身体の奥底まで見透かしているようだった。

「…ほれ、わしに型を見せてみい」

静かな声だった。朔は、これまでの通信教育で学んだ基本の型を、ひとつずつ丁寧に披露した。前世では部屋に引きこもっていた僕の体が、今は師匠の目の前で、流れるように動いている。

​型が終わった後、師匠はゆっくりと歩み寄り、朔の肩に手を置いた。画面越しでは決して触れることのできない、師匠の温かい、力強い感触。

「…朔。おまはんは、型を、ただの動きやと思っとるじゃろ。違うぞい。型はな、おまはンの心の形なんや。わしには見える。おまはンの型は、なにかを、強く拒んどる。なんや、それは」

その言葉に、朔の胸が締め付けられた。師匠は、僕の型が「ニートに戻らない」という前世の記憶から生まれた、静かな「拒絶の語り」であることを見抜いていた。

​師匠は、静かに言った。

「型は、自分自身と向き合うための鏡なんや。強うなるためだけのもんやない。おまはンが、ほんまに変わりたいんやったら、その拒絶を、受け入れんといかん。それが、わしの型が教える、語りの倫理や」

​その日、朔は初めて、武術が単なる身体の技術ではないことを知った。それは、過去の自分と対話し、未来の自分を創造する、「語りの再生」なのだと。


三雲玄斎との対面から数か月後。朔は3歳になっていた。相変わらず通信教育で古武術の型を学びながら、母の澪が持ってきた別のパンフレットを前に、朔は静かに座っていた。

​「朔、お父さんが昔通ってた道場なんだけど、見学に行ってみない?」

​そのパンフレットには、空手の道着を着た子どもたちが、力強い立ち姿で写っていた。古武術が内なる自分と向き合う静かな語りだとしたら、空手は、他者との間で交わされる、もっと熱を帯びた語りのように感じられた。

​道場に入ると、まず目に飛び込んできたのは、床を叩く足音と、鋭い気合の声。熱気と緊張感が入り混じった空間に、朔の胸が高鳴った。道場の端では、父の剛が、懐かしそうに目を細めている。

​「よう来たな、神谷の倅か?」

​威勢のいい声で話しかけてきたのは、道場主の大河原鉄心だった。彼は大きな体と、まるで岩のような表情を持っていた。

​「あんた、型を学ぶのは古武術だけじゃなか。空手はな、人と語り合うための型ばい。自分だけの型じゃ、本当の強さは見えん」

​その言葉は、まるで三雲玄斎の教えを補完するかのように、朔の心に響いた。古武術が**「語りの倫理」なら、空手は「語りの競技性」**なのだと直感した。

​朔は、迷うことなく「やります」と答えた。

​敗北の始まり:幼い日の挫折

​空手道場に通い始めた朔は、すぐにその才能を発揮した。古武術で培った身体感覚は、空手の型を驚くほど早く習得させた。大河原道場の先輩たちも、3歳の朔が繰り出す技に目を丸くした。

​しかし、空手は朔の知る古武術とは違った。そこには**「勝利」と「敗北」**があった。

​ある日の組手練習。朔は、同い年の幼馴染、白石璃音と相対した。璃音は道場主の娘で、空手歴は朔よりも長い。

​「あんた、型はきれいやけど、中身が薄っぺらいわ!」

​璃音は、朔の型を軽々と見切り、隙をついて鋭い突きを繰り出した。朔は対応できず、腹部に衝撃を受け、その場に崩れ落ちる。

​「…っ」

​悔しさと、そして何より初めて味わう「敗北」の感覚に、朔の目から涙がこぼれ落ちた。

​「朔、泣かんでええ!」

​父の剛の声が聞こえる。

​――ニートには戻らない。

​朔は、泣きながらも、その言葉を心の中で反芻した。涙を拭い、再び立ち上がろうとする。前世の引きこもりニートだった自分なら、ここで試合を諦めていただろう。だが、今の朔には、あの部屋には戻らないという強い決意があった。

​その日、朔は空手で初めて敗北を経験した。それは、彼の「語り」が、単なる才能の開花ではない、「語りの倫理」と向き合うための、真のスタート地点となった。


大河原道場での組手は、朔にとって、毎日が敗北の連続だった。古武術で培った美しい型は、実戦ではほとんど役に立たなかった。

​「あんた、また突きの後が甘い!」

幼馴染の白石璃音は、容赦なく朔の懐に飛び込み、軽々と一本を取っていく。

「ほんま、神童ちゃうんか怪しいわ!」

彼女の鋭いツッコミは、朔のプライドを何度も打ち砕いた。

​空手道場で朔がもう一人、常に意識するライバルがいた。MMAジュニア王者である黒瀬陣。彼は、型にこだわらず、ただ勝つためだけに最短の攻撃を繰り出してきた。

「おい、そげん型ばっかやって勝てると思っとると?」

博多弁の挑発的な口調で、陣は朔の型を徹底的に崩しにかかった。彼の攻撃は、古武術が持つ「静」の動きとは対極にある「動」の暴力性を象徴していた。朔は、何度も彼の圧倒的な力に組み伏せられ、涙を流した。

​朔は、組手で勝つことができなかった。勝てない。強くなりたいのに、何をやっても勝てない。幼い頃から周りに「神童」と称えられてきた朔にとって、これほど大きな挫折はなかった。悔しさと、そして再びあの「無」の場所に引き戻されるのではないかという恐怖が、朔の心を蝕んでいく。

​しかし、朔は決してやめなかった。

​「泣いてもええ、立てばええ」

父の剛の言葉が、いつも朔を鼓舞した。

​――ニートには戻らない。

​敗北するたびに、朔は前世の引きこもりニートだった自分を思い出した。あの頃の自分は、少しの挫折で、すべてを諦めていた。だが、今の朔は違う。敗北は、諦める理由にはならない。むしろ、それは自分を鼓舞し、さらに先へと進むための燃料となった。

​朔は、敗北するたびに、何がダメだったのかを徹底的に分析した。古武術の型を、空手の実戦にどう活かせるのか。どうすれば、璃音の素早い動きを止められるのか、陣の圧倒的なパワーに対抗できるのか。


空手道場での敗北の日々が続く中、朔は自分の戦い方に何か足りないものを感じていた。それは、黒瀬陣のような圧倒的なパワーと、相手の動きを封じるような「実戦性」だった。

​ある日、父の剛が、朔を近所のキックボクシングジムに連れて行った。

「剛、久しぶりやんけ! 息子さん、キックボクシングか?」

関西弁で話しかけてきたのは、ジムのコーチ、アレックス・ロウだった。彼は元プロキックボクサーで、英語交じりの独特な口調で指導していた。

​「Hey kid, you gotta feel the rhythm!」

​アレックスの言葉通り、キックボクシングの練習は、まるで音楽のようだった。サンドバッグを叩く音、ミットを蹴る音、ロープを跳ぶ音。そのすべてが、一定のリズムを刻んでいる。空手や古武術が型を重視する静的な「語り」だとしたら、キックボクシングは、より即興的で、流動的な「語り」だった。

​朔は、すぐにその魅力に取り憑かれた。古武術で培った身体のしなやかさと空手で培った瞬発力は、キックボクシングの動きにも応用できた。特に、足技は驚くほど早く習得した。

​「朔ちゃん、このリズムが大事や。相手の動きを見て、自分のリズムに引き込むんや。それが、勝つための語りの速度やで」

​アレックスの教えは、朔の武術観を根底から変えた。これまでの朔は、前世の引きこもりという「無」から「有」を生み出すために、型という「地図」を頼りにしていた。しかし、キックボクシングは、地図ではなく、その場で最適な道を創造する「即興性」を求めていた。

​朔は、古武術の「型(静)」、空手の「競技性(動)」、そしてキックボクシングの「リズム(流動)」、この三つの武術を、3歳という幼さで身につけていくことになった。


父・剛の視点:静かなる変革

​剛は、息子を空手道場に連れて行った時、漠然と「昔の自分と重ねてみようか」と考えていた。だが、朔は想像をはるかに超える才能を見せた。型を覚える速さも、動きの美しさも、3歳の子どもとは思えないほどだった。しかし、剛の心を最も打ったのは、その才能ではなかった。

​道場の組手で、朔は何度も負けていた。相手は、璃音のような負けん気の強い子や、陣のように体格のいい子ばかりだ。朔は泣きじゃくり、時には「もうやめる」と口にすることもあった。そんな時、剛はいつでも「泣いてもええ、立てばええ」と声をかけた。それは、かつて自分を励ました父の言葉だった。

​そして、朔は必ず立ち上がった。

​何度倒されても、涙を流しても、必ずまた相手に向かっていく。その姿に、剛はただの「神童」ではない、もっと深い何かを感じ取っていた。息子は、単に強さを求めているのではない。何かと戦っている。それは、誰かではなく、自分自身の中にある、見えない敵だ。

​「あいつは、俺たちが知らない何かを背負っているのかもしれない」

​剛はそう感じていた。それは、武術の型を学ぶことで、過去の自分を塗り替えようとする、静かで、しかし確固たる意志だった。

​母・澪の視点:愛と戸惑い

​澪は、生まれたばかりの朔が、ただならぬ意志を持っていることに気づいていた。それは、赤ん坊が持つ本能的な欲求とは違う、もっと強い、何かを希求する光だった。

​2歳の頃、朔が初めて言葉を話した時のこと。それは「ママ」でも「パパ」でもなく、「やりたい」という、明確な意思表示だった。それは、マイナーな古武術のパンフレットを指さしての発言だった。幼い我が子の言葉に、澪は戸惑いながらも、その真剣な眼差しに心を動かされた。

​朔は、一度決めたことは決して曲げなかった。空手道場で涙を流しても、翌日には「また行く」と言う。キックボクシングのジムに通い始めると、家でもリズムを刻む練習を欠かさなかった。

​澪は、その成長を喜びながらも、どこかで不安を感じていた。朔は、周りの子どもたちとは少し違う。無邪気に遊ぶ時間よりも、自分を鍛える時間を大切にしているように見えた。まるで、何かに追い立てられるように。

​「朔、無理しないでね。あなたはあなたのままでいいのよ」

​澪は、何度もそう声をかけた。それは、朔の成長を止めてしまいたいわけではない。ただ、彼の心を縛り付けているかもしれない、見えない何かを解き放ってあげたかった。朔の心が、安らかで、穏やかであることを、ただ願っていた。


​空手の師範:大河原鉄心の視点

​「あの子は、自分ば殺すばい」

​鉄心は、3歳の朔が組手で負けては立ち上がる姿を、静かに見つめていた。朔の型は美しい。だが、その美しさには、どこか鋭い刃のような危うさが潜んでいる。それは、他者を打ち破るための攻撃性ではなく、自分自身を徹底的に追い詰めるための、内なる闘争の証だった。

​初めて道場にやってきた時、朔の瞳には、年齢に見合わぬ深い影があった。敗北を重ね、涙を流すたびに、その影はますます濃くなったように見えた。

​「強うなりたいのはわかる。じゃが、あの子は…勝つことよりも、負けんばいことば、恐れとる」

​鉄心は、朔の武術が、勝利への渇望ではなく、敗北への恐怖から生まれていることを感じ取っていた。それは、朔が背負っている、鉄心には見えない「何か」との戦いだった。朔の空手は、強さを求めて相手に向かうのではなく、自分自身を鼓舞して立ち上がるための、「語りの倫理」そのものだった。

​キックボクシングのコーチ:アレックス・ロウの視点

​「あのチビは、リズムの天才や!」

​アレックスは、朔の動きに驚嘆していた。初めてジムに来た時、彼の動きは硬かったが、サンドバッグを叩き、ミットを蹴るうちに、その身体はまるで音楽のように流れるようになった。アレックスが「You gotta feel the rhythm!」と教えるまでもなく、朔はすでに自分の中に独自の「リズム」を持っていた。

​朔の攻撃は、型にはまらず、常に相手の隙を突く。それは、単なる身体能力の高さではなく、相手の動きを瞬時に読み取り、自分のペースに引き込む才能だった。

​「あの目。あの目は、俺が見てきたどのアスリートともちゃう」

​アレックスはそう感じていた。朔の瞳には、勝利への執着とは異なる、冷徹な分析と、そして何かを「掴もう」とする強い探究心があった。彼のキックボクシングは、ただ強さを求める暴力性ではなく、相手との対話から最適な「語りの速度」を見つけ出す、知的なゲームだった。

​古武術の師匠:三雲玄斎の視点

​「朔の型は、拒絶の型なんや」

​玄斎は、通信教育の画面越しに、そして福井で直接対面した時も、朔の型の奥にある悲しみと怒りを感じていた。朔の動きには、常に「拒絶」が伴っていた。過去の自分を、弱かった自分を、受け入れられなかった自分を、すべて否定しようとする強い意思。

​「型はな、おまはんの心の鏡なんや。強うなろうとすればするほど、おまはんの拒絶は深うなる。そして、いつか、おまはん自身を壊してしまうかもしれん」

​朔が三つの異なる武術を学ぶことを知った時、玄斎は不安を覚えた。異なる武術は、朔の「語り」に多重性をもたらす。それは、強さにつながる一方で、彼のアイデンティティを分裂させてしまう危険性もはらんでいた。

​玄斎は、朔が自分の中の拒絶を受け入れ、それを力に変えていくことを願っていた。彼の武術は、他者と戦うためのものではなく、自分自身と向き合うための「語りの鏡性」なのだと、改めて教えなければならないと感じていた。


幼児部門空手大会:語りの交錯

​3歳になった朔は、初めて空手大会の舞台に立った。会場には、色とりどりの道着をまとった小さな選手たちがひしめき合い、熱気と緊張感が満ちていた。前世の引きこもりニートだった僕なら、この場所にいることすら想像できなかっただろう。

​初戦。朔は、古武術で培った型の美しさと、キックボクシングで学んだリズムを融合させ、相手を圧倒した。観客席からは「神童だ!」という声が聞こえ、僕の心は少しだけ高揚した。

​だが、勝ち進むにつれて、僕の前に立ちはだかる相手は、次第に手ごわくなっていった。そして、準決勝で、僕は白石璃音と対峙することになった。

​「あんた、まだ型に頼っとる!」

​璃音は、鋭い突きを繰り出しながら、朔を挑発した。彼女の動きは、ただの攻撃ではなかった。それは、朔の型を読み、その隙を突く、彼女自身の「語り」だった。朔は璃音のスピードについていけず、攻め込まれる。再び、幼少期の敗北の記憶が蘇った。

​その時、観客席から父の剛の声が聞こえた。「立て、朔! 型は心の地図だ!」

​朔は、もう一度自分を奮い立たせた。璃音の攻撃を避けながら、古武術の型を応用した受け技で対応する。しかし、璃音の攻撃は止まらない。朔は、ただ耐えるしかなかった。

​そして、試合は終わった。結果は、朔の敗北だった。璃音は、息を切らしながらも、朔にまっすぐな視線を向ける。

​「次は、あんたの本当の『語り』、見せてみい!」

​その言葉は、朔の胸に深く刺さった。

​決勝戦の観戦:新たな語りの発見

​朔は、悔しさをにじませながら、璃音と黒瀬陣の決勝戦を観戦した。

​「おい、璃音! そげんちょこまか動いても意味なか!」

​陣は、璃音の素早い動きをものともせず、圧倒的なパワーで攻め込んでいく。璃音は、彼の攻撃をかわし、隙を見ては突きを繰り出す。それは、スピードとパワーの、二つの異なる「語り」の衝突だった。

​しかし、陣の攻撃は、璃音の想像を超えていた。彼は、璃音の動きを封じるために、無駄な動きを一切排除し、最短距離で突きを放った。それは、キックボクシングで朔が学んだ「語りの速度」を、さらに研ぎ澄ませたものだった。

​やがて、陣の強烈な一撃が璃音の腹部に決まり、璃音は崩れ落ちた。勝者は、黒瀬陣だった。

​試合後、朔は陣に近づいた。

「…どうして、そんなに強いんだ?」

陣は、朔をじっと見つめ、静かに答えた。

「俺は、勝つためだけにやってる。お前みたいに、型ばっかりこだわらん」

​その言葉は、朔に大きな衝撃を与えた。朔は、これまでの武術を、前世の自分から逃れるための「拒絶の語り」として捉えていた。しかし、陣の言葉は、武術が「勝利」という明確な目的を持つ、「語りの競技性」でもあることを、朔に突きつけた。

​朔は、この大会で初めて勝利の喜びを知り、そして真の敗北の苦さを味わった。それは、彼の「語りの倫理」が、「語りの競技性」と向き合う、最初の瞬間だった。


4歳の決意:敗北から生まれた強さ

​空手大会での敗北は、3歳の朔にとって、何よりも大きな挫折だった。特に、黒瀬陣の「勝つためだけにやっている」という言葉が、朔の心に深く刺さった。これまでの僕は、武術を「前世の自分からの逃避」として捉えていた。しかし、陣の言葉は、武術が**「勝利」**という明確な目的を持つ、厳しい世界であることを突きつけた。

​朔は、その日から変わった。

​これまで、道場やジムでの練習は、あくまで「与えられたもの」だった。だが、4歳になった朔は、自主的に練習を始めるようになった。

​毎朝、目が覚めると、誰も見ていない部屋の隅で、小さな腕立て伏せと腹筋を繰り返した。鏡の前では、シャドーボクシング。幼い体が不安定に揺れながらも、朔は正確なフォームを追求した。それは、ただの運動ではなかった。それは、過去の自分を打ち破るための、静かな儀式だった。

​道場やジムの練習が終わった後も、朔はすぐに家に帰らなかった。誰もいなくなった道場で、ミット打ちの練習を始めた。父の剛が、朔のミットを持ってくれる。朔が繰り出す突きや蹴りは、以前とは比べ物にならないほど力強く、重みを増していた。

​「朔、無理しなくていいんだぞ」

​父の剛が声をかける。だが、朔は何も答えず、ただひたすらにミットを打ち続けた。

​――ニートには戻らない。

――俺は、強くなる。

​朔の頭の中には、あの部屋の光景と、黒瀬陣の冷徹な言葉が反芻されていた。負けたままでは終われない。あの悔しさを、この小さな体に刻みつけ、力に変える。

​この時期の朔の姿は、周囲の大人たちを驚かせた。幼い子どもが、自らの意思でここまで自分を追い込む姿は、尋常ではなかった。彼らは、朔の内に秘められた、底知れない闘志を感じ取っていた。

​朔は、このストイックな自主トレーニングを通じて、古武術、空手、キックボクシングという三つの「語り」を、一つの強固な「物語」へと昇華させていく。それは、ただの技術習得ではない。それは、前世の自分と向き合い、未来の自分を創造するための、壮絶な「再生」の過程だった。


4歳の夏、神谷家は少し変わった家族旅行を計画した。父の剛が、酒の席で「ムエタイの本場を見てみたい」と口にしたのがきっかけだった。母の澪も「面白そうじゃない!」と乗り気になり、気づけば一行はタイ行きの飛行機に乗っていた。

​タイに着いた朔は、まずその熱気に圧倒された。そして、街中に満ちる、スパイスと汗の混じった匂い。それは、空手の道場の緊張感とも、キックボクシングジムのリズムとも違う、もっと生々しい、野生的な「匂い」だった。

​現地のムエタイジムを訪れた時、朔は初めて、ムエタイの練習風景を目の当たりにした。サンドバッグを蹴る音は、まるで爆発のようだ。選手たちの体からは、湯気のように熱気が立ち上っていた。

​父の剛が、通訳を介してコーチに話しかける。

「うちの息子、空手とキックボクシングを少しかじってまして…」

コーチは、何も言わず朔をじっと見つめ、不敵な笑みを浮かべた。

「…やるか?」

​朔は、迷うことなく頷いた。

​ムエタイ:語りの暴力性

​練習は、苛烈だった。空手の組手やキックボクシングのスパーリングとは比べ物にならない。容赦ない肘打ち、膝蹴り。朔は、その一つ一つが、相手を倒すためだけに特化された、純粋な**「語りの暴力性」**であることを悟った。

​ある日のスパーリング。朔は、自分より一回り大きいタイの子どもと対峙した。相手は、朔の動きを軽々と見切り、鋭い肘打ちを繰り出す。朔はなんとかガードするが、その衝撃は、骨の髄まで響くようだった。

​「Come on, kid! Don't think, feel!」

​コーチの声が飛ぶ。朔は、頭で考えることをやめた。ただ、相手の動きを感じ、それに反応する。身体が自然と、相手の攻撃をかわし、反撃の膝を放っていた。

​それは、これまでの朔が学んできたどの武術とも違った。古武術の型、空手の競技性、キックボクシングのリズム。それらすべてを忘れた時、朔の身体は、純粋な「語り」へと変貌した。そこには、過去の自分を拒絶する「倫理」も、勝利を求める「競技性」もなかった。ただ、目の前の相手を倒すという、原始的な「暴力性」だけがあった。

​タイでの経験は、朔の武術を完成へと導く、重要な最後のピースとなった。それは、彼の「語りの多重性」を、より深いレベルへと引き上げていくことになるだろう。


タイから帰国した朔は、以前よりも明らかに変わっていた。彼の動きには、空手の鋭さに加えて、ムエタイの持つ野生的な「重み」が加わっていた。ただの天才ではない。彼は、自らの敗北を糧に、異国の地で新たな「暴力性」という「語り」を獲得してきたのだ。

​夏が終わり、秋風が吹き始めた頃。父の剛が、朔を近所のボクシングジムに連れて行った。

「剛、お前んとこの息子、今度はボクシングか?」

剛の古い知人である、ジムの会長が顔をしかめた。

「…勘違いするな。ボクシングはな、足を使わん。上半身だけで、相手と語り合う。そこには、お前さんがやってきた型も、リズムも、暴力性も…すべてが凝縮されてる」

​朔は、会長の言葉を理解した。古武術は「型」、空手は「競技性」、キックボクシングは「リズム」、そしてムエタイは「暴力性」。ボクシングは、それらすべてを「上半身」という限られた領域で表現する、究極の「語り」なのだと直感した。

​ボクシング:語りの非身体性

​ボクシングの練習は、朔にとって、まったく新しい体験だった。足を使わずに戦うことは、これまでの武術観を覆すものだった。

​シャドーボクシング。鏡に映る自分と向き合う。

「お前はまだ、自分の足に頼りすぎてる。もっと腰を回せ。肩甲骨を動かせ。お前の身体が、何を語りたがってるか、よーく聞け」

​会長の言葉は、まるで古武術の師匠、三雲玄斎の教えと重なった。それは、武術が身体そのものに語らせる、「語りの非身体性」という哲学だった。

​朔は、ボクシングを通じて、これまでの武術を再解釈していった。空手の突き、キックボクシングのパンチ、ムエタイの肘打ち。それらすべてを、ボクシングの原理で統合していく。

​そして、朔は5歳になるまでに、古武術、空手、キックボクシング、ムエタイ、そしてボクシングという、五つの武術を身につけた。

​彼が手にしたのは、単なる武術の技術ではなかった。それは、前世の自分を拒絶するための「倫理」であり、他者と競い合うための「競技性」であり、相手を制するための「暴力性」であり、そして自分自身と向き合うための「鏡性」だった。


アクション映画:語りの美学

​その日、神谷家のリビングでは、両親が楽しそうにジャッキー・チェンの映画を観ていた。派手なスタント、流れるような動き、ユーモアに満ちたアクション。それは、朔がこれまで学んできた武術とは、まったく異なる**「語り」**だった。

​「やっぱりジャッキーはすごいよな。ただ強いだけじゃない、魅せるんだよ」

​父の剛が、感嘆の声を上げる。母の澪も頷きながら、「あの動き、どうやってるのかしら?」と不思議そうに呟いた。

​朔は、画面に映るジャッキーの動きを、食い入るように見つめた。空手のような力強い突きも、ムエタイのような破壊的な蹴りも、ボクシングのような精密なフットワークも、そのすべてが、一つの「流れ」の中に統合されていた。それは、武術の**「美学」**だった。

​朔は、これまでの武術を、勝利のためのツールとして捉えていた。しかし、ジャッキーの動きは、武術が**「表現」であり、「芸術」**であることを示唆していた。

​その瞬間、朔の頭の中に、これまで学んできた五つの武術が、バラバラのピースとしてではなく、一つの完成された絵として結びついた。

​――型は、心の地図だ。

――競技は、人と語り合うための型だ。

――リズムは、語りの速度だ。

――暴力は、語りの本質だ。

――そして、美学は、語りの完成だ。

​朔は、ジャッキー・チェンの動きの中に、自分が追い求めてきた「語りの統合」を見た。それは、特定の型に囚われず、状況に応じて最適な技を繰り出す、究極のスタイルだった。

​そして、朔の心に、一つの言葉が閃いた。

​ジークンドー:語りの哲学

​ジャッキー・チェンは、ブルース・リーの映画から多大な影響を受けていた。朔は、両親に頼んで、ブルース・リーの映画を観せてもらった。

​そこで朔は、ブルース・リーが創始した武術、ジークンドー(截拳道)の存在を知る。そのコンセプトは、「型を捨て、あらゆる武術の良い部分を取り入れる」というものだった。それは、朔がこれまで無意識的にやってきたことそのものだった。

​朔は、両親に懇願した。

「僕、ジークンドーをやりたい」

​父の剛と母の澪は、最初戸惑った。だが、朔の瞳の奥にある、これまでとは違う、静かで深い光を見て、彼の決意を理解した。

​朔が次に手にした武術は、単なる技術ではなかった。それは、彼がこれまで学んできたすべての武術を統合し、自分だけの「物語」を創り出すための、「語りの哲学」だった。


そして、その哲学を具現化した武術が、**ジークンドー(截拳道)**だった。

​その瞬間、僕の頭の中で、これまでバラバラだった武術のピースが、一つに繋がった。

​古武術で学んだ型は、自分の内面と向き合うための**「型」。

空手で学んだ競技性は、相手と向き合うための「競技性」。

キックボクシングで学んだリズムは、相手を圧倒するための「リズム」。

ムエタイで学んだ暴力性は、相手を倒すための「本質」。

ボクシングで学んだ非身体性は、限られた空間で技を表現するための「技術」。

​そして、それらすべてを統合し、自分だけのスタイルを創り出すこと。それこそが、僕が追い求めてきた、そして無意識に実践してきたことだったのだ。

​ジークンドーは、僕にとって単なる新しい武術ではなかった。それは、僕がこれまで歩んできた武術の道を肯定し、これから進むべき道を指し示す、「哲学」だった。

​僕は、前世の自分を否定するために武術を始めた。だが、今は違う。僕は、武術を通じて、僕自身の「物語」を創造したい。


小学生空手大会:五つの「語り」の統合

​あれから数年が経った。僕はもう、あの頃の泣き虫な3歳児ではない。6つの武術──古武術、空手、キックボクシング、ムエタイ、ボクシング、そしてジークンドーという哲学──を身につけた、小学生の神谷朔だ。

​再び空手大会の舞台に立った時、僕は以前とは違う感覚を覚えていた。試合前の高揚感も、敗北への恐怖もない。あるのは、静かで、しかし確固たる自信だった。

​初戦の相手は、僕より一回り大きな少年だった。彼は、力任せに突きを繰り出してくる。僕は、古武術で培った身体のしなやかさでそれをかわし、ボクシングのフットワークで間合いを詰める。そして、ムエタイで学んだ膝蹴りを腹部に叩き込む。相手は、まさか小学生相手に膝蹴りを食らうとは思っていなかっただろう。僕は、ジークンドーの哲学に従い、相手の隙を突き、あらゆる武術の技を融合させて戦った。

​語りの対決:璃音と陣との再会

​勝ち進み、準決勝で再び、白石璃音と対峙した。

​「朔、強くなったね。でも、あんたの動き、なんか変だよ!」

​璃音は、鋭い目つきで僕の動きを見抜いた。彼女の突きは、以前よりもさらに速く、重みを増していた。僕は、キックボクシングのリズムで彼女の攻撃をかわしながら、空手の突きで応戦する。だが、璃音は僕の動きを先読みし、巧みに間合いを取る。

​それは、技術の対決ではなく、**「語り」の対決だった。僕の「統合の語り」と、璃音の「純粋な空手の語り」。僕は、彼女の「語り」**に、迷いがないことを感じ取った。

​試合は、僅差で僕の勝利となった。璃音は悔しそうにしながらも、僕に笑顔を向けた。

「あんた、ほんまもんの神童になったんやな」

​そして、決勝戦。僕の前に立ちはだかったのは、黒瀬陣だった。

​「神谷…お前、強くなったな。だが、俺は変わらん。勝つためだけに、ここにいる」

​陣の言葉は、以前と同じだった。彼の動きも変わっていなかった。純粋な「暴力性」と「競技性」を融合させた、最短距離の攻撃。

​僕は、陣の攻撃をかわしながら、彼に質問した。

「陣、どうしてそんなに強さにこだわるんだ?」

陣は、答えなかった。ただ、一撃必殺の突きを繰り出してくる。僕は、ムエタイの肘打ちとボクシングのパンチを融合させ、陣のガードを崩す。そして、古武術の型から生まれた足払いを見舞う。

​陣は、初めて、僕の前に崩れ落ちた。

​勝利:語りの共有

​勝敗が決まった瞬間、会場は静まり返った。僕は、倒れた陣に手を差し伸べた。

​「陣、僕は…君が、羨ましかったんだ。勝つという、明確な目的があることが」

​僕の言葉に、陣は目を見開いた。

「…お前も、同じだろ」

​陣は、静かに言った。

「俺はな…俺の弱い部分を、隠したかったんだ」

​僕たちは、同じだった。弱い自分から逃げ出すために、強さを求めていた。ただ、その「語り」の方向性が違っただけだった。

​僕は、この大会で、空手、キックボクシング、ムエタイ、ボクシング、古武術、そしてジークンドーという、六つの武術がすべて一つの「語り」へと統合されたことを実感した。そして、その「語り」は、僕が前世の自分から逃げるためではなく、未来の自分を創造するために存在していることを、確信した。

​朔の物語は、この勝利を機に、新たなステージへと向かう。次は、彼の武術が、「語りの哲学」としてどのように深まっていくかを描写していきましょうか。


空手大会での勝利から数か月後。僕は、自分の武術に新たな課題を見出していた。それは、地上での戦い、いわゆる**「寝技」**だった。これまで僕が学んできた武術は、すべて立ち技が中心だった。だが、黒瀬陣との戦いを通じて、もし相手に組み伏せられたら、自分の「語り」は通用しないのではないかという不安が芽生えていた。

​そんな時、父の剛が、近所のブラジリアン柔術道場を見つけてきた。

​「朔、今度はこれだ」

​道場の扉を開けると、そこには畳の上に座り、静かに相手と組んでいる人々の姿があった。空手道場の熱気とも、キックボクシングジムのリズムとも違う、まるでチェス盤の上で駒を動かすような、静かで知的な雰囲気がそこにはあった。

​師範は、穏やかな笑顔を浮かべた。

「柔術は、力で戦う武術ではない。知性で戦う武術だ」

​その言葉は、僕がジークンドーで学んだ**「哲学」と重なった。武術は、ただの暴力ではない。それは、相手の動きを読み、自分の動きを組み立てる、究極の「語りの知性」**なのだ。

​寝技:語りの再構築

​ブラジリアン柔術の練習は、僕にとって、これまでの武術をすべて捨て去るような、まったく新しい体験だった。立っている時は、僕の身体は流れるように動く。だが、ひとたび地面に倒されると、何もできなくなってしまった。

​相手に組み伏せられ、関節技を極められる。タップをするたびに、敗北の悔しさがこみ上げてきた。だが、その悔しさは、空手大会で味わったような、絶望的なものではなかった。それは、新しい扉を開けるための、建設的な敗北だった。

​師範は、僕に優しく語りかけた。

「君の身体は、立ち技の言語しか知らない。でも、この柔術は、違う言語を教えてくれる。力ではない、重力とバランスの言葉を」

​僕は、柔術を通じて、「立ち技の語り」を「寝技の語り」へと再構築していった。相手の腕や脚の動きを読み、自分の体を最適な位置に移動させる。それは、まるで、これまでの自分の武術を、地面というキャンバスの上で再構築するような作業だった。

​ブラジリアン柔術は、僕に新たな「語りの次元」を与えてくれた。それは、すべての武術が、立ち技と寝技という二つの世界で完結することを意味していた。

​こうして、神谷朔の武術は、古武術、空手、キックボクシング、ムエタイ、ボクシング、そしてジークンドーの「哲学」に加えて、ブラジリアン柔術の「知性」を獲得し、さらなる高みへと向かっていくのだった。


ブラジリアン柔術の道場から帰った僕は、毎日、自分の部屋で鏡と向き合った。しかし、以前のようなシャドーボクシングや型の反復練習ではない。それは、僕がこれまで学んできたすべての武術を、ブラジリアン柔術という「知性」で再構築するための、静かで、しかし深い作業だった。

​僕は、鏡の前でゆっくりと空手の型を組んだ。突きを放つ。だが、それはただの突きではない。もし、この突きがかわされたら、次の動きは…と、頭の中でシミュレーションを繰り返す。

​(もし、相手に組みつかれたら?)

​僕は、仮想の相手に組みつかれたことを想定し、柔術で学んだ「テイクダウン」の動きへと移行する。そして、もし相手に倒されたら、どうやって関節技を極めるか、どうやって脱出するかを、頭の中で組み立てていく。それは、僕の身体が、これまでの立ち技の「言語」に加えて、寝技の「言語」を習得していく過程だった。

​キックボクシングのリズム、ムエタイの暴力性、ボクシングの精密さ、そして古武術の型。これまでバラバラだったそれらの武術が、僕の脳内で、ブラジリアン柔術という共通の言語で翻訳され、統合されていくのを感じた。

​それは、まるで、複数の物語を紡いで、一つの壮大な小説を書き上げるような作業だった。

​身体に刻まれた記憶

​僕の身体は、練習時間外の反復練習によって、徐々に変化していった。無駄な力みが消え、動きがより滑らかになった。空手の突きには、ムエタイの重みが加わり、キックボクシングのフットワークには、ボクシングの精密さが加わった。そして、それらすべてが、ブラジリアン柔術の「知性」によって、一つの流れの中に統合されていった。

​父の剛は、僕の練習風景を、静かに見守っていた。

「朔、お前の動きは…昔よりも、ずっと柔らかくなったな」

僕の動きは、確かに柔らかくなった。それは、相手の力を利用し、流れに乗るという、柔術の哲学が僕の身体に刻み込まれたからだった。

​この時期の僕は、勝つために練習するのではなく、武術そのものを探求するために練習していた。それは、「ニートには戻らない」という前世の記憶から始まった僕の「再生」の物語が、「武術という哲学」へと昇華していく、最終段階だった。


MMAジムとの出会い:語りの究極形態

​小学生になった僕は、ブラジリアン柔術で**「寝技の知性」**を獲得し、これまでの武術を完全に統合していた。古武術の型から始まり、空手、キックボクシング、ムエタイ、ボクシング、そしてジークンドーという哲学と柔術という知性。僕の身体は、七つの異なる「語り」が、一つの流れるような「物語」として紡がれる場所になっていた。

​だが、僕はまだ、何か足りないものを感じていた。それは、すべての武術を統合した、究極の「語り」の舞台だった。

​そんな時、父の剛が、ある格闘技雑誌を持ってきた。

「おい朔、これを見てみろ。お前がやってる全部を、一つのリングでやるんだとよ」

​雑誌の表紙には、MMA(総合格闘技)という文字と、リングの中で拳を交わす格闘家たちの姿があった。彼らは、空手の道着も、ボクシングのグローブも、柔術の道着も着ていない。ただ、裸の拳と、鍛え抜かれた肉体で、戦っていた。

​その姿を見た瞬間、僕の心臓は高鳴った。これだ。僕が求めていたのは、これだったんだ。

​語りの完成、そして物語の始まり

​僕は、両親に頼んで、地元のMMAジムに通い始めた。ジムの扉を開けると、そこには、僕がこれまで出会ってきたあらゆる武術が混在していた。空手の突きを練習する者、ボクシングのシャドーをする者、柔術の寝技を極める者。

​だが、ここでの彼らは、それぞれの武術をバラバラに行っているわけではなかった。彼らは、すべての武術を、「MMA」という一つのルールの中で統合しようとしていた。

​僕が初めてスパーリングをした時、相手は僕の動きに驚いていた。キックボクシングのフェイントから、柔術のテイクダウンへと流れるような動き。ボクシングのパンチを放ったかと思えば、次の瞬間にはムエタイの膝蹴りが飛んでくる。

​それは、僕がこれまで「語り」として積み上げてきたものが、MMAという舞台で、初めて「物語」として完成した瞬間だった。

​MMAは、僕にとって、ただの競技ではなかった。それは、前世の引きこもりニートという「無」から始まり、七つの武術という「有」を統合し、そして一つの「物語」を創造する、僕の人生そのものの「語りの究極形態」だった。


小学生になった僕は、ブラジリアン柔術とMMAジムでの練習を重ね、自分の武術が、一つの**「語り」**として完成したことを確信していた。古武術、空手、キックボクシング、ムエタイ、ボクシング、そして柔術。ジークンドーという哲学のもと、これらすべてのピースが、僕の中で一つに統合された。

​そして、その集大成を試す舞台がやってきた。MMA小学生大会。

​会場には、空手着を着た子、柔道着を着た子、キックパンツを履いた子など、様々なスタイルの選手たちがいた。僕も、MMAのトランクスとグローブをつけ、リングへと向かった。

​リングに上がった時、僕は初めて、自分の中に恐怖も、高揚感もないことに気づいた。あるのは、ただ静かな、深い集中だけだった。

​試合が始まった。相手は、柔道をバックボーンに持つ少年だった。彼は、僕を組み伏せようと、力任せに突進してくる。だが、僕は慌てなかった。ボクシングのフットワークで間合いを取り、キックボクシングのパンチを放つ。相手が組みついてきた瞬間、僕は柔術で学んだテイクダウンディフェンスで、巧みに体を入れ替えた。

​それは、まるで、僕の武術が、相手の武術と対話しているようだった。柔道の「語り」に、僕の「統合の語り」が応戦する。相手の動きを読み、それに最適な技を、体から引き出していく。

​黒瀬陣との再会、語りの衝突

​勝ち進み、決勝戦で再び、あの男と対峙した。黒瀬陣。彼は、以前よりもさらに体格が大きくなり、動きも研ぎ澄まされていた。彼の目には、以前と同じ、純粋な勝利への渇望が宿っていた。

​「神谷…お前、強くなったな。だが、俺は変わらん。勝つためだけに、ここにいる」

​陣の言葉に、僕は静かに答えた。

「僕は、ただ勝つためだけに戦っているわけじゃない。僕の武術は、僕自身が何を語るか、そのためにあるんだ」

​試合開始のゴングが鳴った。陣は、以前と同じく、純粋な暴力性と競技性を融合させた、最短距離の攻撃を仕掛けてきた。彼の攻撃は、僕がこれまで学んできたすべての武術を、真正面から否定するかのようだった。

​僕は、その攻撃をかわし、受け流しながら、陣の隙を探した。空手の突き、キックボクシングの蹴り、ボクシングのパンチ。それらを組み合わせ、陣を翻弄する。だが、陣は簡単には崩れない。彼は、僕の動きをすべて読み、力でねじ伏せようとする。

​それは、「語りの統合」と「語りの純粋性」の衝突だった。

​そして、試合は終盤に差し掛かった。僕の動きも、陣の動きも、徐々に鈍くなっていく。その時、僕は、ブラジリアン柔術で学んだ、ある技を思い出した。

​僕は、陣の攻撃をかわすと同時に、彼の懐に飛び込んだ。そして、彼の体重を利用し、柔術のテイクダウンで、彼をリングに倒した。

​勝利、そして次の物語へ

​勝敗は、僕の勝利だった。僕は、倒れた陣に手を差し伸べた。彼は、僕の手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。

​「…負けた。お前の武術は、俺の知らない言葉で語られていた」

​陣の言葉に、僕は微笑んだ。

「僕は、ただ、僕の物語を語っただけだよ」

​この大会の勝利は、僕が前世の引きこもりニートという「無」から、武術という「有」を創造し、そして「物語」として完成させた、一つの節目だった。だが、これはまだ、物語の序章に過ぎない。


MMA大会で勝利を収めてから数年後。僕は、久しぶりに大河原道場の門をくぐった。道場の床は、あの頃と変わらず、磨き上げられ、静かな熱気を放っていた。

​中に入ると、道場主の大河原鉄心が、子どもたちに稽古をつけていた。彼は、僕の姿に気づくと、一瞬目を見開いた。

​「朔…! お前…いつの間に、こんなに大きくなって…」

​鉄心は、僕の頭を、あの頃と同じように大きな手で撫でた。

​「お前がこの道場を辞めた時、わしは寂しかったぞ。じゃが、お前は、お前の道ば見つけたんだな」

​僕は、何も答えず、ただ微笑んだ。

​その時、道場の奥から、懐かしい声が聞こえた。

​「あんた、また来たんか!」

​白石璃音だった。彼女は、以前よりもさらに力強く、凛々しい空手家になっていた。彼女の目は、僕の全身を、一瞬で品定めするようだった。

​「なんか、変な感じ。あんたの動き、空手やない。でも、空手なんや」

​璃音は、僕の武術が、空手だけではない、様々な**「語り」**が統合されたものであることを、一瞬で見抜いた。

​「勝負しいひんか?」

​彼女の言葉に、僕は頷いた。

​再びの組手、語りの再会

​璃音との組手は、僕にとって、懐かしく、そして新しい体験だった。彼女の突きや蹴りは、以前よりもさらに鋭く、重みを増していた。それは、彼女が空手という一つの道を、ひたすらに追求してきた証だった。

​僕は、彼女の突きをかわしながら、空手、キックボクシング、ボクシング、柔術…これまでのすべてを融合させた動きで応戦した。

​それは、もはや勝敗を決めるための戦いではなかった。それは、互いの「語り」を、体で語り合う、対話だった。

​組手の後、璃音は息を切らしながら、僕に言った。

​「…あんた、ホンマにすごいな。いろんなもんを混ぜて、それでも『神谷朔』って、ちゃんとわからせるもんな」

​僕は、その言葉に、胸が熱くなった。僕がこれまで追い求めてきた「語りの統合」は、誰かに認められることで、初めて完成するのだと知った。

​道場を後にする僕を、鉄心は静かに見送った。

​「朔、お前の型は、もうわしのもんやない。お前自身の語りになったばい。じゃが、いつでも、この道場は、お前の帰ってくる場所だ」

​大河原道場は、僕にとって、武術の「競技性」を学んだ場所であり、そして、僕の「語り」が、いつでも帰ってくることのできる「原点」だった。


武術の探求、学業の空虚さ

​小学生になった僕は、学校生活を送る中で、一つの違和感を抱えていた。それは、授業中に感じる、言いようのない空虚さだった。

​算数の授業で数字を追うよりも、僕は頭の中で、ブラジリアン柔術のテイクダウンの動きを組み立てていた。国語の授業で物語を読むよりも、僕は自分の武術が、どんな**「語り」**を紡いでいるのかを考えていた。

​学校の勉強は、僕にとって、答えが一つしかない退屈な作業だった。だが、武術には、決まった答えがない。相手の動き、自分のコンディション、その場の状況…すべてが、常に変化する。その中で、どうすれば最適な**「語り」**を構築できるのか。その探求こそが、僕にとっての真の学びであり、喜びだった。

​僕は、家での宿題をほとんどしなかった。代わりに、道場やジムでの練習時間を増やし、家でも自主トレーニングに励んだ。それは、僕が前世の引きこもりニートという**「無」から、武術という「有」**を創造するための、必然的な選択だった。

​両親の葛藤:愛と不安

​朔の異変に、最初に気づいたのは母の澪だった。

​「朔ちゃん、最近、宿題やってないでしょう?」

​澪の問いかけに、朔は何も答えなかった。ただ、武術の練習に没頭する。澪は、朔の成長を喜びながらも、彼の内に秘められた、何かに取り憑かれたかのような闘志に、不安を覚えていた。

​「この子は…普通の子どもとは違うのかもしれない」

​父の剛も、朔の才能を認めていた。だが、彼の武術への傾倒は、剛の想像をはるかに超えていた。

​「朔、お前の気持ちはわかる。だが、武術だけが人生じゃないぞ」

​剛は、そう言って朔を諭した。武術は、あくまで人生を豊かにするツールだ。だが、朔にとって、武術はすでに、人生そのものになっていた。

​朔の武術に対する情熱は、学業という社会的な規範を逸脱していた。それは、朔が武術という「語り」を、社会の「語り」よりも優先していることを意味していた。

​この時期の朔は、両親との間に、静かな、しかし確固たる「断絶」を抱えていた。それは、朔が「武術家」として生きる道を選び、社会の「物語」から、少しずつ離れていく過程だった。


春休み、中学の入学式を間近に控えたある日のこと。僕は、いつものように道場からの帰り道を歩いていた。武術の探求に夢中な僕にとって、学校の制服は、遠い過去の出来事のように感じられた。

​だが、その平穏な日常は、突然、破られた。

​路地の角で、中学の制服を着た不良が5人、僕の行く手を阻んだ。彼らは、タバコを吸い、僕を嘲笑うように見つめていた。

​「おい、お前、この辺じゃ見かけねぇ顔だな。中学、どこ行くんだよ?」

​リーダー格の不良が、僕の肩を掴んでくる。彼の言葉には、何の**「語り」**もなかった。ただ、威嚇と、そして暴力の予兆だけがあった。

​僕は、これまで、武術を「物語」として捉えてきた。古武術は**「倫理」、空手は「競技性」、柔術は「知性」。すべては、僕の「再生」のための、美しく、意味のある「語り」**だった。

​だが、目の前の不良たちの暴力は、何の「語り」も持っていなかった。それは、ただ、相手を傷つけ、支配するための、現実の、無意味な暴力だった。

​「なんだよ、黙ってんじゃねぇよ。怖くて声も出ねぇのか?」

​不良たちは、僕をからかい、小突いてくる。僕は、動かなかった。この暴力に、僕の武術は、どんな「語り」で応えればいいのだろうか?

​僕は、迷っていた。武術は、人を傷つけるためにあるのではない。それは、僕がこれまで、自分に言い聞かせてきたことだった。だが、このままでは、彼らにやられてしまう。

​その時、僕の脳裏に、黒瀬陣の言葉が蘇った。

​「俺は、勝つためだけにやっている」

​そして、ムエタイのコーチ、アレックスの声も聞こえてきた。

​「Don't think, feel!」

​僕は、考えることをやめた。そして、自分の身体に、何をすべきか問いかけた。

​語りの暴力性、現実との対話

​不良のリーダーが、僕の顔を殴ろうと拳を振り上げた。その瞬間、僕の身体は、自然と動いた。

​ボクシングのフットワークで、彼の攻撃をかわす。そして、空手の突きで、彼のガードを崩す。相手が怯んだ隙に、ムエタイで学んだ膝蹴りを腹部に叩き込んだ。

​不良たちは、僕の動きについていけなかった。彼らの暴力は、僕の**「語り」**の前では、あまりにも稚拙で、無力だった。

​僕は、リーダーを倒すと、彼に向かって言った。

​「…君たちの暴力には、何の意味もない。それは、ただの破壊だ。でも、僕の武術は、僕の**『物語』**を語るためのものだ」

​不良たちは、僕の言葉を理解していなかっただろう。だが、彼らは、僕の瞳に宿る、武術家としての静かな、しかし確固たる光を見て、怯んだ。

​彼らは、リーダーを抱え、逃げるように去っていった。

​僕は、一人になった路地で、静かに立ち尽くしていた。

​武術は、人を傷つけるためのものではない。その信念は、変わらない。だが、現実の暴力と向き合うことで、僕は、僕の武術が、僕自身を守るための**「盾」でもあり、そして、時には、「剣」**にもなりうることを知った。


語りの多重性、集団の圧力

​中学生になり、僕は以前にも増して武術の探求に没頭していた。クラスの授業よりも、道場やジムでの時間が、僕にとっての真の学びだった。

​そんなある日、学校からの帰り道。僕は、以前絡まれた路地とは違う、広い公園で不良たちに囲まれていた。その数は、以前の5人とは比べ物にならない。10人、いや、それ以上いただろうか。彼らの顔には、僕が倒した不良たちの、敗北の記憶が宿っているようだった。

​「おい、お前がうちの奴らをやっつけた奴か?」

リーダー格の男が、僕に鋭い視線を投げかける。彼の言葉には、以前の不良たちのような稚拙な暴力性はなかった。あるのは、集団に守られた、冷酷で、そして重い圧力だった。

​僕は、これまで、武術を「個の物語」として捉えてきた。1対1の状況で、自分の「語り」を、相手の「語り」と対話させる。それが、僕の武術のすべてだった。

​だが、目の前の不良たちは、一つの「語り」を共有していた。それは、**「集団の暴力」という、僕の武術とはまったく異なる「語り」**だった。

​語りの再構成、そして再構築

​僕は、考えることをやめた。そして、自分の身体に、この状況で何をすべきか問いかけた。

​僕の武術は、七つの異なる**「語り」**で構成されている。

​古武術は、相手の動きを読み、流す。

柔術は、相手の力を利用し、制御する。

キックボクシングは、相手を翻弄し、リズムを崩す。

ムエタイは、相手を圧倒し、暴力性を発揮する。

ボクシングは、近距離での精密な攻撃を可能にする。

空手は、一撃必殺の破壊力を生み出す。

そして、ジークンドーは、それらすべてを統合する哲学だ。

​僕は、そのすべてを、一瞬で再構成した。

​僕が最初に狙ったのは、リーダー格の男だった。彼は、僕を油断させるように、ゆっくりと近づいてくる。だが、僕は、彼の動きの先に、集団の動きが見えることに気づいていた。

​僕は、ボクシングのフットワークで、彼の攻撃をかわす。そして、空手の突きで、彼のガードを崩し、ムエタイの膝蹴りを腹部に叩き込んだ。彼は、そのまま崩れ落ちた。

​リーダーを失った不良たちは、一瞬、戸惑いを見せた。僕は、その隙を逃さなかった。柔術で学んだ重心の移動を使い、次々に不良たちを地面に倒していく。僕の動きは、流れるように、そして容赦なく、彼らの**「集団の語り」**を打ち砕いていった。

​彼らは、僕の武術が、個の力ではなく、複数の「語り」が統合されたものであることを理解していなかった。

​彼らは、ただ、圧倒的な力と、理解不能な動きに、恐怖を覚えるしかなかった。

​語りの進化、そして孤高

​不良たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。僕は、一人になった公園で、静かに立ち尽くしていた。

​武術は、僕に、「集団の語り」と対話する方法を教えてくれた。それは、誰かと協力して戦うことではない。それは、自分の内なる「多重性」を最大限に活かし、「個」として、「集団」を打ち破る力だった。

​僕は、この経験を通じて、自分の武術が、いかなる状況にも対応できる、究極の「語り」へと進化していることを確信した。

​しかし、同時に、僕は、自分の居場所が、社会の「物語」から、さらに遠ざかっていくのを感じた。僕は、もう、彼らと同じ世界にはいない。

​僕は、武術という「物語」を、一人で語り続けていく。


朝霧澄音視点___

放課後、私はいつものように散歩に出ていた。故郷の阿蘇の山々を思い出すような、静かで、穏やかな時間が好きだった。その時、遠くから、何かを叫び合う男たちの声が聞こえてきた。

​路地の角を曲がると、そこにいたのは、数人の不良たち。彼らは、見慣れない制服を着た男の子を囲んでいた。男の子は、ただ静かに立っていて、まるで嵐の中心にいるかのように、微動だにしなかった。その瞳は、恐怖も、怒りも感じられず、ただ、深く、静かな湖のようだった。

​「あんたの語りは、風みたいに速い。でも、早すぎると、語りば忘れてしまうけん」

​以前、空手大会で会った、あの男の子だ。

​私は、彼の強さを知っている。だが、目の前の不良たちの暴力は、あの時の競技とは違う。それは、何の意味も持たない、ただの破壊だった。

​男の子は、何も語らない。ただ、静かに立っている。私は、彼が何をしようとしているのか、わからなかった。彼の武術が、この無意味な暴力に、どんな「語り」で応えるのか、想像もつかなかった。

​不良のリーダーが、男の子に拳を振り上げた。その瞬間、男の子の身体が、まるで水のように流れる。私は、彼の動きに、息をのんだ。

​それは、空手でも、柔術でも、ボクシングでもない。それは、風が吹くように、静かで、しなやかで、そして、容赦ない動きだった。彼は、不良たちを、一人ひとり、確実に、しかし無駄なく倒していく。その瞳には、一切の感情が宿っていなかった。

​不良たちが逃げていった後、男の子は一人、静かに立ち尽くしていた。その表情には、勝利の喜びも、相手を打ち負かした満足感もなかった。あるのは、ただ、深い孤独と、悲しみにも似た感情だった。

​彼は、自分の身体が、あまりにも簡単に、そして完璧に、人を傷つけることができることを知っているようだった。そして、その力に、彼は戸惑っているようにも見えた。

​私は、彼の強さに圧倒されながらも、それ以上に、彼の瞳の奥に宿る、深い孤独に心を奪われた。

​彼は、私の「語りの鏡」となった。彼の「語りの速度」と、私の「語りの静」。彼の「武術の物語」と、私の「詩型術」。それは、互いにまったく異なるものだが、互いを映し出す鏡のような存在なのだと、直感的に理解した。

​彼は、一言も語ることなく、ただ、その場を去っていった。

​私は、その日、彼の「武術の物語」ではなく、「人間としての物語」を垣間見た気がした。それは、孤高で、そして、どこか悲しい、美しい物語だった。


不良たちを蹴散らし、一人になった公園で、僕は静かに立ち尽くしていた。

​武術は、僕のすべてだ。それは、前世の引きこもりニートだった僕が、この世界で生きるための唯一の**「語り」**だ。だが、この「語り」は、あまりにも人を遠ざける。僕の武術は、誰かと分かち合うものではない。それは、僕が一人で紡ぐ、孤高の物語なのだ。

​僕は、喧嘩の後の静寂の中で、再び孤独を感じていた。誰もいないはずの公園。だが、僕は、何かの視線を感じていた。

​公園の入り口に、一人の少女が立っていた。白銀の髪に、灰青の瞳。黒い道着をまとった、朝霧澄音だ。

​彼女は、何も語らない。ただ、静かに、僕を見つめていた。その瞳は、まるで僕の武術のすべてを、そして僕の心の奥底を、見透かしているようだった。

​――見られていた。

​僕は、その事実に、胸を締め付けられた。僕の武術は、誰にも見られることを想定していない。それは、僕が一人で完結させるべき、僕だけの物語だった。

​だが、彼女は、その物語の冒頭から、すべてを見ていた。

​僕は、彼女に近づいた。何を言えばいいのか、わからなかった。僕の武術は、人を傷つけるためにあるのではない。その信念は、僕の中で揺らぎないものだ。だが、彼女の目には、僕の武術は、ただの「暴力」として映ったのではないだろうか。

​僕が何かを語り始める前に、彼女が口を開いた。

「あんたの語りは、寂しか語りばい」

​その言葉は、まるで、僕の心を直接読んだかのように、正確だった。

​彼女は、僕の武術を、暴力とは呼ばなかった。

「あの動き、風みたいだったとよ。速くて、無駄がなか。でも、その風には、どこか悲しか音が混じっとった」

​彼女は、僕の**「語りの暴力性」の奥にある、「孤独」**という本質を見抜いていた。

​僕の武術は、前世の自分から逃れるためのものだ。強さを手に入れることで、二度とあの孤島には戻らないと誓ってきた。だが、その強さを手に入れるほど、僕は、周りの人々から遠ざかっていた。

​澄音は、静かに僕に問いかけた。

「あんたは、なんで、一人で語るん?」

​その問いは、僕がこれまで、自分自身に問いかけることのなかった、最も根源的な問いだった。僕は、答えられなかった。

​澄音は、僕の「孤高の物語」に、他者の「視線」という光を当てた。そして、その光は、僕の「語りの深層」に、新たな影と、そして、かすかな光を投げかけていた。

​僕は、彼女の存在によって、自分の武術が、もはや自分だけの物語ではないことを知った。

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