第2話「2002年2月11日」


 やっぱりここが一番落ち着く。

 彩道は誰もいない黄昏時の小さな海辺でぼんやりと過ごしていた。

 ここは一朗が教えてくれた秘密の場所。この小さな海辺で空と海を独り占めする時間が大好きで、彩道は暇さえあればここにいる。


 今日、彩道はクラスメイトと一緒に遊んだ。忙しくなりそうな春休みの予定について話し合ったり、取るに足りない話で盛り上がったりした。楽しかったけれど、無理して明るく振る舞ってしまい、心身共に疲れ果ててしまった。

 ふと頭をよぎる。この平穏な日常を突然失うことがあるのだと。

 どうして誰かと過ごす時間を素直に楽しめないのだろうか。

 もう二度と誰かを大切にしたいと思う感情が芽生えないのだろうか。

 このまま誰かと気持ちを分かち合えずに死んでしまうのだろうか。

 色々と考え過ぎてしまう自分が嫌いで仕方ない。それでも、これ以上自分の感情を押し殺したくないと思って、この小さな海辺に辿り着いた。


 ちょっとだけ寝よう。

 彩道は砂浜に寝転がり、頭の後ろで両手を組んで目を閉じた。耳を澄ませば、穏やかな波の音が聞こえてくる。その波の音色があまりにも優しくて、彩道は改めてこの場所が大好きだと思った。

 ずっとここにいたい。このまま波にさらわれるように導かれて、海の一部になっても構わない。

 そう思ってしまうほど、彩道にはひとりになる時間が必要だった。


 その時だった。

 彩道の右耳から砂を踏む音がかすかに聞こえてきた。

 誰か来たみたいだ。

 彩道は恐る恐る顔だけを右に向けた。

 彩道が慎重に目を開けた先には、中学生くらいの男の子がいた。男の子は芯の強さを感じる大きな瞳で静かに海を眺めている。彩道は男の子の麗しい瞳に心を奪われ、目が離せなくなってしまった。

 この小さな海辺を気に入ったのか、男の子は背負っていた楽器ケースからヴィオラを丁重に取り出した。そして、バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』を思索的に弾き始めた。彩道は再び耳を澄ませ、そっと目を閉じる。穏やかな波の音色と優雅な旋律が美しく結び付き、彩道は夢見心地になった。

 

「……あの!」

 彩道は突然耳元に届いた鮮明な声に飛び起きた。それと同時に、彩道の額と声の主の額が衝突した。

「痛っ!」

「ありゃ!」

 彩道は額に手を当てながら真っ先に謝った。

「ごめんなさい! 怪我はありませんか?」

 声の主が何者なのか、未だにはっきりしない。

「こちらこそ、ごめんなさい! わしは全然大丈夫です」

「オレも、全然平気です!」

「……良かった」

 互いの無事を知って安堵した後、思わず笑みがこぼれた。彩道はようやく声の主の顔をこの目で確かめることができた。目と目が合った瞬間、彩道は息を呑んだ。

 清らかで、透明感があって、芯の強さを感じる大きな瞳。

 さっきの男の子だ。

 格好良い。まるで王子様みたい。

 麗しき瞳にじっと見つめられ、彩道は胸が痛くなるほどの喜びと驚きを感じ、さらに、何故か懐かしい気持ちになった。この感情を何と表現したら良いのか分からなくて、彩道の頬に一粒の涙が伝って流れた。

「……どうしたんですか? やっぱし、怪我しとるんじゃ?」

「あ……いや、大丈夫です。こんなに涙が出るほど笑ったの、なんか久しぶりやなって」

 彩道は涙をぬぐいつつ、この不思議な感情の根源を突き止めた。

 この子のことを知っている。

 どこかでこの子に会った気がする。

 彩道は気まずくなることを覚悟して、目の前にいる男の子に尋ねた。

「……すみません、ひとつ、聞いても良いですか?」

「はい。良いですよ」

「オレたち……どこかで会ったこと、ありますか?」

 男の子は彩道の顔を覗き込んで、おもむろに首を傾げた。沈黙が続き、波の音しか聞こえない。けれども、気まずさを感じることはまったくなかった。

 しばらくすると、男の子は彩道に優しく微笑みかけた。

「あなたに会ったことがある。わしは、そう信じたいです」

 彩道は男の子の返答に胸が高鳴った。そして、目の前にいる男の子の名前を呼びたいと思った。

「あの、お名前は?」

「晴仁、早見晴仁です。あなたは?」

「彩道、吉岡彩道です」

 彩道は晴仁の名乗り方を思わず真似してしまった。どうやら晴仁の品格と言葉遣いに憧れていたらしい。

「彩道さん、何歳ですか?」

「12歳です。4月から中学生です」

「ありゃ、同い年じゃ! わしも4月から中学生なんよ」

「あら! オレ、ずっと年上やと思っとった!」

「なんならー。じゃけえ、敬語を使わんでもええんじゃよ」

「……せやね」

 彩道は晴仁が12歳であることに驚きを隠せなかった。12歳にしては、恐れてしまうほど余裕がある。

「晴仁くん、めっちゃ落ち着いとる。12歳とは思えん」

「ほうかね? 確かに、大人っぽいとか、大人びているって……よう言われる。まあ、家族が言葉遣いに厳しいんじゃ。おかげ様で、どこでも生きていられるような気がする」

 彩道は晴仁の明るい訛りに新鮮さを感じた。爽やかで、勇ましくて、想像以上に情熱的だ。

「晴仁くんはどこから来たん?」

「広島の呉からじゃ。海上自衛隊の人たちがぎょうさんいて、海の眺めが最高で、フライケーキが美味しくて……ええところよ。坂道多いけど。実はね、小学校の卒業式が終わったら、ここに引っ越す予定なんよ」

「ほうなんや……故郷を離れるなんて、オレにはそんな勇気あらへん」

「……勇気、か」

 晴仁はゆっくりと立ち上がって、再び海を眺めた。彩道は晴仁の背中を見つめながら、一体いくつもの影を背負い続けてきたのだろうと思った。

「わしは広島が、呉が大好きじゃ。辛くて悲しいこともあったけど、大切にしたい景色がぎょうさんある。ずっと広島で暮らしたかった。じゃけど、大好きという気持ちだけでは続かない。ずっと続くもんなんて……この世界にはないのかもしれん」

 晴仁は背筋を伸ばした後、少し声を震わせながら胸に秘めた思いを言葉にした。

「それでも、わしは生きるんじゃ。みんなどうせ死んでしまう。名前だけを遺して灰になる。じゃけど、終わりがあることは贅沢なこと。自らの終わりに誇りが持てるように、わしは美しく、格好良く、直向きに生きたいんじゃ」

 彩道は晴仁の言葉を素直に受け止め、胸が熱くなった。そして、晴仁に駆け寄り、彼の手を初めて恋をするように取った。

「晴仁くん、今までひとりで頑張ってきたんやね。ずっとひとりで闘ってきたんやね。もう大丈夫やよ。オレがここにいる。晴仁くんはこれ以上、ひとりで何かを背負い込む必要はないんやよ。オレ、晴仁くんには……これからもずっと、幸せでいてほしいな」

 晴仁は彩道の麗らかな笑顔に胸がいっぱいになった。こんな気持ち、生まれて初めてだった。

 何かを打ち明けるたびに大人っぽいとか大人びているとか、単純な言葉で片付けられ、恐れられてきた。

 誰かと思いを分かち合うことなんてあり得るのだろうか。

 そんなことを何度も考え、時には希望を失いそうになった。

 それでも、晴仁は持ち前の芯の強さで直向きに生きてきた。

 そして、ふと立ち寄ったこの小さな海辺で彩道と巡り会い、思いを分かち合うことができた。

 晴仁は彩道のつぶらな瞳に自分が映っていることを確認した後、彼に感謝を述べた。

「ありがとう、彩道さん。今日、あなたに巡り会えて良かった」

「いえいえ、どちらいか」

「……どちらいか?」

「徳島の言葉やよ。どういたしまして、こちらこそ、という意味。ありがとうって言われると、ほんまに嬉しくて、たまらなく幸せで……オレの口癖」

「素敵な言葉じゃ」

 彩道と晴仁は秘密を作るように笑い合った。

 晴仁は左手首に着けている腕時計にふと目を向けた。そんな、まさか、1時間以上経っていた。さらに、あることに気が付いた。

「彩道さん」

「ん?」

「あの……」

「オレに遠慮せんといて。どうしたん?」

「……そろそろ手、離してくれんかね?」

 彩道は晴仁の手をずっと握っていたことにようやく気が付き、顔が真っ赤になった。

「はっ! ごめんなさい! 待って、めっちゃ恥ずかしい……もう、アホやわ、オレ」

 頭を抱えながらうずくまる彩道を見て、晴仁は爽やかに笑った。

 これが彩道と晴仁の明るい友情の萌しだった。


 午後5時。

 そろそろ家に帰らないといけない時間だ。

「ほな、ぼちぼち帰る?」

「うん、帰らんといけん」

 本当は帰りたくなかった。もっとお互いのことを知りたいと思った。もう一度会いたいと強く願った。

「ねえ、晴仁くん」

「ん?」

「オレたち、また会えるかな?」

「会える。絶対に。入学式で」

「もし……同じ中学校ちゃうかったら?」

「大丈夫。わしらはどこかで会ったことがあるんじゃろ? ほいで今、こうして巡り会えた。きっと同じ中学校に入学して、まさかの同じクラスになって、眠気と闘いながら授業を受けて、一緒にお昼ご飯を食べて、お喋りしながら帰る未来が……わしらを待っとる」

「最高やん。そんな素敵な未来、はよ迎えに行きたいわ」

「そうじゃろ?」

 彩道は晴仁の爽やかな笑顔を見て、再び胸が高鳴った。そして、晴仁が背負っている楽器ケースが目に留まった。

「晴仁くん、音楽は好き?」

「うん、大好き。ヴィオラを弾いている時は心が落ち着くし、最近始めたドラムを練習している時は……心がときめく」

「素敵やなあ。実はオレ、ギターを弾くことが大好きで……毎日ギターに夢中」

「かっこええのう。彩道さんのギター、いつか聴かせてね」

「うん、約束する。ほんなら……もし、オレたちが同じ中学校に入って、まさかの同じクラスになったら……晴仁くんのヴィオラとドラムをたくさん聴かせてほしい」

「もちろん。約束じゃ」

 彩道と晴仁は指切りげんまんをした。そして、中学校の入学式で再会できることを願いながら、それぞれの家の方向へ歩き出した。それでも、何度も振り返って、互いの姿が見えなくなるまで、手を無邪気に振り続けた。

「ほいじゃあね!」

「ほなまたね!」

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