epilogue

 放課後の美術室。

 OGとして久々に美術室に訪れた傘戸芽有は、室内の空気を感じるや否や、懐かしさにむせ返りそうになる。

 まだ、ここに通わなくなって数年しか経っていないにもかかわらず、随分と遠い記憶になったものだ。今日活動する生徒がいないのか、ただ単に部員と時間が合わなかったのか、あるいは既に廃部同然になっているのか。週一回の活動日以外も、開いていれば入り浸っていた芽有としては、閑散とした今の美術室の様子は随分と寂しく感じられる。

 夕日の差す教室をゆったりと歩きつつ、職員室でもらった美術準備室の鍵をとりだす。そして、美術室前方の窓際よりに設けられた扉の錠を開き、準備室内へと体を滑りこませる。

 強烈な絵の具の臭いと、埃が飛び交う薄暗い部屋。手早く壁にとりつけられたスイッチを押して、明かりをつける。ほぼほぼ物置と化した部屋の隙間をぬって、OBが置いていった油絵の集まりを手にした。

 そのまま、芽有は目的のブツを探すべく、一枚一枚確認していく。中には遥か年上の先輩がた、妙にウマが合いよく口喧嘩した先輩の絵、そして自ら若描きをみつけて微笑ましい気分になったりもする。

 楽しかったなぁ。かつての思い出に浸ろうとする。その中で、シミのように広がる黒点が一つ、意識の片隅に浮かびあがる。打ち消そうとしたが、そもそも、今日やってきた理由は、そのシミを確かめに来たのだからと自らを奮い立たせた。そして、件の絵を発見する。

 森の中にある草原。後方に小さな川を背景として、真ん中に幼い男の子が座っている。曖昧な微笑みとも無表情ともつかない男の子の顔に目を奪われそうになりつつも、一点一点噛みしめるように確認していく。とある名画を参考にしたとおぼしきその絵には、たしかに人の心をつかむ魔力があるのは疑いようもない。普段の芽有であれば、ただただ絶賛するだろう。この絵が描かれた直後に、大切な友人が美術から足を洗ってしまっていなければ。否、完全に足を洗ったわけではないのだが。

「あんなこと……言わなければ良かったのかな」

 かつて、芽有は友人の紫柚に対して、兄と向かい合えと告げた。その先にこの一枚を残したのだから、助言自体は成果をあげたといえる。しかし、そこで友は満足してしまった。

 いや、そうでないのかもしれない。

 ――私は、描く方じゃなかったんだよ。

 全力で止めようとした芽有に対して、何の憂いも感じられない顔でそう口にした紫柚は、卒業と同時に、母親や弟とともに兄と父のいる国へと向かった。それきり、会えてはいないが、手紙のやりとり自体はしている。

 そもそも、色々と上手くいかなくて父親と別れたはずの母が向こうに行って上手くいくのかとか、父親には新たな相手がいるのだから邪魔にしかならないのではとか、おもに友人の家族関係の疑問は尽きないものの、友人の去就に比べれば全ては些細な事柄である。

 胸ポケットから手紙とともに写真を取りだす。黒いドレスと同色のフリルのついた帽子をかぶった紫柚が、薄く微笑んでいる絵。作者は紫柚の兄である恵都だった。これが今の友人の本分であるらしい。少なくとも写しとられた女性は、心から幸せそうに見えるし、やりとりしている手紙の内容も兄を中心とした家族との蜜月について書かれているのがほとんどである。幸福であるのは疑いようがない。しかしながら、

「紫柚の絵、好きだったんだけどな……」

 友人として。同じ絵描きとして。芽有は紫柚を心から認めていたし、相応に尊敬の言葉を向けてもいた。だからこそ、描くのをきっぱり止めてしまい、兄の専属モデルになってしまったらしい彼女の変化が残念でならない。

 その点に関しては、友人の卒業前に会った、弟くんもまた、ぼくはおねえちゃんのえがすきなのに、と愚痴を漏らしていたのが印象深い。とはいえ、こうした感情が自らのわがままでしかないのは重々承知の上だ。

 仮にあの時、何も言わなければ。同じ大学で愚痴愚痴と不満を言いながら、ともに画道を邁進できていたのだろうか。美術準備室の薄明かりに照らされた、憎らしいほどよく描けている裸を曝す男の子の視線にいらつきながらも、大きく溜め息を吐いた。男の子は変わらず笑みとも無表情ともいえない顔をしたままただただそこにある。

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水浴 ムラサキハルカ @harukamurasaki

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