Ⅰ
気色悪い。
と、高校生になった
冷静に考えて、兄の行いは今現在の紫柚の中にある倫理的にあり得ないものだった。百歩譲って、過去の有名絵画に似せた構図のものを描こうとしていたのだとしても、わざわざ妹の裸を描こうという発想自体に嫌悪感が湧きあがった。そこら辺の無神経さは後年兄とともに去っていった父親にそっくりで、目的を遂げるために手段を選ばない強引さも、旧姓の森園に戻った母が渋々ではあるものの付き合うのを諦めたのもさもありなんといった感じだ。
そうして、母方に残された紫柚はといえば、
「なにやってんだろ、あたし」
キャンバスの上で筆を動かす道を選んでいた。
今もまた、夕方の美術室で一人、リンゴと向き合っている。紫柚なりの真を写しとろうと、せっせと色を乗せていく。しかしながら、一向に満足にいたらない。
たしかに対象を写しとるという目的でいえば、まずまずと言えた。しかし、もうすぐで色を塗り終わりそうなリンゴに、描いた本人はなにも感じとることができなかった。言うならば、二次元から立ちあがってくるリンゴ以上のなにかが。
これじゃあ、写真の劣化だ。百年以上前の画家のようなことを思いつつ、途中で投げだすのも耐え難くて手先を動かす。しかして、既に頭の中にある理想の絵からほど遠いものになるという未来は確定している。これは何度塗り直しても変わらないだろう、という嫌な確信が紫柚の内部に燻っていた。
「美味そうなリンゴね」
後ろから唐突にかかった声に、紫柚は溜め息で応じる。
「そういう風に描いてるからね」
「あらら。お気に召さなかったかしら」
横合いから覗きこんでくる
「青空の青をちゃんと選んで描けるってだけで、立派な才能じゃない」
「面白い冗談だね」
つまらないことを言う、と思いながら皮肉を口にする。
「誉めてるつもりなんだけれど」
苦笑いする芽有は、隣に椅子を動かしてきて腰かける。
「見ててもいい?」
「自分の絵はいいの?」
「こう、ばばっとインスピレーションが湧くまではインプットに徹しようと思ってるの」
「見るのはいいけど、もう少し離れてくれない?」
他人との接近の際に発生する生理的な嫌悪感を、なるたけ柔らかな言の葉に包みこんで口にする。芽有は、わかったわ、と告げると、椅子ごとずずーっと後ずさった。こういう話が早いところはありがたいな。幼なじみなりの目線で思いながら、休まず手を動かす。
時を重ねれば重ねるほど、理想から遠くなっていき、ただの林檎らしきものになっていく、キャンバス内の線と色の集合体に、吐き気に近いものをおぼえはじめる。それでも、きりがいいところまで持っていかなければ落ち着かないため、手を止められない。そして、紫柚にとっては写真以下のものがそれらしく繕われたところで、筆を止め、長く息を吐き出した。
「前から気になってたんだけれど」
少し間を置いて、芽有から声がかかる。なに、と一瞥すれば、
「シユは人を書かないよね」
などと指摘された。
「苦手なんだよね、人物画って」
言いながら紫柚は、大きく伸びをする。体がぼきぼきと悲鳴をあげるみたいに感じられた。
「そんな気はしてた。ここでの人付き合いも最低限って感じだし」
「わかってるなら、あんまり話しかけないで欲しいんだけど」
再び正面を向けば、不出来なリンゴらしきものが視界におさまって、舌打ちをする。加えて後ろからかかる、幼なじみにその物言いはないんじゃないの、と不満げな芽有の情けない声。それを耳にしながら、嫌いなんだよね人間、と言い直そうかと思ったが、よりうんざりしそうだったので、止める。
紫柚にとって、今日も世界は不愉快なものに溢れていた。
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