幕 間 四天王の影
「……直政は見舞ったか?」
「いえ、まだです」
徳川家康は薬研に用意してあった麦粉を加え、手元を確かめるように薬研車をゆっくり転がした。
少量の水を差し入れれば、粉と粉が馴染み、やがて粘り気を帯びる。
「ここに来るまでは、しっかり喋ってもいたが……。
ここに来てからは、一日の殆どを寝とる。
あの深手では、自分で立ち上がるのも無理だろうな……。」
「……そうですか」
榊原康政は、家康の一歩前に腰を下ろした。
視線を自然と薬研に向かい、転がる薬研車の音が、間を置きつつ会話する二人に相槌を打つ。
「忠勝も逝った……。」
「……はい」
間もなく、草色の生地が出来上がった。
水が混ざることで、微かに薬草の香りが二人の鼻をくすぐる。
家康は一摘み取り、掌の間でゆっくりと練り合わせた。
一つ、また一つと、完成した丸薬を床に広げた懐紙の上に丁寧に並べてゆく。
その半分を口に放おり、すぐさま水を飲んだ。
たちまち、家康の眉間に皺が寄り、その苦さを物語っていた。
「もうお前だけだ。……康政、お前は死ぬなよ?」
「無論……。殿の天下を見るその日まで、死してなどおられませぬ」
今、徳川家康が名前を挙げた二人。
直政とは『井伊直政』を、忠勝は『本多忠勝』を指す。
そして、ここにいる榊原康政と、二年前に逝った『酒井忠次』を加えたた四人こそ、世にいう徳川四天王である。
長年、苦楽を共にしてきた右腕たちの相次ぐ死。
それが、関ヶ原での思わぬ敗北以上に、家康の胸を重くしていた。
「やる。胸の具合を良くする薬だ。身体をいとえ」
「ありがたく頂きます」
家康は残った丸薬を懐紙に包み、床を滑らせるように康政へ差し出す。
それを両手で受け取り、康政は礼を尽くすように一度目を伏せてから、着物の袖の中にそっと仕舞った。
その際、康政は見逃さなかった。
家康の瞳がかすかに揺れ、口が何かを告げようと動くが、すぐに真一文字に結ばれたのを。
康政は思わず小さく笑った。
主君の胸を少しでも軽くしようと、代わりに口を開いた。
吉田城からわざわざ訪れた、本当の目的を告げるために。
「今日の評定で、私が和睦を進言いたしましょう」
「……良いのか?
関ヶ原に間に合わなかったこともある。
ますます泥を被ることになるぞ?」
家康は目を大きく見開いた。
そう、今胸を一番重くしているのは、昨夜のうなぎでもなければ、関ヶ原の思わぬ敗北でも、徳川四天王の相次ぐ死でもない。
直江状から端を発した天下分け目の決戦。
それをどう収め、己の領地をどこまで守り通せるかにあった。
しかし、自ら始めた大戦である。
織田信長以前にあった一大名同士の戦とは異なる。全国の諸大名を巻き込む、かつてない規模の大戦である。
今さら、ここで止めるとは言えなかった。
特に、血気盛んな若き者たちは、なお自らの勝利を信じて疑わない。再決戦を声高に主張してくる。
だが、年老いて経験豊富な徳川家康は知っていた。
ここが分水嶺であることを。
これ以上進めば、伸るか反るか、どちらかしかないと。
反ったが最後、徳川家は再起の芽すら摘まれ、戦国の荒波に沈んだ多くの大名家の一つに加えられることを。
「構いませぬ。殿のためなら、泥の一つや二つ。
それに、和睦をするなら、こちらから申し出た方が有利。使者も、私が引き受けます」
「すまんっ……。すまんっ!」
家康は目を潤ませ、声を震わせながら言った。
思わず膝立ちになり歩み寄ると、康政の右手を取って両手で包み込むように握った。その瞬間だった。
廊下の静寂を切るかのように、床をドタドタと忙しなく踏む音が響いた。
二人が顔を見合わせて、廊下の先を見る。血相を変えた若者が息を切らして駆け込んできた。
「はぁっ、はぁっ……。も、申し上げます!
た、只今、宇喜多秀家様より和睦の使者が参りました!」
目の前で跪き、告げられたその言葉は、あまりにも信じがたいものだった。
「何ぃっ!?」
家康は、たまらず勢いよく立ち上がった。
それは怒鳴りつけるような声を放ち、潤んでいた瞳は一瞬で血走った。
「……有り得ぬ! 岡崎城が落ちたのは昨夜だぞ!」
一呼吸遅れて、康政は頭が理解を拒むかのように首を左右に振った。
なにしろ、タイミングが早すぎた。
徳川家康と榊原康政は、今まさに和睦を決断したところであり、その内容を詰め、使者を実際に送るのは早くても明日になるはずだった。
しかし、西軍副大将である宇喜多秀家の使者は、今、ここに届いた。
榊原康政が吉田城を発ったのは朝日が昇る前。
浜松城までの距離は、吉田城の二倍は離れている岡崎城から届かせるとなれば、日が変わるか変わらないかの時刻に出発せねばならない。
岡崎城が落ちたのは昨日の夕方だ。
どう考えても、和睦についての協議している時間が足らない。
すなわち、和睦の決断は岡崎城を攻める前に下されていたことになる。
むしろ、そのために岡崎城を攻めたとすら言えた。
弱りかけた徳川家康の心を見抜き、へし折り、屈服させるために。
しかも、徳川家康の生まれ故郷である岡崎城を攻め落とすことで、関ヶ原の戦いで鬱憤を晴らせずにいた西軍諸将の溜飲を下げている。
これから季節は冬に向かう。士気は下がり、戦費はかさむ。
戦場の現実と後方の事情、先を読む目を兼ね備えた実に絶妙な策だった。
「誰だ? 誰なんだ?
絵図を描いたのは……。島左近っ!? いや、大谷吉継かっ!?」
そこまで考えが至ると、康政はそら恐ろしくなり、思わず身体をブルリと震わせた。
その戦慄を振り払うように、頭に浮かんだ西軍諸将の中の名高い軍略者の名を口にした。
「違う……。小早川秀秋だ。間違いない」
だが、家康は首を横に振った。
「ま、まさかっ!?」
「康政、認めるんだ。
ただの愚図が忠勝を打ち取れると思うか? あの男は爪を隠しておったのだ」
「……ば、馬鹿な」
康政は思わず顔を上げた。
そこにいたのは、眉間に深く皺を刻み、悔しさに拳を震わせる家康だった。
目立ちたがり屋なくせに小心者で、酒好きでいつも顔を赤くしているボンクラ。
それが、榊原康政にとっての小早川秀秋だ。
関ヶ原の戦いに間に合わなかったせいで、今の小早川秀秋は未知の存在であった。
もちろん、関ヶ原の戦いで小早川秀秋が本多忠勝を打ち取り、家康を潰走させたことは知っていた。
それでもなお、家康が小早川秀秋相手にこれほど本気で悔しがるとは、とても信じられなかった。
「今、和睦を口にできる者など、前線にはおらん!
負けておる儂の周りでも、そうなんだ! 勝っているなら尚更のこと!」
家康は怒気を廊下に震わせた。
声を張り上げるたびに鼻息は荒くなり、床に小さな振動が伝わった。
「できるとしたら、それは前線から一歩退いた岐阜城!
周囲の反対をねじ伏せられる血筋と、武勲を立てて発言力を持ったあいつ以外にいない!」
ついに身を前に乗り出し、家康は出した右足で廊下を強く踏みしめる。
ドンッという音と、立ち上る熱気に、康政は圧倒され、思わず身をすくめた。
「やってくれたなっ! ……やってくれたなっ! 小早川秀秋っ!」
叫び終えた家康は胸を荒く上下させ、和睦の使者を迎えるべく、廊下をドスドスと踏み鳴らしながら進んだ。
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