第12話 小瓶の中の胎児
拝啓
昨晩、貴女の夢を見ました。
私が乗せられた収容施設へ向かう汽車の座席の反対側に貴女は座っていました。貴女は私に一切、気が付かずに途中下車していきました。貴女の隣には私の父もいましたのに、お二人とも私に気が付くことなく途中下車していきました。
私は動き出しそうもない汽車の内窓から駅舎に降り立った貴女をただ見つめていましたが、貴女は一度も私に目を向けずに去っていきました。私だけが取り残された汽車の終着駅は死刑場でした。
死刑場に着いた私を待ち受けていたのは吊るし首でした。首に縄を通されると足を置いた床が抜け落ち、私は真っ暗な闇の世界に落とされていったのです。
ー これで死ねた。やっと死ねた ー
気が付くと私は頭だけが生きる者へと変わっていました。胴体は無論、手も足もまったくなく、ただ頭と顔だけが生かされている者へと変わっていました。そんな私を見つめる眼光に気が付きました。目線だけを向けるとそこにいたのは貴女と見知らぬ女性でした。
ー 僕はやっと死ねました。ねぇ、そうでしょう。僕は今、やっと死ねたのです ー
そう言葉に出して貴女に言おうとしたのですが声を出すことは出来ず、ただ念じるように心に中で繰り返すだけでした。
ー 見てください、僕はあの日、思い悩んでいた事を今になってやっと出来たのです。僕は死ぬことができたのです ー
貴女は私の目をただ見つめているだけで、なにも語りかけてはくれません。傍に近付いてもくれません。貴女はじっと私を見つめるだけなのです。
貴女の隣にいた女性は若き日の母、神谷スエさんでした。
そう、わたしはこの時、貴女の隣にいた女性を神谷スエさんだとはっきり認識していました。
神谷さんは私の頭に手を差し伸べて持ち上げると、自分の膝の上に載せて私の目を見つめ続けました。
ー 晃司、可哀そうな晃司、そうだね、やっと死ねたね。辛い人生を与えてしまった母さんを許してください ー
神谷さんは頭だけになった私にそう仰いました。
不思議な夢です。私は心の奥底で死を待っているのでしょう。しかし夢で見たことが自分の望んでいる事ならば死を望んでいる私は貴女や父に会いたいとも思っている事になります。そして母を狂おしいほど恋しがっている、死を目前にした私が最期に望むものは貴女や母との再会にあるのでしょう。
神谷スエという女性が私の実の母ならば、あの時、燃え尽きながら死んでいった業の兄さまは叔父という事になり、あの男からではなく生みの母から、産まれたその日に癩の菌を身体に受け入れていた事になります。
神谷スエという女性は命を懸けてまでも私に生を授けた。それなのに私は十九歳という年齢で癩を発症し、業の兄さまと同じ運命に落ちていった。若くして亡くなったと教えられた母は偶像であり、貴女の予想通りならばなんという運命でしょう。この病は恐ろしき輪廻をもたらしている事になります。
私は産まれた瞬間に運命を定められていた。
あぁ、私如きが何を祈ろうとも、なにを執筆しようとも運命は定められていたのでしょう。
ー 癩者が産んだ子はいずれ癩者になる ー
私は今、この時を迎えても文学を貫き通す以外に術を持ち得ません。癩の収容施設では入所後、男は必ず去勢手術を受けさせられます。拒否することは出来ません。例え癩菌が身体中を蝕んでいって、すべての感覚を失っても性欲は保たれるのです。
女の収容者もまた避妊手術を強要されます。まだ十歳の少女であっても逃れることは出来ないのです。強制収容時に女患者が妊娠していれば堕胎がおこなわれ、この世に産まれてくることはありません。胎児はアルコールやホルマリンという薬液の入った茶色い小瓶の中に入れられて保管されるか、病院内のどこかに埋め捨てられます。
きっと数十年の時を経て施設の建物が老朽し、建て替えられるときにガラスの破片と共に小さな骨の屑となって見つかるでしょう。
それならば私は屑になりたかった。
この収容施設に人権はありません。持ってきた金品はすべて没収され、病院内でのみ使える金券に替えられてしまいます。ただ、貧相な食事を摂取して眠るのみです。毎日がこの繰り返しであり、そのうち身体の至るところから瘤が硬く膨らんできて人相は変わり果て、瘤はやがて破れ、膿を放ちます。こうなるとすべては時間の問題となり眼球は落ち、手足は切断の時を待つだけです。それなのに何故か性器と舌だけは感覚を失わないのです。
なにもすべきことが無い男と女が同じ場所に収容されていればやるべきことはひとつしか残されていません。人間としての最後の性とでも言うべきでしょう。
ぬたうつ人格の豹変は有って然りであり、その先にあるのは自死のみなのです。鼻から空気を取り込むことが出来なくなると、首に穴を開け、管を肺まで挿入しなければ生きてはいけません。そんなヒトカタを人間と言えますか、いいえ骨になる以前に屑と化す。腐った肉片を纏った屑以外の何に見えるでしょうか。
ただただ病苦に痛めつけられるだけなら産まれてくる前に小瓶の中に入れられたかった。
陣痛に耐え、産んでくださった母に感謝は致します。僅か十九年だけでも人として生きたこと、貴女に逢えたこと、辛い事なんて全くと言っていいほど御座いませんでした。
あの日、あの診療所で宣告されるまでは。
ー 癩病ですね、お気の毒に・・・ ー
この言葉を聞くまでは幸せ者だったと言い切れます。
私は自身の過去を捨て、いま居るこの場所でのみ、息する屑になったのです。厳密に言えば私がこうさせたのではない。私の廻りにいるすべての人間が私を排除し、産まれてこなかった遺物にしたのです。この屑とも遺物ともいえるモノを作り出したのが徳島のお屋敷であっても神谷スエという同じ病に苦しめられた女性であっても私の身の振り方はなんら変わらないのです、いいえ、変えようがございません。
産みの母の母性を思えば『貴女が命懸けで産んだ子は立派に成長し、東京で文壇の人となっています』とでもお伝えしたいものです。ですが、現実は残酷なる顛末を告げざるを得なくなるでしょう。私の取るべき選択肢の先にあるのは無情だけのようです。
敬具
昭和十二年七月十六日
七条 晃司
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます