第3話 大きな蜜柑の木
拝啓
貴方がお住まいになられていたご自宅裏にある『大きな蜜柑の木』には今年も実がたわわに成っていますので木々の生命力は人の域を遥かに超えているのでしょう。まだ実は青く、見た目では硬そうな果実も時を経れば甘く熟し、良い香りを私の鼻先にも届けてくださいます。
独りこの地に残された私は季節のうつろいに翻弄されそうになるばかりで御座います。
思いを越した貴方からの返信に心を振るわせながら封を開きました。検閲されたあとの封を開く指先が振るえてしまい、あぁ、やはり貴方は不治の病を患って私の前から姿を消したのだと自分自身に言い聞かせて書面を拝読いたしました。
あまりにも綺麗ごとばかりのお返事ですこと。貴方はご自身の身に起きた事だけを綴り、小説の著者が貴方ご自身であることのみを私にお教えくださいました。さらには私との婚姻を終わらせる事を身勝手にお決めになっていらっしゃられる。
貴方が書き記した文字を読んだ私の心情などはお考えにならずに書き綴ったのでしょう。
私と出会って僅か三年の歳月しか経っていませんし、貴方も私もまだ十八歳と未熟な年齢で夫婦になりました。しかし、私と離れて僅か一年足らずで貴方は執筆を始め、ご自身の境遇と今いらっしゃる環境を如実に表現なさっています。そこには故郷を想う気持ちも私への愛情の欠片もお書きになってはおりません。ただただ癩者の悲壮感と魂の叫びとでも言いましょうか、いいえ、安易な言葉になってしまいました。人間としての死を受け入れたのちに誕生する魂の復活を綴ったのでしょう。登場人物の対話は癩病を受け入れることができない貴方であり、貴方を諭す人物もまた貴方の中にいるもう一人の貴方そのものでございましょう。
ならば貴方は貴方の作り出した亡霊と戦っていることになります。
小説の文字からうかがい知る事ができるように、癩の病院では軽症者が重症者の看病をなさっているのでしょうか。病状が進んでしまった患者さんを目の当たりにして怯えている貴方が私の前にいらっしゃる。そんな妄想さえ抱いてしまいます。看護婦さんはいらっしゃらないのでしょうか、たとえ軽症とはいえ病者に患者さんの生活をお助けするのは無理ではございませんか。病状を進行させることにはなりませんか。
私は癩という病名は存じていますが患者となった方にお会いした事も、また重症になられたお身体の様子などに思いをよせる事もできません。見た事のないものに痛みを抱けるはずはございませんもの。ですが貴方から頂いた手紙を読んで安堵もしてもおります。
発病は自覚しているが、生活に支障はないとお書きになられておられますので、闘病中のお時間のすべてをお使いになってでも著名な小説家を志していらっしゃるのですから、きっと努力は報われるでしょうし、すでに小説家への道は相当に歩まれていると思われます。
貴方は天性の徳をお持ちのようです。そうでなければ初めてお書きになられた小説があのK先生の目に触れることは奇跡以外の何物でもないと思うのです。もちろんそこには貴方の才能があり、偶然のきっかけもあった事でしょう。しかしながらなんという才能でしょう、巷には小説家を志す書生は多くいるでしょうに、名を伏せたまま、生まれ故郷も明かすことなく文壇のお仲間に並ばれた事、嬉しく存じます。
いま一度、お願い申し上げます。私とお会いくださいませ。私はいま貴方がいらっしゃる病院を見たく存じます。もっと貴方の現状を知りたくも思います。決して好奇心などではございません。貴方の頑なな病気に対する蔑んだお気持ちを理解したいのです。
きっと私はお伺いいたします。遠い旅になります、ですので徒労にさせないでくださいませ。なんら現実に逆行する事が無いのでしたらそれはまたそれで受け入れるべき事実と思い下さり、私にお会いしてください。切にお願い申し上げます。
また手紙をお書きいたします。お返事が頂けなくても構いません。
寒さがいっそう厳しくなってまいりました。お身体をお守りくださいませ。蜜柑が黄色く色付いてきましたらお送りしたく思いますが、きっとご迷惑をお掛けしてしまう事になるのでしょう。
同封されていた離縁書は火をつけて燃やしてしまいました。私にも意地というものがあるようです。
かしこ
昭和十一年二月十七日
と志子
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