魂の番(つがい)~不器用作家と完璧秘書~

白石誠司

第一章

01:導かれた出会い

翠葉すいよう女子大学のキャンパスに、春風がそよぐ新緑の季節でした。

わたくし、夢野ゆめの花恩かのんは、大学生活もいよいよ後半戦、3年生になったばかりでございました。


文学部の講義棟の掲示板に貼り出された時間割を眺めていたわたくしの目に、ある一際輝く名前が飛び込んできたのです。


『白石誠司』


信じられない思いでしたわ。まさか、あの白石誠司先生の授業を受けられるなんて!わたくしは、高校生の頃から先生の作品に夢中でしたから。


緻密に練られた世界観、登場人物たちの葛藤と成長、そして何よりも、読者の心を深く揺さぶる言葉の選び方。


先生の紡ぎ出す物語は、わたくしの心の奥底に響き、現実の喧騒を忘れさせてくれる唯一の場所でした。その先生が、この翠葉女子大学で教鞭きょうべんをとられるなんて、まさに夢のようでしたわ。


初めて先生の講義室の扉を開けた時のこと、今でも鮮明に覚えております。憧れの白石誠司先生!わたくしは最前列の席に座り、胸を高鳴らせて先生の登場を待っていました。


そして、そこに現れたのは……。

うつむき加減で教壇に立った先生は、確かにあの白石誠司先生の、独特の、しかし紛れもないオーラをまとっておられました。


ただ、そのお姿は、わたくしが想像していた『天才小説家』のそれとは、少々……いえ、かなり異なっておりましたわ。


寝癖でボサボサの黒髪は、まるで鳥の巣のよう。着ていらっしゃるシャツは、あちこちに目立つ皺が寄っていて、どう見てもアイロンをかけていないことは明らかでした。《ゆいいつむに》《けんそう》


周りの友人たちのひそひそ話が聞こえてきます。


「ねぇ、あれが白石誠司?写真で見るよりずっと……ねぇ。」

「正直ないわー。髪ボサボサだし、あのシャツのヨレヨレ具合、やばくない?男の人としては対象外だよねー。」

「なんか、イメージと全然違う。夢が壊れる感じ。」


そんな声には耳を貸さず、わたくしは先生から目を離せませんでした。

その時、先生がゆっくりと口を開かれました。


「皆さん、こんにちは。白石誠司です。この講義では、小説の書き方や、物語の構成について……えっと、あの、君たちは物語を考えるとき、どう考えていますか?僕はまず、どういう人物が登場するのかを考えて、その人物像を考えるところから始めます。そうしたら、その人物たちが暮らす世界はどうなのかを考えるのですが…えーと…」


先生はそうおっしゃって、教壇の上の資料を漁り始めました。

目的の資料が見つからず、焦っているご様子でしたわ。そして、その手が滑って、資料が壇上から盛大に落ちてしまったのです。


「あ…」


バサバサッと音を立てて散らばる紙の束に、先生は呆然と立ち尽くしておられました。慌てて拾おうと屈んだその時、今度は先生が愛用されている、キャップのついた万年筆が、コロリと手から滑り落ちてしまいました。


「あ、ま、まずい……」


早く拾わなきゃと焦っておられるようで、さらに万年筆は転がり、わたくしの足元に転がって来てしまいました。

先生は、わたくしの足元に行って万年筆を拾おうとされ…。


「あ・・・ご、ごごごごめんなさい!そんなつもりじゃないんだ…!」


先生は、ハッと息を飲み、目を見開かれました。

その顔は真っ赤になり、目が泳ぎ、まるで取り乱したかのように謝罪の言葉を繰り返されます。


わたくしがスカートの中を見られたことは確かでしたが、先生の純粋な慌てぶりと狼狽したお顔を見て、わたくしは何も言えませんでした。


むしろ、その不器用さに胸の奥が温かくなるのを感じたのです。

周りの学生たちからは、小さくクスクスと笑い声が漏れました。

先生は、顔を真っ赤にして、慌てて万年筆を拾い上げ、散らばった資料をかき集めようとされました。


「し、失礼しました。言い訳ですが、今日が人生初の授業なんで、僕自身もとても緊張しています。少し大目に見てもらえると助かります…」


先生はそうおっしゃって、落とした資料をまとめようとされました。しかし、肝心の資料が見つからないご様子で、焦りが募っているように見えました。

その時、ふと何かを思いつかれたように、先生は胸ポケットに手をやられました。


「あ…こっちでした…」


先生は胸ポケットから一冊の手帳を取り出され、それを板書していかれました。


「そ、それでですね。人物たちが『こういう時にどういう反応・行動をしていくか』が決まっていくと、じゃあ、それを舞台である世界に置いてみたら、どうなっていくのか、を考えるのですが・・・」


先生は、板書された文字を指しながら、訥々と、しかしその言葉には確かな熱を帯びていました。


「僕は先にアイデアだけが浮かんでくるタイプだ。でも、それを繋いでいくのが実はあまりうまくいかない。設定だけ先行するのはいつものことだけれど、それをどう運用するかが決まらないことがある。」


先生はそうおっしゃると、少し眉を下げて困ったような表情をされました。きっと、先生の頭の中には、無限の物語の断片が煌めいているのでしょう。しかし、それを形にする過程で、迷いや葛藤があるのだと。


「そこで、1人で考えていくんですが、どうも繋がらない時があって、そういう時は壁打ちというと失礼だけど、対話する相手がいるともっとスムーズになる…気がするんですよね」


先生は、そう言って、教壇から教室全体を見渡すように目を向けられました。その視線は、一瞬、わたくしのことを見ているように感じられ、胸が高鳴りました。

対話する相手……。


先生が求めているのは、まさにわたくしのような存在なのではないかしら、と。先生の言葉は、わたくしに強い決意を抱かせました。


あの日の先生の姿、そして言葉は、わたくしが先生のそばにいるべき理由を、明確に示してくれたのです。


講義が終わり、わたくしは勇気を出して先生に話しかけました。


「先生、今日の講義、大変興味深く拝聴いたしました。特に、物語における『世界観』の重要性についてのお話、深く感銘を受けましたわ。」

「おお、そうですか。ありがとうございます・・・」


先生は、わたくしの顔を見て、ハッとされました。

きっと、先ほどの出来事を思い出されたのでしょう。その瞬間、先生の顔はサッと赤くなり、どこか逃げるような、しかしわたくしの熱意に気圧されたような、複雑な表情をされました。


「ごごごごめんなさい!訴えないで下さい…!」


先生の突然の言葉に、わたくしは少しだけ驚きましたが、その純粋なまでの慌てぶりに、思わず笑みがこぼれそうになりました。


「いいえ、先生、わたくしは何も気にいたしておりませんわ。それよりも、先生の作品への情熱が、わたくしの心を捉えて離さないのです。先生の才能は唯一無二だと、心から敬服しております。」


わたくしの言葉に、先生はさらに恐縮されたご様子でしたが、同時に、わたくしの言葉が少しは届いたようで、安堵の表情も浮かべておられました。


それから、わたくしは先生の講義が終わると、必ず講義の内容や先生の作品についてお話するようになりましたの。


わたくしは、先生の日常生活のだらしなさを目の当たりにしました。

朝の講義で寝癖がボサボサなこと、着ているシャツがいつもヨレヨレなこと。そして、何よりも、食事をちゃんと摂っていらっしゃらないこと。


ある日のこと。先生はいつもより、さらに顔色が悪く見えました。

わたくしは心配でたまりませんでした。


「先生、なんだか今日はずいぶんお疲れのようですけれど、大丈夫でいらっしゃいますか?ちゃんとお食事は摂っていらっしゃいますか?」


先生は、ハッとされたように目を丸くして、それから困ったように頭を掻かれました。


「ああ、食事、ですか。うーん……そういえば、昨日は、確か……何食べたんだっけ?」


『何食べたんだっけ?』という先生の言葉に、わたくしの心はズキンと痛みました。

まるで、食事をすること自体が、先生にとっては何の意味も持たないかのように、軽く流されてしまう。


このままでは、先生の健康が心配でなりません。

この素晴らしい才能が、不摂生で失われてしまうのは、あまりにも惜しい。


わたくしが、わたくしだけが、この方を支えなければならない。

そう強く、強く思いました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る