第27話 未完の記
直哉と澪は、図書館の閲覧室で埃をかぶった箱を開けていた。教授の調べで、橘千景の遺稿が一部、県立図書館の特別文庫に保存されていると分かったのだ。
「これが……」澪が取り出したのは、黄ばんだ原稿用紙の束だった。紙の端は欠け、インクは滲んでいる。表紙にはかろうじて読める文字が残っていた。
『見届けの記』
直哉は息を呑み、ノートを握りしめた。「これが彼辞の……」
澪は慎重にページをめくった。冒頭はこう記されていた。
〈私は声を聞く。人のいなくなった部屋で、誰かが言葉を綴っている。私はそれを書き留める役を負わされた。けれど、最後の行は決して見えない。〉
直哉は震える声で呟いた。「……彼辞が語ってきたことと同じだ」
数枚先のページは空白になっていた。ところどころに短い断片だけが残っている。
〈名を呼ぶな。名は境界を開く。〉
〈未定義は像となる。像は人を食う。〉
〈道は閉ざされる。戻る者は外とされる。〉
澪は目を細めた。「これ……私たちが直面してきた怪異そのものだ」
直哉は頷いた。「社、鏡の家、境界の家。全部ここに示されていた。千景は自分の小説の中で“怪異の仕組み”を書き残していたんだ」
「つまり、私たちが遭遇した怪異は、彼女の未完の物語に繋がっている。彼辞の声が導いていたのは、彼女自身の“未完の世界”なんだ」
だが、最後の束には文字がなかった。完全な白紙。
直哉はノートに書き込む。〈未完部分=白紙〉。
すぐに余白に文字が浮かんだ。
――そこにこそ、私がいる。
澪が低く言った。「彼辞は白紙に留まっている。書かれなかった最後の章に、彼女自身の思念が残り続けているんだ」
直哉は鉛筆を握り、問いかけるように書いた。
〈じゃあ、僕がここを埋めれば、君は完結できるのか?〉
文字が答える。
――記すこと。それが終わりとなる。だが、誤れば私は歪む。
教授に報告すると、彼は厳しい表情で言った。
「直哉君、覚悟がいるぞ。君がその白紙を埋めるということは、橘千景の未完を君自身が完結させるということだ。彼辞はそのために君を選んだのだろう」
「でも、どうすれば正しく書けるんでしょうか」澪が問いかけた。
教授は首を振った。「それを決めるのは彼女でも私でもない。君自身の見届けた記録が鍵だろう。社、鏡、境界……すべての記録を組み合わせ、最後の章を編むしかない」
直哉は胸に重みを感じながらも頷いた。
夜。下宿の机に白紙の遺稿を置き、直哉は鉛筆を構えた。ノートを横に開き、これまでの記録を並べる。
〈祟り神の社=名と跡の空白を食う怪異〉
〈鏡の家=未定義の像を食う怪異〉
〈境界の家=防衛意識による閉鎖〉
「全部、“空白”を食う存在だった。千景はそれを物語として描き、完結させられなかった。だから僕が……」
余白に文字が浮かぶ。
――恐れるな。記せ。
直哉は深呼吸し、白紙に最初の一行を書いた。
〈見届け人は、空白を記す者である。〉
書いた瞬間、部屋の空気が揺れた。壁の影がざわめき、窓の外の景色が微かに歪んだ。
澪が駆け込んできた。「直哉! 書き始めたのね!」
直哉は汗を滲ませながら頷いた。「でも……部屋そのものが反応してる」
澪は真剣な声で言った。「当然よ。白紙は怪異そのもの。そこに文字を刻むことは、怪異を形にするのと同じ。だから正しく書かなきゃならない」
直哉はノートを見返しながら続けた。
〈名は呼ばれると奪われる。だから名は書に留め、返さぬこと。〉
〈像は未定義を奪う。だから選択を証拠とし、未定義を残さぬこと。〉
〈境界は恐怖で閉ざされる。だから恐怖を記録に変え、通路を繋ぐこと。〉
読み上げながら書き写すと、部屋の揺れは次第に弱まっていった。
だが最後の一文をどう書くべきかで、直哉の手は止まった。
〈すべてを見届けることは……〉
鉛筆が震える。もし誤れば、彼辞は「歪んだ完結」となり、二度と救えないかもしれない。
澪がそっと言った。「直哉、答えはもう出てるはず。あなたはずっと記録してきたじゃない」
直哉は目を閉じ、思い返す。社で名を返さなかった夜、鏡の家で像を先取りされた瞬間、境界の家で道を見失いかけた時……。すべての場面で、彼は「記録」によって空白を埋めてきた。
やがて、彼は白紙に大きく書いた。
〈すべてを見届けることは、終わりではなく始まりである。〉
その瞬間、余白に最後の文字が現れた。
――完結。
空気が一気に澄み渡り、部屋の影が静かになった。白紙に刻まれた文字は、橘千景の遺稿と直哉の記録が一体化したものだった。
直哉は震える手で鉛筆を置いた。「これで……彼辞は」
澪が頷いた。「彼女の物語は完結した。もう声は消えるかもしれない」
ノートの余白に、最後の文字が浮かんだ。
――ありがとう。
それが、彼辞の最期の声だった。
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