第25話 境界の封じ直し

境界町の入口が安定を取り戻した翌日、直哉と澪は教授に報告するため、町の中央にある公民館に向かった。


教授は既に到着しており、机に並べた資料を前にしていた。初老の男は二人の顔を見ると、疲労の色を読み取ったのか、労わるような眼差しを向けた。


「よく無事で戻ったな。入口が閉じられる症状を体験しただろう」


澪は頷いた。「はい。ですが、間取りを記録して外に持ち出すことで閉鎖は解除できました。曖昧な部分を記録した時点で、曖昧は消える。その法則を使ったんです」


教授は興味深そうに眼鏡を押し上げた。「なるほど。だが、それだけでは一時的な解決にすぎない。境界を閉じようとする意志は、まだ家に残っているはずだ」


直哉はノートを抱え、覚悟を決めるように言った。「だから今日は“封じ直し”をやります。家そのものに働きかけ、もう二度と町を閉ざさせないように」


再び境界の家に足を踏み入れると、空気は前よりもざらついていた。外で再定義を行ったため、家は必死に抵抗しているのだ。廊下の壁紙が波打ち、窓の外の景色が絶えず揺らいでいる。


澪は手元の懐中電灯を照らしながら言った。「最終的な作業は“境界の由来”を特定し、それを記録として無効化すること。住人がなぜ閉鎖を望んだのか、その動機を家に刻み直す必要がある」


二人は台所から順に部屋を巡った。冷蔵庫の紙片、寝室の木箱、子ども部屋の落書き。全ては既に確認済みだったが、今日は細部を徹底的に調べた。


やがて、二階の書斎の床板の下から、さらに古い日記が見つかった。


その日記には、家の主だった男性の筆跡でこう記されていた。


〈町に外の工事業者が入った。彼らが持ち込むものは我々の生活を乱す。外の人間は汚れている。私は町を守らねばならぬ。だからこの家を“境界”にする。私が道を閉じる〉


直哉は息を詰めた。「やっぱり……“穢れ”の思想だ」


澪は冷静に分析する。「彼は町を守るつもりで境界を閉じた。けれど、その結果、人々は帰れなくなった。防衛の意志が、共同体を逆に衰弱させたんだ」


直哉はノートに大きく書いた。〈境界の家の本質=防衛の意志が固定化したもの〉。


「封じ直すにはどうすれば?」直哉が問う。


澪は考え込み、やがて答えた。「境界を“守る”から“繋ぐ”へと定義し直すこと。つまり、町を閉ざすのではなく、出入り口として機能させる。それを記録に書き換えて、家の中心で読み上げる」


「中心……どこ?」


「恐らく子ども部屋。迷路の落書きがあった場所だよ。そこが境界を閉ざす仕組みの核になっている」


二人は子ども部屋へ向かった。壁一面の落書きは、昨日よりさらに濃く、矢印が増えていた。矢印は出口をすべて潰し、中央に渦を巻くように収束していた。


「これが“閉鎖”の象徴か……」直哉は背筋を凍らせた。


澪はノートを開き、声を震わせずに言った。


「直哉、昨日までの記録をすべてここで読み上げて。そして最後に“町の入口は開いている。境界は出入りを繋ぐもの”と書き加えて」


直哉は頷き、読み上げを始めた。


「玄関、北向き。廊下左手に和室、右に居間。居間の窓から商店街が見える。台所の冷蔵庫には紙片。階段は二十七段。二階書斎には地図、“外=見せない”と記載。寝室には木箱、外にいないと解除不可と記載。子ども部屋には迷路状の落書き。……これらすべてを記録した」


読み上げながら、直哉はノートに新たな一文を刻んだ。


〈町の入口は開いている。境界は外と内を繋ぐもの〉


彼は声を張り上げた。「町の入口は開いている! 境界は外と内を繋ぐものだ!」


すると、壁の落書きがざわめき始めた。矢印がねじれ、一本ずつ消えていく。中央に渦を巻いていた線も薄れていき、やがて完全に消えた。


「……やったのか?」直哉は息を詰めた。


だが次の瞬間、部屋全体が大きく揺れた。床が軋み、窓の外の景色がぐにゃりと歪む。


澪が叫んだ。「最後の抵抗だ! 家が“閉鎖”を守ろうとしている!」


直哉はノートを強く抱え、さらに書き加えた。〈この家は境界の記録を守る場所。閉じるためではなく、繋ぐための証拠を保管する〉


声に出して読み上げる。「この家は境界の記録を守る場所だ!」


澪も叫んだ。「閉じるのではなく、繋ぐために!」


揺れは次第に収まり、壁の色が落ち着いていった。窓の外には確かな町の風景が広がり、霞むことはなかった。


直哉は膝をつき、ノートを抱えたまま大きく息を吐いた。


「……終わったのか?」


澪は静かに頷いた。「うん。家の役割を上書きした。これでもう閉鎖は起きないはず」


直哉はノートに結論をまとめた。


〈境界の家・第5話まとめ:

 原因=住人の防衛意識が境界を閉ざした。

 症状=町の入口を消失させ、住人は戻れなくなった。

 封じ直し=間取りの記録を読み上げ、“繋ぐ境界”として上書き。

 結果=家は閉鎖の仕組みを失い、町の出入りは安定化した。〉


ノートの余白に彼辞の文字が浮かんだ。


――境界は恐怖を映す。だが記録は、恐怖を役割に変える。


数日後、教授は町の住民に聞き取り調査を行った。これまで戻れなかった人々が、何事もなく町に帰れるようになったという。


「やっぱり成功したんだ……」直哉は胸を撫で下ろした。


澪は言った。「でも、忘れないで。怪異の正体は常に“人間の意志の残滓”。恐怖や防衛心が形を変えて現れる。だから記録することが、唯一の対抗手段になる」


直哉はノートを閉じ、深く頷いた。


町の入口は開かれている。境界は守りではなく、繋ぎの象徴として新たに刻まれた。

「境界の家」の怪異は、こうして封じ直されたのだった。

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