第23話 境界の再定義
翌朝、直哉と澪は境界町の外れに立っていた。空は灰色で、春の陽気はまだ遠い。町の入口に立つ鳥居のような木製の門の前で、二人は深呼吸をした。
「ここで間取りの記録を読み上げればいいんだよね」直哉が確認する。
澪は頷いた。「そう。この町の外側で記録を読み上げることによって、“町の入口”がこちらの定義に従う。境界は曖昧さに依存しているから、外からの記録が優先される」
直哉はノートを開き、昨日書き残した間取りのページを指で押さえた。
〈玄関→廊下左手→和室→居間(窓越しに商店街)→台所(冷蔵庫に紙片)→階段二十七段→二階書斎(地図に外=見せない)→寝室(外にいないと解除不可と記述)→子ども部屋(迷路状の落書き)〉
一つひとつの項目が矛盾を孕んでいるが、それこそが効力を持つ。
「矛盾をそのまま読み上げるんだ。曖昧を記録した時点で、曖昧は消える」澪の声は落ち着いていた。
直哉が声を整え、読み上げを始めた。
「一、玄関は北向き。入って左に廊下。
二、右に和室、左に居間。居間の窓からは商店街が見える。
三、台所の冷蔵庫には紙片。境界の定義に関する記述あり。
四、階段は二十七段。
五、二階書斎には町の地図。“外=見せない”と赤字で記載。
六、寝室の木箱には紙片。“外にいないと解除不可”と記載。
七、子ども部屋の壁に迷路状の落書き。間取りがループすることを示す」
読み終えると、風が強く吹いた。町の入口が揺らいで見える。
澪が小声で言った。「効いてる。町が“こちらの記録”に従い始めてる」
だが次の瞬間、景色が大きく歪んだ。鳥居の奥に見えていた商店街が揺らぎ、代わりに見知らぬ山道が広がった。
「待って、別の景色が現れてる!」直哉が叫ぶ。
澪はすぐに分析する。「家が抵抗しているんだよ。記録を否定するために“別の出口”を見せている。でも、矛盾している以上、こちらが記録を優先すれば勝てる」
直哉はノートを握り、追加で書き込んだ。〈町の出口に“山道”が現れた。矛盾として記録〉。
「町の出口は商店街。山道は矛盾だ」直哉が声に出す。
すると、山道の景色が揺らぎ、商店街が再び見えた。
しかし次はもっと大きな歪みが来た。商店街と山道が同時に並んで見える。左右に二つの風景が重なり、道が二股に分かれていた。
「ダブルバインド……」澪は息を呑んだ。「二つの選択肢を同時に突きつけ、どちらを選んでも境界に捕らえられる仕組みだ」
「じゃあどうすれば?」
「どちらかを否定するんじゃなく、両方を記録するんだよ。“二つが同時にある”という事実を残せば、曖昧さは消える」
直哉は震える手でノートに書いた。〈出口は二股。商店街と山道が同時に存在〉。
読み上げた瞬間、二つの景色がぶつかり合うように震え、やがて一つに収束した。そこには確かに商店街の入口があった。
「やった……」直哉が息を吐く。
「まだだよ」澪が鋭く言った。「最後に必ず“入口を閉じる動き”が来る。それを上書きしなきゃ、住人たちと同じように戻れなくなる」
言葉の通り、次の瞬間、町の入口が霞み始めた。足元の石畳がぼやけ、商店街の輪郭が溶けていく。
「これが“閉鎖”か……!」
澪は叫んだ。「直哉、すぐに記録して! “入口が閉じている”と!」
直哉は必死に書き殴った。〈町の入口が閉じている〉。
読み上げると、景色は一瞬止まった。しかし完全には戻らない。
「足りない……!」澪は焦った。「閉じる動きを否定するだけじゃ駄目。開く動きを定義し直さなきゃ!」
直哉は鉛筆を握りしめ、大きく書いた。〈町の入口は開いている。石畳は見え、商店街が続いている〉。
声に出して読み上げる。「町の入口は開いている!」
澪も続けた。「商店街が続いている!」
その瞬間、霞んでいた景色が一気に晴れ、入口が確かな形を取り戻した。
二人は足を踏み入れた。商店街の石畳が足の裏に重みを返し、店のシャッターが並んで見えた。町は確かに戻っていた。
直哉はノートを閉じ、息を荒く吐いた。「……本当に戻れた」
澪は静かに頷いた。「これで分かったはず。境界の家がしていたことは、“町の入口を曖昧にする”こと。その結果、住人は戻れなくなった。でも記録によって曖昧を消せば、入口は再び開く」
直哉はノートを開き、まとめを書いた。
〈境界の家・第3話まとめ:
現象=町の入口が曖昧化され、住人は戻れなくなる。
抵抗=別の出口や二股を見せて、曖昧を強化する。
対策=矛盾をそのまま記録し、“曖昧さ”を事実として固定する。
結果=町の入口は再び開き、出入り可能となった〉
ノートの余白に彼辞の文字が浮かんだ。
――曖昧を曖昧のままに書けば、それは曖昧ではなくなる。
直哉はその文字を見つめ、胸の奥で理解した。
怪異は“曖昧さ”に依存する。ならば、記録こそ最大の武器だ。
町の中を歩きながら、澪が言った。
「でも問題はまだ残ってる。この家がなぜ“境界の再定義”を始めたのか。その原因を解き明かさないと、また同じことが起きるかもしれない」
直哉は深く頷いた。「原因……。それはきっと、家に残された日記や落書きにある。次はそこを読み解こう」
夕暮れの商店街は静かで、風が旗を揺らす音だけが響いていた。
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