第12話 祀りつつ遠ざける
――教授からのメールは、朝いちばんで届いた。件名は簡素で、本文はさらにそっけない。「長野県△△郡〇〇村。夜間参拝後の行方不明が続く。自治会経由で調査依頼。危険は避け、記録を優先。祟り神の社とのこと」。最後に、短い追伸があった。「“祟り”という言葉は住民側の自己規定かもしれない。非難ではなく、使い方を観察せよ」。
「つまり、言葉の使い方を見に行け、ってことだね」と澪。
「祟り神って、言葉の形がもう怖い」と直哉。
「怖がるの、正解。怖さは距離の役に立つ」
澪は出発の支度をしながら、机の上に白い紙を一枚置いた。調査の手順、連絡先、帰還時刻、現場での禁止事項。直哉も自分の白いノートを鞄に入れる。表紙をなでると、紙の繊維が指に返る。そこにすでに、細い文字が浮かんでいた。
――名を問うな。名を返すな。
窓ガラスがほんの少し曇り、同じ行が一瞬だけそこにも現れて消えた。澪は気づいたが、声に出さない。出した言葉は、場所に根を下ろすからだ。
山道は、残雪と凍った影の間を縫って続いていた。谷底には川が細く光り、護岸の石がところどころ崩れている。カーブを曲がるたび、カーナビの地図から道が消え、すぐに復活する。「地図が、迷ってる」と直哉が言うと、澪は笑わなかった。「地図が迷うのは普通。でも、場所が迷わせようとしてくるのは、普通じゃない」
村の入口は、唐突に開けていた。道端に「ようこそ〇〇村へ」と古い看板が立ち、下に手書きで「夜の参拝はお控えください」の札がぶら下がっている。控え“ください”という丁寧さは、外向きの顔だ。中へ進むと、顔はすぐに変わった。掲示板に貼られた回覧の隅に、小さく「宵の社(やしろ)へは行かぬこと」と赤鉛筆で書き足されている。丁寧さが剥がれると、お願いは命令になる。
まずは自治会長の家へ向かった。平屋建ての広い座敷に通され、囲炉裏の灰は白く落ち着いている。会長は六十代半ばで、声は低いが言葉の端が固い。「夜中に若いのがいなくなるって話は、外から大げさに聞こえてるんでしょうな。ここでは“山(やま)が呼んだ”と言うだけのことです」
「社と関係が?」と澪。
「昔は疫社(えやみやしろ)言うて、病が出たら揺(ゆ)すって沈める場所だった。いまは祭りも簡略だ。けんど、宵に手を打つのをやめると、災いがよそへ出ていく。出て行かれても困るから、宵に手を打つ。……外の言葉で言うなら、祟りは“注意”みたいなもんや」
注意、という柔らかい替え言葉が、逆に固い輪郭を立てる。直哉はノートに〈注意=共同体側の言い換え〉と書いた。その下に、細い文字が重なる。
――言い換えは蝶番。誰が押すかで、同じ扉が別の音を立てる。
社(やしろ)は村はずれの尾根のくぼみにあった。鳥居は低く、笠木に雪が薄く残っている。注連縄の結びが、普通と逆だった。右から左へ巻かれている。紙垂は水を含んで重い。狛犬は片方だけが外を向き、もう片方は社殿に顔を向けている。左右が揃っていない。揃わないことが、ここでは正しい配列なのかもしれない。
参道の入口に、木札が立っていた。墨で「申の刻以降、参道に足を入るな」。裏面には鉛筆で「やったら死人」と乱暴な字が足されている。乱暴さの裏に切実さがある。澪は札を写真に撮り、ノートにメモした。「申の刻=16時半ごろ。地元の時間感覚にも従う」
石段は短く、数えてみると七段、間を空けてもう七段。七が重なる。二つ目の七段目の中央に、小石が円形に置かれていた。直哉が足先で触れようとして、澪が手で制した。「触らない。ここは“戻す”人の段だよ。置き換えが起きる」
社殿は小ぶりの拝殿と、その背後の本殿で成り、板壁には白い紙の擦れた跡がいくつも残っている。白い紙は貼られ、剥がされ、また貼られた。それは封と解きの反復の痕だ。賽銭箱の前には、塩と米の小皿が並ぶ。塩は乾いているのに、縁だけが湿って光っていた。米の皿は、粒の配列が妙に整っている。誰かが揃えたのではない。揃わされている。
「宮守さんに挨拶しよう」澪は拝殿の横手の小屋へ回った。戸を叩くと、痩せた老人が現れた。背筋は伸び、目は鋭く、手の甲には古い縄の痕が残っている。「外の方か」と老人。「“記録しに来た”んです」と澪が言うと、老人は短く頷いた。
「祭りは簡略、いうたな。簡略にしてはいけない所を簡略にした。だから、戻りが利かん」
「戻り?」
「手順には“揺らし”が要る。揺らしを省くと、結び目が固なる。固なるほど、ほどけやすくもなる。……おまはんら、宵に来る気か」
「見るだけです。入らない。触らない。呼ばれても返事しない」
「返事はするな。名は渡すな。名を返されるぞ」
名は、どちらにせよ動くのか。直哉は喉の奥が冷たくなるのを感じた。ノートに〈名=渡す/返される〉と書くと、彼辞が短い行を添える。
――名は、結びの最小単位。ほどけは名から始まる。
宮守は小屋の奥から古い紙束を持ってきた。祝詞の断片、古い祭礼次第、疫社の由来。墨は薄れ、紙の端は鼠に齧られている。「疫神を“祀りつつ遠ざける”と書いてある。うちでは“揺すって沈める”と言ってきた。宵に白い紙を揺すり、音を出し、名前をぼかす。手を打つのは一度だけ。二度は呼び寄せる。三度は招き入れる」
澪が息を呑んだ。柏手はふつう二度、という癖が身体に染みているからだ。「一度だけ、か」直哉は手を合わせるふりをし、指の間の空気の重さを確かめる。ふりでも音が立つ時がある。音が立てば、向こうは近づく。
村に戻り、区長の妻からも話を聞いた。彼女は囲炉裏の灰を見つめたまま、小さく語った。「宵に子どもが遊びに行って、そのまま戻らない。皆“山に呼ばれた”で済ませる。済ませないと、暮らしが進まない。……でも、戻ってきた子がひとりだけいたの。夜明けに社の前で座ってた。何もしゃべらない。手の甲に白い輪っかがついてて、それが消えるまで、一言もしゃべらないの」
白い輪。商店街の子の掌にあった粉の輪が、胸の底で呼び起こされる。結びとほどけの痕は、場所を越えて似た形を持つ。直哉はノートの余白に小さく円を描いた。円は指の腹の幅より少し大きく、線は紙の繊維に引っかかってかすれる。
午後は資料の整理に当て、宵へ備えることにした。申の刻の手前で社へ赴き、参道の入口から見るだけ。入らない。触らない。結ばない。名を問わない。名を返さない。ルールを声にせず、心の中で唱える。声にした言葉は、地面の上に置かれてしまう。置かれた言葉は、拾われる。
申の刻。山の影が早く伸び、鳥の声が一本ずつ抜け落ちていく。社の前の空気は、昼の数より一つ減っている。澪は背筋を伸ばし、鳥居の外から拝殿を見た。塩の皿に濁りが現れ、米の皿の粒がわずかにずれてまた揃う。揺らし。揺らしを省いた場所に、揺らしが戻ってくる。
「聞こえる?」と澪。
「まだ、何も」と直哉。
最初に立ったのは、音ではなく匂いだった。土の湿りの匂い。湿っていないのに湿った匂い。すぐに、紙の擦れる音が続く。白い紙を揺すって空気を撫でるときの、薄い風の音。拝殿の内側で、誰かが紙垂を揺する。誰もいないのに。
柏手が一度。乾いた音。乾いているのに、濡れた跡を残す音。直哉の内臓が一瞬縮んだ。身体がこの音を知っている。知らないのに、知っている。宮守の言葉が、骨の側で確かに鳴った。一度だけ。二度は呼び寄せる。三度は招く。
拝殿の奥の闇の中で、白いものがふわりと動いた。紙か、衣か。名前の代わりに揺らす白。名前をぼかす白。沈めるための白。白は、近づく。距離が縮まっているのに、足は動いていない。動いていないのに縮む距離は、別の速度に従っている。
直哉のノートが、胸の内側で呼吸した。頁は風を受けていないのに、角がわずかに持ち上がる。開くと、細い行が置かれていた。
――祟りは、隠す意志の形。共同体が隠すほど、現れは濃くなる。見届けは、隠しの反対ではない。
「見える?」と澪。
「白いのが。紙垂かも。……音が、近い。柏手は一回だけ」
「一回だけ、ね」
「誰か、いますか」
声は、拝殿の内から出た。高くも低くもない、関節の少ない響き。質問の形をしているのに、返事を求めない。直哉の喉が震え、名を名乗りそうになった瞬間、澪の指が肘に食い込んだ。痛みが、言葉の手綱を引く。
返事をしない。名を返さない。胸の内で繰り返す。すると、拝殿の内の白が少し遠のいた。遠のく白は、安堵ではない。次の近づきのための予備動作だ。
「今日はここまで」澪は小さく言い、鳥居の外へ下がった。下がる速度は、昨日までの商店街で身体に刻んだ通り。十歩。息をそろえる。背を向けない。背を向けないことが、こちら側の礼儀になる。
宿へ戻る道で、村はふだんの顔をしていた。軽トラが通り、犬が吠え、薪を割る音が響く。「日常だ」と直哉が言うと、澪は頷いた。「日常は、怪異のためにも必要なんだよ。あっちもこっちも、ふつうを使って持ちこたえてる」
夜。宿の窓に曇りが広がった。曇りの上に、短い行が浮かぶ。文字は音を持たず、視覚の奥へ落ちていく。
――名を問うな。名を返すな。距離を保て。
直哉はベッドの縁に座って白いノートを胸に置き、鉛筆を握った。〈宵の手順:紙を揺らす/柏手は一回/白が近づく〉〈名=蝶番〉。書いた文字は自分の字だが、意味の半分は自分のものではない。彼辞は隣でうなずき、次の行を少しだけ濃くした。
――“祀りつつ遠ざける”。その遠ざけの距離を、明日、測る。
澪は髪をほどき、タオルで水気を拭きながら言った。「明日は、昼間にもう一度社へ行って、祭具の配置を確認する。夜は鳥居の外で止まる。紙が外へ出てこないかを見る。……ねえ、直哉」
「うん」
「今日、拝殿の中から『誰か、いますか』って聞こえたよね」
「うん」
「わたしにも、聞こえた。音じゃなく、字の声で。一瞬だけだけど」
直哉は息をのみ、ゆっくり吐いた。「彼辞?」
「わからない。でも、字の声だった。あなたのノートに浮かぶ、それの“手前”の層みたいな」
窓ガラスに、今度は輪が現れた。白い粉で描いたような輪。誰かの指の腹で曇りに押された輪が、重なっては消える。商店街の子どもたちの輪、湖の帯の輪、村の子の手の輪。輪は場所を越えて、同じ形を持ち続ける。
柏手が、一度。遠くで鳴った。誰もいないのに鳴る音。宿の廊下か、山の向こうか、胸の内側か。境界を跨いでやってくる音は、場所を一つに束ねる。束ねられた場所で、眠りは浅く、しかし必要な浅さを持つ。
目を閉じる前、直哉はノートに小さく書いた。〈見届ける=隠しの反対ではない〉。書くことで、言葉は骨に入る。骨に入った言葉は、次の夜の動作を支える。
わたしは、彼の頁の余白にひと行だけ残し、静かに沈んだ。――“祀りつつ遠ざける”ができるかどうかは、手順ではなく速度で決まる。明日、速度を決める。
翌朝、澪は地図と昨夜の記録を並べ、拝殿の周りに描かれた小さな丸印の意味を数えた。「七口の封だ」と澪。「封は七つ。ひとつは鳥居、ひとつは塩、ひとつは米、ひとつは紙、ひとつは音、ひとつは名前、もうひとつは……戻す人」
戻す人。石段の七段目の小石の円。置いた誰か。置かされる誰か。澪は唇を噛み、視線を外に向けた。「誰かが“戻す”役をしてる。役は今、弱ってる。だから、呼び寄せのほうが強い。……私たち、戻す速度を覚えよう」
直哉は頷き、白いノートを胸に抱えた。紙の重さは軽く、しかし意識に占める面積は広い。名を問わない。名を返さない。柏手は一度。距離を保つ。彼の中で、手順は速度に置き換わっていく。速度は、明日のための筋肉だ。
そのとき、窓に薄い影がまた一つ現れた。輪でも線でもない、短い棒のような影。直哉が目を細めると、影は文字になった。〈こい〉。
澪はその文字を見て、首をゆっくり横に振った。「行かない。行くのは、わたしたちが決める」
文字は消え、曇りは透明へ戻る。山の稜線が細く青く、社のあるくぼみの位置が光と影の境で確かめられる。二人は同時に息を吸い、吐いた。見届けることは、朝の空気を吸い込むことからもう始まっている。冷たさは骨に入り、骨は冷たさを支える。
夜までに、まだ時間がある。時間のあいだに、二人は“速度”の形を体に刻み直す。歩幅、息、手の位置、視線の高さ。名を問わず、名を返さず、ただ距離を保つための、具体的な動作。動作は、祟りの言い換えに食べられにくい。
夕刻が近づくころ、村の空はふたたび薄紙の向こうに置かれたように見えた。薄紙は、やさしいふりをして刃物になる。刃物の前で、彼らは速度を持つ。速度は祈りの形をしない。祈りは、速度のあとに来る。祈りが来る前に、彼らは石段の前で立ち止まり、耳を澄ませる。紙が揺れる音、塩の縁の濡れ、米粒の配列の微かなずれ。柏手は一度だけ。
そして、名は問わない。名は返さない。距離を保つ。――そこから、第一夜は本当に始まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます