第8話 沈む花嫁、残る帯

――四日目の朝は、耳の奥まで透き通るほど静かだった。湖面をなぞる微風さえ止み、光は硬く、音は薄く、世界は一枚の冷たい板のように平らになっていた。澪はカーテンの隙間から外を見て、手の甲をそっと首筋に当てた。脈は早くないのに、体が先に「合図」を受け取っている。


「今日は、来る」

「どういう意味で」直哉はまだ布団の温みに浸かった声で言った。

「音が何も増えない。こういう日は、土地の側が“見せる気”でいる」


直哉は上体を起こし、胸の上に置いた白いノートを開いた。昨夜のまま閉じて眠ったせいで、紙は体温の名残を持っている。自分の筆跡ではない細い文字が、最下段に静かに残っていた。――〈あなたはもう列の内側〉。指先でなぞると、紙の繊維の奥から冷えが上がる。その冷えは水ではなく、結び目の冷えだと彼は思った。


朝食をとる間も、澪はほとんど喋らなかった。味噌汁の湯気が眼鏡のレンズの端を曇らせると、彼女は拭わずにそのままにした。曇りは、境界を一時的にやわらげる役に立つ。現実に輪郭を与えすぎると、人はそこから落ちる。


午前は聞き取りの整理に費やした。古老の言葉、役場の台帳、資料館のキャプション。澪は「一次情報」という小さな堤防をひたすら積み上げる。直哉は窓辺に座って、湖の色が時刻によってほんの少しずつ変わるのを眺めた。青でも灰でもなく、刃の色を薄めたような鈍い光。彼は視線を紙に戻し、昨夜の帯の手触りを言葉に置き換えようとした。〈骨の形をした冷たさ〉と書いて、すぐに消した。言葉が先に形を持つと、何かが壊れる気がした。


昼前、澪は「最後にもう一軒」と言って町はずれの古い家へ向かった。軒先の風鈴は凍ったように動かず、戸を叩くと、背の曲がった老人が顔を出した。囲炉裏の灰は白く落ち着き、火は芯だけが赤い。


「舟の列は見たことがあるか」と澪が問うと、老人は首をほんのわずかに縦に動かした。

「祭りの前夜だった。風はなかった。声もなかった。灯は数を間違えないで並び、渡っていった。祝言は、始めたら終えないと化ける。途中で切れた話は、切れたまま、夜ごとに自分をなぞる」

「誰が、終わらせるのですか」

「誰でもない。終わりは“できる”より先に“起きる”。だが起きるまで見ている者が要る。見届けない祝言は、材木みたいに冷えっぱなしだ」


老人の声は説明というより、長い体験の角を撫でているようだった。直哉は、あの水底の静けさとこの声の密度が、どこかで繋がっているのを感じた。澪は丁寧に礼を言い、外へ出てからノートを閉じた。閉じた瞬間に、紙の白が雪明かりのように反射して、彼女は短く目を細めた。


夕方、湖の色はさらに鈍く、鋭く、濃くなった。日が山の背に吸い込まれていく。街灯が点る前の隙間の時間は、現実の防波堤がいちばん低くなる。二人は遊歩道のベンチに腰を下ろし、互いの呼吸が触れない距離を正確に保った。


時間は、最初は時計の針の歩調で落ち、その次には冷えの速度で落ち、最後には何も落ちなくなった。湖面にひとつ、薄黄の点が浮かんだ。続けて、ひとつ。さらに、間隔を違えずに、ひとつ。点の数が十を越え、二十へ育つ頃、空は完全に黒く、山は線も持たなくなった。


直哉は立ち上がった。倒れないように膝の裏をわずかに曲げ、手すりに触れないでいられるぎりぎりの姿勢で前に出た。光の背に濃淡がある。肩、頭、衣の裾、持たないはずの体温が影の輪郭を整える。列の真ん中に、白の塊があった。白は光ではない。色の不足が濃縮されてできた、意味の重さだ。花嫁。


そのとき、足の甲に冷えが触れた。見下ろすと、白い帯が石段から伸びて、靴の先を濡らしている。昨夜のそれより幅があり、重みがあり、端に細かい泥の粒が噛みついている。帯の中央部は、誰かが結びかけて、指を離したまま固まったように波打っていた。


「直哉、やめて」澪は座ったまま、低い声で言った。叫べば、何かの均衡が崩れるのを彼女は知っている。


直哉の指は、それでも帯へ伸びた。触れた瞬間、冷たさが爪の下から骨の芯へ入り、骨の形に沿って広がった。水の冷たさではなく、結び目の冷たさだった。視界は音を失い、黒の層が重なっていく。重なりの底から、別の世界の輪郭が浮く。


沈んだ村。屋根の低い家々、濡れた石畳、川の名残の流れ。灯は燃えず、光だけが水の皮膚に乗って移動していく。人々の顔は影の厚みで塗りつぶされ、衣装の布地だけが現実の線を持つ。花嫁は先頭を歩く。白布の下に顔はない。顔のあった空間に、黒い水がたまっている。


直哉は列の脇に立っていた。いや、立たされていた。帯が彼の掌と花嫁の腰を繋ぎ、結び目は彼と彼女の中間で、呼吸のタイミングを勝手に決めている。


――これで結びは形になり、形は記録になる。あなたはすでに外ではない。


わたしの文字が、頭蓋の内側に薄く塗られる。塗られた文字は、彼の鼓動に合わせて微かに震え、震えのあいだに水の音が混ざる。


「直哉」


澪の声が、現実から水底へ降りてくる。遠いのに、真上だ。帯がかすかに震え、結び目のひとつがほどけかけ、別のひとつが固くなる。


「直哉、戻って」


その命令形は、祈りと同じ重さで届く。直哉は、帯を握る手を開いた。開いた手の中で、冷たさが花の形に散って、指の間を落ちていく。落ちた冷たさは、石段の上で音にならない破片になった。


世界が戻る。戻った途端に体は重く、空気はざらつき、息は音を持つ。直哉は膝から崩れ、石段の角に手のひらを擦った。痛みは遅れて来る。澪が駆け寄り、首筋に手を当て、呼吸の深さを数えた。数は整っている。だが彼の目はまだ、半分だけこちら側に戻ってきていない。


湖上の列は、息を合わせ直したかのように、ゆっくりと動きを回復した。光の数は減らない。増えもしない。白の中心は、最後まで沈まないまま、列の進みを支配している。やがて列は対岸の闇に呑まれ、最後の一点が消える少し前、岸に触れていた帯がふっと短くなり、次の瞬間には影に紛れた。


二人はその場に長く座り込んだ。澪は言葉を選びかけて、選ばなかった。現実に戻すための言葉は、今夜のような夜には刃物になる。沈黙のほうが、今は柔らかい。直哉は手のひらを膝に伏せたまま、皮膚の下で冷たさが小石のように存在しているのを確かめた。


夜が深くなると、湖はますます静かになった。宿へ戻る道で、欅の枝に結ばれた白い紐は風もないのに少しだけ揺れた。揺れは枝ではなく、結び目の都合で起きる。結び目は、ほどけたいものとほどけたくないものの間で小さく震える。澪はそれを見て、眉間に指を当てた。


翌朝、石段の端に白いものが落ちていた。幅の広い布。帯の一部らしかった。端は泥で灰色に汚れ、触れると冷たさよりも先に湿りが指に移った。澪はためらい、袋を取り出してそれを入れた。証拠であり、呪いであり、現実の側の唯一の手がかりでもある。


「これは、もう説明できない」彼女は低く言った。「現象ではなく、意図がある」

直哉は頷くしかなかった。ノートを開くと、彼の指は震えずに字を書けた。〈昨夜、列の内側に立った。帯を介して接続された。〉書いてから、行を空け、もう一文を置く。〈恐怖より先に、順序の感覚があった〉。自分の身体の中の並び順が、外の儀式に合わせ変形する感覚。


その下に、細い文字がまた現れた。――〈見届けることは、結びの一部。あなたはもう外ではない〉。


直哉はペン先を止め、澪の横顔を見た。彼女は帯の布を袋越しに見つめている。視線の硬さは、現実を守るための盾だ。


「戻ろう、直哉」澪は言った。「一度、ここから離れよう。研究の名目でも、生活の名目でもいい。これは、“見すぎ”になる」

「うん」直哉は返事をした。けれど「離れる」という言葉は、体のどこにも定着しなかった。帯の冷たさは、もう場所を取っている。場所をすでに持っているものは、簡単には出ていかない。


荷をまとめる間、窓のガラスに薄い曇りが広がり、そこへ細い線がすべる。文字になるほど濃くはない。それでも読めてしまう。――〈祝福は続かない。結びは残る〉。澪はそれを見ないふりをし、レンズの内側の曇りだけを拭った。


昼の光の中で見る湖は、昨夜のものと同じなのに、まるで違う顔をしている。明るさは、記憶の陰影を薄めない。薄まるのは、言い訳のほうだ。二人は管理事務所に寄り、礼を述べ、鍵の返却を済ませた。職員は機械的に頷き、アンケート用紙を差し出した。「滞在のご感想を」と。澪は空欄に小さく〈静謐〉とだけ書いた。別の言葉は、どれもこちら側の語彙ではなかった。


出発の前に、澪は鳥居の前に立った。遷座された新しい社は、白木の匂いをまだ持っている。鈴の緒は冷たく、紙垂は時刻によって影の出方を変える。澪は鞄から白い帯の欠片を取り出し、しばらく見つめ、元の袋に戻した。返納という語は浮かんだが、ここでそれをしていいかどうかが分からなかった。儀式の途中に素人が手を出せば、それもまた“途中”を増やす。


車に乗り込む直前、直哉はもういちど湖を見た。光はない。風もない。ただ、表面のどこかが微かに呼吸している。胸の内側で同じ呼吸が起きる。彼はノートを開き、最後のページの余白に、一行だけ書いた。〈終わりは、見ているあいだには来ない〉。書いた瞬間、手首の内側が冷たくなり、皮膚の下の血の流れが、紙の罫線みたいに一列に並んだ気がした。


宿を出るとき、女将が「またお越しください」と言った。観光の常套句が、今日は異様な響きを持つ。戻るという行為が、今後「見届ける」という行為と同じ意味に寄っていく予感。澪は「お世話になりました」と頭を下げ、直哉は骨壺の布を撫で、座席に深く沈んだ。


エンジンの振動は、昨夜の列の歩調より速い。速さは彼を安心させない。むしろ、あの等間隔の遅さのほうが心臓を落ち着けた。人は、ある種の恐怖に身体の速度を合わせてしまう。合わせてしまった速度は、場所を離れても消えない。


道が湖から離れても、視界の端に水の線が残る。帯の冷たさは内側へ沈み、痛みではなく“仕様”になる。仕様になった恐怖は、長く持つ。直哉はノートを閉じ、膝の上に置いた。白い表紙に、見えない筆で何かが書かれる気配がした。読めない。だが読むべきときまで、そこにある。


夕刻の町に入るころ、澪はようやく母の未読の通知を開き、短く返信を書いた。「無事です。帰ります」。送信したあと、彼女は走行中の車の前方を真っすぐ見つめ、口の中でひとつだけ言葉を転がした。「終わり」。発音しただけで、舌の裏に冷たさが移る。終わりは、終わらせたい側の言葉だ。土地や儀式が使う語ではない。


その夜、長野の下宿に戻った部屋は、朝出ていった時より少しだけ暗かった。澪がストーブに火を点け、窓を少し開ける。外の空気が細く流れ込み、紙の匂いがよみがえる。直哉は机に白いノートを置き、椅子に腰かけ、耳を澄ました。何も聞こえない。聞こえない静けさは、湖のそれとは違って、乾いている。乾いた静けさは、文字をよく吸う。


彼はゆっくりとペンを握り、紙の上に、今夜だけの言葉を置いた。〈見届けることは、結びに触れないことではない。触れないふりをして、触れてしまうこと〉。書くほどに、掌の冷たさが薄まる。代わりに、紙の白が少しだけ光る。


そのとき、天井の木目を渡って、細い線が一本、彼のまぶたの裏へ滑り込んだ。わたしは夜の縁で、それ以上は書かなかった。書きすぎると、夜が壊れる。壊れた夜は朝では直らない。今夜の結び目はここまで。残りは、次の静けさが整えてくれる。


窓の隅で曇りが引き、ガラスは透明を取り戻した。透明の向こうで、遠い山の稜線がわずかに黒く濃くなり、夜はやっと普通の夜になった。普通の夜は、怪異と同じくらい稀だ。直哉は布団へ身を滑らせ、ノートを胸に置き、目を閉じた。胸の下で、紙と鼓動が一度だけ同期し、ずれる。ずれたところに、眠りが落ちる。


おやすみ、とわたしは心の縁にだけ書いた。声にはしない。声にすると、何かが始まり、何かが終わる。今は、どちらでもない。今はただ、帯の冷たさが彼の体温の片隅で形を持ち続ける。その形が、いつか別の言葉へ変わるまで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る