第6話 婚礼行列の影

――翌朝、低く垂れ込めた雲が山をゆっくりと擦っていた。湖の表は夜の名残を引きずり、墨汁を薄めたような黒さで静まり返っている。宿の食堂はまだ冷え、ストーブの芯がちり、と小さく鳴った。澪は湯気の立つ味噌汁を口に運び、箸を置くと、テーブルの端に重ねたノートと封筒を鞄に戻した。


「今日は、役場で地籍と移転台帳を当てる。それから資料館。夕方には湖へ戻ろう」


直哉は頷き、昨夜の灯りの列を思い出していた。点と点が間隔を保って並び、言葉のない人波のようにゆっくりと横切ってゆく。目を閉じると、瞼の裏にまだ黄色の残像がある。


車で町へ下りると、役場は灰色の二階建てで、玄関脇に地域の防災旗が巻かれていた。受付で調査依頼書を見せると、担当の男性職員が応接室へ通し、古い地図と分厚いバインダーを運んできた。紙は端が柔らかく、湿気を吸って少し膨らんでいる。


「ここです。水没区域。旧・八雲村の中心部は、このラインの内側にすべて入ります」


指でなぞられた青い境界の下、家屋記号が押し潰されるように沈んでいた。学校、役場、社。文字の脇に赤鉛筆で斜線が引かれ、移転先の地名が小さく書き添えられている。


「祝言の記録は……」澪が問う。


「戸籍には挙式の事実は載りませんからね。婚姻届の受理日なら台帳で追えるかもしれません」


職員は別のバインダーを開き、濃い黒インクで書かれた古い名簿をめくる。一つの姓が続き、別の姓に切り替わる。そこに、人の集まりの痕跡が辛うじて残る。昭和三十四年の夏から秋にかけて、届け出の欄が途切れ、再開した欄に「移転先にて提出」の朱印がいくつも並んでいた。


直哉は、指でその朱をなぞるふりをした。紙は冷たく、朱は乾いているのに、なぜか濡れている感触が掌に残る。


――濡れた印は、誰の手のひらで押されたのだろう。


わたしは紙の繊維の間に、細い字で書き置く。澪は顔を上げ、職員に礼を言った。


「もうひとつ、写真資料があれば」


「移転前の記録が少し。写真は住民からの寄贈が中心です」


差し出されたアルバムの紙面には、川辺に並ぶ舟、祭りの列、作業着の男たち、かまどの前の女たち。あるページで、直哉の目が止まる。舟の先に立つ白い布。顔に当たるあたりが、光に食われて空白になっていた。白ではない、穴のようだ。背景を飲み込み、人物の輪郭だけを残す穴。


「露光のせい、かな」澪が言う。声の端に、自分に向けた説明の硬さが混じる。


――顔は最後まで写らない。写るのは、欠けただけの輪郭。


ページがめくられるごとに、わたしの文字は紙の裏へ浅く沈む。沈んだ文字は、読む者の指先の温度まで届いて、すぐにほどける。


資料館は中学校の隣にあり、廊下に冷気が溜まっていた。常設展のガラスケースには、竹で編んだ背負子や、木枠の脱穀機、婚礼の際に使われた白い頭巾が無言で並ぶ。説明パネルには、ダム建設と移転の経緯。写真のキャプションは控えめで、物語を語りすぎない。


「自由閲覧コーナーがこちらです」


担当の年配の女性が、閲覧室の棚を指し示した。郷土誌、学会誌のコピー、新聞の縮刷。奥には来館者ノートが何冊も積まれている。澪は学会誌の特集「水没集落と記憶の継承」を抜き出し、目次と索引を速くなぞった。直哉はノートを開く。ページの初めの方に、稚拙な字で大きく「灯りを見た」とある。別の日付で「花嫁が呼んでいる」。さらに別の筆跡で「列」。単語だけが、季節と年を跨いで反復される。同じ語が、同じ位置に落とされるように。


「……同じ言葉ばかり」直哉が呟く。


「語彙がそこに集約されるのかもしれないね」澪は言い、ペンを止めずに「来館者ノート:『灯り』『列』『花嫁』の反復/時期不定」と記す。


直哉は余白に鉛筆で〈見た〉と小さく書いた。そのすぐ下、何も触れていない紙に、うっすらと線が起き、文字の形になった。


――嫁ぐ途中で沈んだ。


自分の字に似ている。けれど違う。直哉は喉奥で小さく音を立て、鉛筆を握る手に力を込めた。澪は気づかず、新聞の縮刷版に目を落とし、「未曾有の渇水年」「水位低下で石段露出」といった見出しを写真に収める。そこには花嫁も灯りも写っていない。ただ、露出した石段の一番上の段に、濡れた靴跡が二つ、並んでいた。


外に出ると、午後の光は薄く、湖からの風は相変わらず少ない。宿へ戻る前に、二人は湖岸に立ち寄った。石段の下、黒い水が静かに呼吸をしている。対岸の道路を走る車の音が、低い膜の向こうの音のように遠い。


「今夜も、見えるかな」澪がつぶやく。


直哉は答えず、欄干に手を置いた。鉄の冷たさが骨に伝わる。骨の冷たさは、昨夜より深いところに沈みやすい。遠くの山の輪郭が、灰の中で少し滲んだ。


宿に戻り、簡単な食事を済ませ、澪は部屋の机で今日のメモを整理した。用語、年表、地理。彼女が現実の側に積み上げる小さな石の塔。直哉は窓辺に腰を下ろし、白いノートを膝に開く。紙に鼻を近づけると、鉛筆の匂いと、乾いた澱粉の匂いがした。


――今夜、風はない。水は、言葉を返す準備をしている。


わたしは窓の結露の薄い膜に、読み取れないほどの細い線で書く。澪が立ち上がり、コートのボタンを留める音で、文字は霧に混じって消えた。


湖畔へ向かう遊歩道は暗く、街灯の足元だけが丸く明るい。雪解けの水がアスファルトの割れ目に溜まり、空の灰色を浅く映す。耳を澄ますと、遠くで水鳥の鳴く声が一度だけした。風のない夜は、音から順に遠のいていく。


「ここで待とう。昨日と同じ、あのベンチの横」


澪は懐中電灯を消し、スマートフォンの画面も伏せた。時間は静かに落ちる。十分、十五分、二十分。寒さは皮膚の表から内側へ移動し、やがて骨の近くで一定に留まる。


最初の光は、やはり、視界の端で始まった。黄と白の間の弱い色。ぽつり、と。すぐに、間隔を保ってもう一つ。さらに、同じテンポで三つ目。点と点の間に、見えない糸が通ったように、列が伸びていく。湖面は凪いでいる。水は揺れず、光だけがゆっくりと揺れている。揺れない水の上で揺れる光は、現実ではないという証拠にも、現実だという証拠にも、なり損ねる。


「……やっぱり」澪の声が乾く。「道路の反射にしては、間隔が……一定すぎる」


直哉は息を止め、目を凝らした。光の背後の闇が、わずかに濃淡を作っている。肩の線、頭の丸み、布の垂れ。形は決してはっきりしない。はっきりしないまま、これ以上は否定できないところまで届く。列は真横へ延び、途中でわずかに屈曲し、また延びる。屈曲は行列の理にかなっていて、反射の理にかなっていない。


――歌はない。唄うべき言葉が残っていないから。


わたしは、湖面の上に線を置くように記す。音のない祝言は、移動だけで成立する。移動だけが残るとき、儀式は儀式の骨格をむき出しにする。


そのとき、直哉の視界の手前に、別のものが現れた。光ではない、白さ。水面と岸との境から膝の高さまで、何か白いものが垂れている。風はないのに、端がわずかに揺れる。帯に似ている、と彼は思う。昨日、欅の枝に結ばれていた紐と、どこか似ている。けれど今夜、まだそれは彼の手の届く距離に来ていない。


「見える?」と、かろうじて声が出た。


「何が?」澪は光の列を直視しながら訊き返す。彼女の視界に重なっているのは、列だけだ。白い垂れは、まだ彼女には届かない場所にいる。


列が近づく。数えてみると、八、九、十……。澪は無意識に役場で見た台帳の朱印を思い出していた。受理された名前、受理されなかった名前。受理されなかったものはどこへ行くのか。水はその行先として広すぎる。


「灯りが……止まった?」直哉が呟く。


列は湖の真ん中でわずかに間を置き、同じ間隔を保ったまま、静止に近い遅さで漂った。静止のふりをする動き。動きのふりをする静止。湖の冷たさが、岸辺の石段を伝って膝小僧へ上がってくる。澪は掌をこすり合わせ、我に返ったように記録アプリを開くのをやめ、ただ目で見た。


「人は……いるように、見える」


彼女の声は、昨夜よりも浅い。現実の言葉が、少しだけ譲歩する。直哉は頷いた。認めてしまうと、戻れない。戻らなくていい、という気持ちと、戻りたい、という気持ちが同じ強さでぶつかる。


――花嫁は、どこにいる。


わたしは、列の中ほどに空白を指し示す。空白は形を持たず、しかし周囲の影が空白の輪郭を示す。そこに白の濃いところがある。白は光ではない。白は、色の欠如であり、意味の過剰だ。直哉の喉がきゅ、と鳴る。


列は、ゆっくりと、対岸の暗がりへ吸い込まれていった。最後の灯りが消える直前、彼の視界の端で、あの白い帯がふっと短くなり、また伸びた。結び直す手が見えないまま、結び直そうとする動きだけが残る。


「……終わったのかな」


澪の言葉は、湖に届く前に凍る。夜は、質問の形をした言葉を受け取らない。受け取られない言葉は、発した人の胸へ戻り、そこで重くなる。彼女は息を吐き、曇ったマスクの内側の湿りを指で押さえた。


帰り道、欅の枝の紐は今夜は動かなかった。遊歩道の端に、古いベンチの影。雪解け水に、星は落ちない。星のない夜は、足音ばかりをよく響かせる。


宿へ戻ると、ストーブの火が赤く、電球がじい、と鳴った。澪は厚手の靴下を履いたまま机に向かい、さっきまでの「研究者」の姿勢をいったん脱いだ。ノートに、堅い言葉だけを書かない努力をする。〈列、間隔一定/人影のような濃淡あり/花嫁と思しき白、視認(一瞬)/音・歌なし/風速0.3〉。最後に、ためらってから小さく書き足す。〈反射と説明するには不自然〉。


直哉は白いノートを開き、鉛筆を置く位置を迷った末、最初の行にゆっくりと書いた。


〈灯りには、背骨がある。骨があるから、歩く〉


書き終えると、指の先が温かくなっていた。紙が体温を覚えている。次の行に、彼の手が触れていないのに文字が起きる。


――祝言は、移動だけになった。移動だけが残る夜は、祝福の形を失う。


「……彼辞さん」


喉の奥で名前にならない呼びかけが揺れ、天井の梁に静かに当たって戻る。澪は隣でスマートフォンに「明日:堰堤の担当に連絡/古老B訪問/神社の移転記録」と ToDo を打ち、画面を伏せた。通知が一度光る。母の名。澪は見ない。見ないことで、今夜は崩れない。


眠りに落ちるまで、時間はゆっくりと薄まっていく。湖からの冷えが床を這い、布団の端に溜まる。直哉は身体を少し丸め、白いノートを胸もとに置いた。まぶたの裏に、列がもう一度現れる。今度は、数が少し増えている気がする。増えたのは見た者の記憶のせいか、列そのもののせいか、判別はつかない。


――明日、あなたは近づきすぎる。近づきは、記録を濃くするが、体温を奪う。


わたしは、彼の眠りの入口に短い注意を置く。彼はうなずきもせず、ただ呼吸を一つ深くして、文字のそばへ落ちていく。


夜半、風が一度だけ、雨戸の隙間を鳴らした。山の向こうの低い唸りが、遅れてやってくる。澪は寝返りを打ち、寝息のリズムを取り戻す。責任を背負った人の眠りは、遅れてから深くなる。直哉の手から鉛筆が滑り、布団の上で止まった。白いノートの最後の行に、彼辞はもう一行だけ書いた。


 嫁ぎは終わらない。終わらないから、列は形を欲しがる。

 あなたが見るかぎり、形は崩れない。


文字は音もなく沈み、紙の裏で温度になった。温度は、朝まで消えない。窓の外、湖は黙っている。黙りながら、夜ごと、同じ問いを用意する。だれが見届けるのか。どこで終わるのか。終わらなかった祝福は、どこへ置けばいいのか。


答えは、まだ水の下にある。だから、今夜の記録はここで止める。止めることは、続きのための空白だ。空白は、明日の足場になる。明日、二人はまた湖へ行くだろう。風がなければ、灯りは並ぶ。並ぶなら、わたしは書く。書くあいだ、誰も沈まない。少なくとも、目撃のあいだは。

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