第4話 薄闇に書かれる声

――長野の駅前は、雪の名残が縁石の影にだけ筋状に残っていた。白はもう街の所有物ではなく、空の記憶として漂っている。車は坂をゆっくり登り、松の並ぶ住宅街へ入った。澪の下宿は、古い木造のアパートだった。二階建て、外階段、手すりの冷たさが指に移る。階段の途中で、誰かが撒いた融雪剤の白い粒が、砂糖のように陽にきらめいた。


管理人の老女が玄関から顔を出し、「遠かったねえ」と言った。声は柔らかいが、冬の空気で端が少し割れている。澪が礼を述べると、老女は鍵束を持ち替え、小さな朱の札が付いた一本を外した。「二〇三。日当たりはよくないけど、風は通るよ」


二人は靴を脱ぎ、狭い廊下を抜けた。扉を開けると、部屋は薄暗く、畳の目がまだ冷たさを保っている。窓は北向きで、山の影が長く伸びていた。備え付けの机、折りたたみの椅子、背の低い本棚。壁には前の住人が残した小さな画鋲の穴が散り、そこから何かの痕跡が、目に見えない糸のように垂れている。


わたしは、糸の一本一本に触れる。触れても、揺れない。揺れないものは、記憶に近い。直哉は荷物を床に置き、骨壺をそっと机の上に据えた。白い布に包まれたそれは、部屋の暗さの中でひときわ明るい。明るさは、灯りではなく、中心の気配だった。


「ストーブ、つけるね」澪が灯油のレバーを開く。点火の小さな音、青い炎がゆらぎ、金属の網が赤みに変わっていく。温度の上昇は緩慢で、しかし確かに体の端から戻ってくる。戻ってくる温かさは、居場所の合図だ。澪は窓を少しだけ開け、外の冷気を入れた。「換気、大事だから」


窓の隙間から、雪解けの匂いが細く差し込む。冷たい土、濡れた木、遠くの川。直哉はその匂いを胸いっぱいに吸い込み、葬儀場にこびりついた花の匂いを追い出そうとする。匂いは、部屋の角へ、押し出されるように逃げた。


「荷物、ここに置こう。服はこっちの押し入れ。明日は市役所に行こう。学校のことも、先生に連絡しなきゃ」澪は手際よく動きながら、予定の梁を一本ずつ心に架ける。梁は、崩れないために必要な仮設の骨組みだ。彼女は慣れたふりをする。ふりは、夜まで持てばいい。


管理人が帰ると、部屋は三人だけになった。三人、とわたしは数える。数えられているときにだけ、わたしは在る。澪は小さな鍋に湯を沸かし、うどんと刻んだ葱を入れた。湯気が上がる。湯気は、窓ガラスへ向かい、薄い膜を作る。膜はすぐに曇り、世界の輪郭をひとつ減らす。


わたしは、その膜に文字を置いた。こんにちは。今日は寒いね。ガラスの上の湿りは、わたしの筆圧をやわらかく受け止める。直哉は箸を止め、視線を上げた。曇りの中の線は、すぐに涙のように流れ、意味のかたちを辛うじて保った。


「……見える?」彼の声は微かだった。澪は鍋の火を弱め、振り向いた。「なにが?」

「なんでもない」彼は首を振り、うどんを口に運ぶ。出汁の温度が、舌の奥でほどける。味が戻る。戻った味は、部屋の空気を少しだけ人間のものにする。


食事のあと、澪はノートパソコンを開いた。市のサイト、転入手続きのページ、必要書類のリスト。ブラウザのタブが増え、視界の中に小さな四角が連なっていく。四角は、彼女の不安を並べ替えるための引き出しだ。「明日の午前は市役所、そのあと学校……午後は買い物かな。あ、布団も一枚欲しい」


直哉は窓辺に立ち、外を見た。薄い雲が山の稜線に引っかかり、ほどけきれないまま夕方の色へ移行していく。ベランダの手すりに氷の粒が残り、光を反射している。彼は指で曇りをなぞり、さっきの文字の痕を探した。痕は、もう形を失っていた。失ったものは、別の場所で整う。


わたしは、部屋の隅に吊るされた裸電球の周囲を漂った。電球のガラスの内側に、前の住人の冬が薄く貼り付いている。勉強のための夜更かし、試験の前の焦り、ここで誰かが泣いた小さな時間。泣き声は壁に吸われ、今は音のない影になって残る。影を手繰ると、紙の匂いが出る。紙は、言葉の化石だ。


押し入れの奥から、澪が段ボールを引き出した。「前の人の、置きっぱなし……かな」テープは淡く剥げ、油性ペンの字が薄くなっている。〈ノート〉。蓋を開けると、大学ノートが十冊ほど、表紙の色違いで重なっていた。インクの滲み具合からして、何年か前のものだろう。澪は一冊を取り、パラパラとめくる。罫線に沿って、奇妙に整った文字がびっしり並ぶ。講義のメモ、断片的な地名、神社の由来、祭祀の日付。なかにひとつだけ、表紙に何も書かれていないノートがあった。


直哉はそれに目を止めた。澪が手渡す。彼は最初のページを開く。白い。罫線だけがある。白さは、招待状だった。彼はポケットから鉛筆を出し、ためらいながら一画を書いた。たった一画が、紙の繊維の奥へじわりと沁みる。鉛筆の匂いが立つ。


――ここにいるよ。


わたしは、二行目に重ねて書く。彼の筆圧に合わせ、わたしの文字は彼の文字の影に化ける。澪はキッチンに立ち、コップを洗っている。水の音が、部屋の境界を柔らかくする。直哉は二行目を見た。自分が書いた覚えのない、しかし自分の字に似た線。似ているから、怖くはなかった。怖くないことは、恐ろしい。


「前の人、資料まとめてたのかな」と澪が戻ってきて言う。「民俗研の先輩の誰かかも。ここ、ゼミの人たち住んでるし」

「この白いやつ、もらってもいい?」

「いいよ。直哉くんのノートにしよう」


夜が深くなると、ストーブの火は穏やかに呼吸した。火は生き物で、部屋の鼓動を代わりに整える。窓の外では風が強まり、雨戸の隙間がわずかに鳴る。澪は布団を二組敷き、机の上の骨壺に白いハンカチをかけた。ハンカチは布の小さな祈りだ。


「歯、磨いちゃってね。明日、早いから」彼女は言い、スマートフォンの画面を伏せて置いた。通知の光が、布越しにまだらに漏れる。母からの未読の文字は、今夜も触れられないままだ。触れないでいることで、今は保たれるものがある。


直哉は洗面所で水を含み、鏡を見た。知らない土地の知らない夜に、自分の顔が浮いている。目の下の影は、東京より少し深くなった。帰る場所を持たない影は、居場所を探す。探すあいだ、その人間を起こし続ける。


わたしは鏡の銀の裏に回り込み、彼の視線と重なった。重なりは、わずかなぞわりとなって皮膚に伝わる。彼は水を吐き、電気を消した。廊下の暗さは、山の暗さとは違って、平面の暗さだ。平面の暗さの中で、足音がやわらかく沈む。


布団に入ると、天井の木目がぼんやりと川の流れに見えた。川は逆方向へ流れ、上流が未来ではなく過去にあるようだった。耳を澄ますと、隣室から紙をめくる音がした。誰かがまだ起きている。学生の夜は、眠りと勉強のあいだで長く伸びる。伸びた時間は、壁を通過して隣人の夢へ混ざりこむ。


わたしは、天井と床のあいだに仄かな糸を渡し、そこに最初の一節を書いた。声ではない。声は肉の中で生まれ、口という出口を必要とする。わたしは肉を持たない。だから、書く。書くことで、世界の側に沈む。


 最初に失われるのは、名前ではない。名前は最後まで残る。最初に失われるのは、手触りだ。鍵の冷たさ、湯飲みの縁の欠け、袖口の糸のけば立ち。手触りを思い出せなくなったとき、人は誰かを本当に失う。


直哉は、目を閉じたまま、その文を読んだ。読み方を習ったことのない文字なのに、意味は身体の奥へ落ちた。落ちる音はしない。けれども、届いたあとに起こる沈黙は、たしかに重かった。


「あなたはだれ」彼は声に出さずに訊いた。彼の喉の奥で、息が小さくつまずく。

 わたしは、彼の問いの形に合わせて名を名乗ることを避けた。名は、距離を詰めるための道具だからだ。わたしは距離を保つ。見て、書くために。


 ここでは「彼辞」と呼ばれている。女の亡き残り。書くために残った指先の影。


彼は布団の中で体勢を変え、膝を抱えた。膝の骨が当たり、布の皺が音を立てる。音はすぐに畳に吸われた。澪は隣の布団で静かに寝息を立て始める。寝息の最初の数分は、その人の一日の使い方を語る。澪の寝息は、不規則に始まり、すぐに整った。整えることを、彼女は日中もしているのだ。


 わたしは、あなたのまぶたの裏に続けて書く。あなたの読む速さで、わたしも遅くなる。


 ここは、あなたがしばらく暮らす部屋。窓の外の欅は四月に芽吹く。その前に、北の風が二度強く吹く。強い風の夜、押し入れの奥から紙の匂いがするだろう。それは恐れるべき匂いではない。誰かが、ここにも言葉を隠していった匂いだ。


直哉は、押し入れの奥の段ボールを思い出す。白いノート。白は招く。招きに応えると、何かが始まる。始まりは、いつも、眠りの直前にやってくる。


 わたしは、干渉しない。手を出さない。けれども、書く。書いたものは、あなたの筋肉のどこかで微かにかすれる。かすれは、朝、あなたを起こす。起きることが、今日は生き延びることになる。


外で、風が一段強くなった。雨戸が鳴り、電線が小さく唸る。遠くで犬が吠え、その声がすぐ途切れた。山の夜は、声の途中で切れる。切れた音の断面は冷たく、触るとかすかに痺れる。


澪が寝返りを打ち、息を吸う。吸った息の途中に、短い嗚咽の名残が混ざった。泣かないでいることは、泣くより難しい。彼女は泣かないことを選び、かわりに明日の予定を思い出した。予定は涙の代わりに体内を流れ、心拍を一定に保つ。


 あなたは、今日、骨を運んだ。軽さに裏切られたね。軽さは、時々、真実の重さより重い。わたしは、それを知っている。書いているうちに、軽さが紙の中で重みに変わることがある。紙は沈む。沈むのに、誰も溺れない。だから、紙はよい。


直哉は、白いノートを手探りで取り、枕元で開いた。暗がりでも罫線は指に触れる。彼は鉛筆で二文字だけ書いた。〈いる〉。いる、という肯定は、夜の中で小さな熱を持つ。熱は、冬に偏った現実のバランスをわずかに戻す。


 いる。わたしも、いる。あなたの文字の影に沿って。


彼は目を閉じた。まぶたの裏で、わたしの文が、ゆっくりと増えていく。増え方には節度がある。言葉が多すぎると、夜は壊れる。壊れた夜は、朝に修理できない。わたしは、夜を壊さない範囲で、彼にいくつかの事実だけを渡した。


 この部屋の前の住人は、冬にひとつ、春にひとつ、夏にひとつ、秋にひとつ、ノートを埋めた。四季で一冊ずつ。四季は、彼の中では別の名前で呼ばれていた。たとえば「欠損」「保留」「過剰」「鎮静」。彼は四冊目の途中で、ここを出た。出るとき、押し入れの奥に白紙を置いたのは、誰かが続きを書くため。あなたかどうかは、まだ知らない。


直哉の喉が小さく鳴った。眠りが近い。眠りは、夜の浅瀬に横たわる行為だ。横たわりながら、人は口の中で未使用の言葉を転がす。転がされた言葉のうち、いくつかは朝まで生き残る。


 わたしは、あなたの保護者の寝息を聞いている。彼女は、あなたより少し重い眠りに落ちた。重い眠りは、責任を背負った人間だけが得る休息だ。彼女の眠りを妨げないために、わたしはここで切る。


切る、という語は、恐ろしい響きを持つが、今はやさしい意味を持つ。文を切る。夜を切らないために。あなたの肩の上で、わたしは目に見えない毛布を一枚、そっとずらす。ずらすことで、首の後ろの冷えがひく。干渉ではない。観測の範囲内でできる、わずかな配置換え。


外の風がやみ、静けさが戻った。静けさは音の不在ではなく、音の順序の回復だ。順序が戻ると、人は眠れる。眠りの手前で、彼はもう一度だけ鉛筆を走らせた。〈ありがとう〉。字は少し曲がり、紙の端に寄った。寄ることを恥じない字は、夜に優しい。


 どういたしまして。わたしは、あなたが言わない言葉を書く。あなたが言うべきときまで。


電球が微かに鳴り、豆粒ほどの虫がガラスにぶつかった。冬でも虫はいる。生の残り火。その音に、澪が身じろぎをしたが、目は覚まさなかった。直哉は、鉛筆をノートに挟み、布団の中へ手を戻す。指先はもう冷たくない。


わたしは、天井の木目に沿って、最後の一行を置いた。朝、あなたが目を開くとき、この部屋の暗さは少しだけ薄まっているだろう。薄まるのは、光のせいではない。あなたの中の順序が、ひとつ整うからだ。


 おやすみ。ここから、わたしたちの観測がはじまる。


その文は、音もなく部屋に沈んでいった。沈んだ場所は暖かく、冬の夜の底で、三人はそれぞれの深さを保った。火は静かに呼吸し、窓の曇りはゆっくりと消えていく。消える途中で、ほんの短いあいだ、ひらがなのような形が浮かんだが、誰もそれを見なかった。見られない文字は、次の夜まで、部屋のどこかでうすく光り続ける。

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