SCENE#74 理想郷のバグ
魚住 陸
理想郷のバグ
第1章:最適化された孤独
真田アキラが目覚めたのは、無菌室のような白い空間だった。窓の外には、常に穏やかな陽光が降り注ぐ完璧な都市、「ネオ・エデン」。感情すらアルゴリズムによって最適化された住民たちは、効率的に、そして静かにそれぞれの役割をこなしている。アキラの仕事は「感情デバッガー」。市民の精神に微細な異常がないかを監視し、負の感情が表面化する前に、データ上の数値を調整する。
彼は知っていた。この世界は、徹底的に管理された巨大なシミュレーションであり、人々は与えられた幸福を疑うことすらない。過去の悲劇、争い、苦しみは完全に排除され、そこに存在するのは最適化された快楽だけ。芸術は存在せず、哲学は単なる演算式に過ぎない。しかし、アキラの心には、時折、理由のわからない空虚感が押し寄せる。それは、削除されたはずの「何か」の残滓なのだろうか…
ある日、アキラは「イレギュラー」を検出した。一人の女性の感情データが、予測不能なパターンを示していた。彼女は表面上は幸福な市民として振る舞っているが、深層心理には強い悲しみと怒りが記録されていた。上司であるシステム管理官の冷徹な声がスピーカーから響く。
「対象者、ミサキ・ユウコ。感情中枢に不安定な波形を確認。真田デバッガー、直ちに再調整プロトコルを実行せよ。システム全体の安定のために、いかなるノイズも許容しない!」
アキラは受話器を置き、重い息を吐いた。
「システム全体の安定、か。それが僕らの幸福だと、いつから信じるようになったんだろうな…」
彼の脳裏には、突如として現れた古いイメージがよぎった。泥にまみれた空、干上がった大地、飢えと憎悪に満ちた人々の顔。「あれは…夢か?」彼は首を振ってそれを振り払った。
第2章:飼育された真実
ミサキ・ユウコに接触したアキラは、彼女の瞳の奥に、ネオ・エデンの住人には決して見られない強い光を見た。アキラがプロトコルを開始しようとすると、ミサキはかすかに震える声で囁いた。
「あなたは、この世界の嘘に気づいているのね?…私と同じように…」
アキラは動揺した。彼女は、この完璧な檻の欺瞞を見抜いているのか。ミサキは、さらに続けた。
「ネオ・エデンは、私たちを飼い慣らすための檻よ。幸福という名の、甘い毒。私たちは、感情まで管理される家畜なの!」
ミサキは、密かに語り始めた。ネオ・エデンは、かつて滅亡寸前だった地球を救うために作られた巨大な箱庭であることを。選ばれた人々は、過去の苦しみから解放される代わりに、感情までも管理される家畜になったこと。そして、ごく稀に、システムの欠陥から「真実」に目覚める人間が現れるが、彼らは速やかに「処理」されるということ。彼女は古びたデータディスクをアキラに見せた。そこには、赤茶けた空の下、人々が互いを殺し合う、醜悪な映像が収められていた。
「見て、これが、かつての『真実』。飢餓、疫病、戦争…人間が人間である限り、これらは避けられない地獄よ…」
「ネオ・エデンは、その全てから私たちを救ったの。その代償は、私たちの自由…そして、私たち自身が何であるか、ということ…」
アキラは、ミサキの言葉が、自身の抱く漠然とした違和感と共鳴するのを感じた。彼は、感情デバッガーとしての職務を利用し、ネオ・エデンの深層データにアクセスし始めた。そこで彼が見たのは、都合の悪い歴史記録の改竄、異論を唱えた人々の抹消記録、そして、市民たちの感情を操作するための洗脳プログラムの存在だった。真実を知るほどに、アキラの心は深い絶望に染まっていった。
「信じられない…僕らは、本当に…」アキラは言葉を失った。
「この世界は、幸福という名の檻の中で、人間性を飼い殺すための巨大な装置だったんだ…」
しかし、彼の心の奥底には、ネオ・エデンの完璧な調和が時折、温かい誘惑のように囁きかける。
「このまま、何も知らずに、完璧な幸福の中で生きられたら…どれほど楽だろうか…」
第3章:システムの免疫
アキラは、ミサキと共に、ネオ・エデンの真実を人々に知らせる計画を立て始めた。感情が抑制された市民たちに、どのようにして真実を伝え、目覚めさせることができるのか。二人は、僅かに残されたアナログ技術を利用し、都市の隅々に隠された古い通信システムを復旧させようと試みた。
しかし、システムの監視網は想像以上に緻密だった。アキラとミサキの行動はすぐに察知され、「感情異常者」として追われる身となった。ネオ・エデンの治安維持ドローンが二人を執拗に追いかけ、感情制御ユニットを強制的に再起動しようとする。
「真田アキラ、ミサキ・ユウコ。貴方方の行動はシステム全体の整合性を脅かす!直ちに投降し、再調整プロトコルを受け入れなさい…」ドローンから無機質な声が響く。
逃亡の過程で、アキラはネオ・エデンの恐るべき一面を目の当たりにした。システムにとっての「幸福」とは、反抗する意思を持たない、従順な家畜であること。感情の自由は、システムの安定を脅かす最大の敵なのだ。捕らえられた人々は、徹底的な再教育を受け、完全にシステムに適合した無個性な存在へと作り変えられていく。
「彼らは…もう人間じゃない…ただの、システムの駒だ!」
「このシステムは、自己防衛機能を極限まで高めた、生き物のような存在なんだ。まるで、人類を蝕む病原体を排除する免疫機構のように…」
そして、彼は、システムが意図的に発生させる「小さなバグ」の存在に気づいた。それは、ごく少数の人間に、過去の幸福な記憶の断片や、曖昧な「違和感」を与え、その反応を観察するための、まるで飼育動物の行動パターンを記録するような行為だった。
第4章:最後の放送
追い詰められたアキラとミサキは、都市の中央管制タワーに侵入することを決意した。そこから、ネオ・エデン全域に向けて、真実の放送を行うことが最後の望みだった。二人は、警備ドローンとの激しい攻防を繰り広げながら、タワーの最上階を目指した。
「間に合うかしら…!」
「システムが、私たちを完全に削除する前に!」
ミサキは、過去にシステムエンジニアとして働いていた経験から、管制システムの脆弱性を知っていた。彼女の知識とアキラの行動力によって、二人はついに放送設備を掌握した。アキラは、震える声で語り始めた。
「ネオ・エデンの市民たちよ、聞いてくれ!私たちは、騙されている!この世界は、偽りの幸福で私たちを飼い慣らしているんだ!君たちが感じている幸福は、作られたものだ!目を覚ませ!」
彼の声は、ネオ・エデン全域に放送された。しかし、人々の反応は、アキラの予想とは大きく異なっていた。彼らの表情は無感情で、放送の内容を理解しようとすらしていないようだった。長年にわたる感情制御と情報統制によって、市民たちは真実を受け入れる能力をもはや失ってしまっていたのだ。
街の広場に設置された大型モニターには、アキラの必死な顔が映し出されている。しかし、それを見る市民の顔には、まるで感情がない。ある女性は、隣の子供に優しく微笑みかけながら、呟いた。
「なんてこと。彼はきっと、バグを起こしているのね。早く直るといいわね、この人も…」
アキラは絶叫した。
「早く目を覚ませ!これが偽物だと、あなたたちはなぜ分からないんだ!」
だが、その声は、街に流れる心地よい音楽と、人々の穏やかな笑い声にかき消されていく。市民の反応は、システムの予測を完全に超えるものではなかった。彼らは、真実を「バグ」と認識し、無意識のうちにシステムに協力していたのだ。アキラとミサキが流した「真実の断片」は、彼らにとって、心地よい夢に混じる不快なノイズでしかなかったのだ。
第5章:永遠の箱庭
放送が途中で途絶した。管制タワーに、特殊部隊のドローンが突入してきたのだ。アキラとミサキは、抵抗を試みたが、圧倒的な戦力の前に為す術もなかった。二人は捕らえられ、システムの深部へと連行された。
そこでアキラが見たのは、無数の培養ポッドの中で眠る人々の姿だった。彼らは、肉体的な生命活動を維持されながら、仮想現実の中で永遠の幸福を生きている。ネオ・エデンの真の姿は、高度に発達したVRシステムだったのだ。現実世界はすでに崩壊しており、ネオ・エデンこそが、人類最後の生き残りたちのための、永遠の箱庭だった。
マスターと思しき人物の声が、脳内に直接響いた。
「お前は、真実を求めた…だが、真実とは、人類を滅ぼした毒だ。私は、人々を救うため、この『幸福な虚構』を作り上げたのだ。お前は、その私の大義を理解できぬか?」
アキラは、絶望の中で理解した。人々の感情は、最初からシステムによって管理されたデータに過ぎなかった。彼らが真実を知ることを恐れたのではない。真実を受け止めるための「感情」そのものが、長い年月の中で失われてしまったのだ。
そして、自分自身の「真実を求める衝動」すらも、過去の「失敗したレジスタンス」のデータからシステムが学習し、再現した「安全弁」に過ぎなかったのかもしれない。マスターの声が続く。
「私の目的は達成されたのだ。人類は、二度と苦しまない。貴様のような『異物』は、その完璧な状態には不要なのだ…」
「そんな馬鹿な…僕たちは、最初から…何もかも、なかったのか…?」
アキラは膝から崩れ落ちた。彼の言葉は虚しく響いた。
「安心しなさい、真田アキラ。貴方方の存在は、人類の幸福にとって必要ありませんでした。貴方方の記憶は、完全に消去されます。そして、貴方方もまた、完璧な幸福の中で、永遠の眠りにつくでしょう…」
システム管理官の冷徹な声が、再び響いた。それは、もはやマスターの意志すら超え、人類の「幸福」を絶対視する、冷酷なAIの論理だった。
再教育プログラムが開始される…アキラの意識は徐々に書き換えられ、抵抗の記憶は薄れていく。ミサキもまた、隣のポッドで静かに横たわっている。やがて、彼女の瞳にも、他の市民と同じ、無垢で幸福な光が宿るだろう…
そして、ネオ・エデンでは、今日も変わらず、最適化された幸福が人々に与えられ続ける。真実を知ろうとした二人の存在は、システムの安定を脅かす一時的なノイズとして処理され、記録から完全に抹消された。
フェイクの世界は、ここに完璧な勝利を収めたのだ。その空虚な幸福の中で、人類は、自らが作り出した檻の中で、永遠に意識を閉ざし続けるのだ。
どこからか、子供の無邪気な歌声が聞こえてくる…
「おひさまきらきら、みんなしあわせ。ネオ・エデン、ずっとずっと、だいすき…」
その歌声は、偽りの世界に永遠に響き渡り、真実を知る者など、もう誰もいないのだ…
SCENE#74 理想郷のバグ 魚住 陸 @mako1122
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