懐古

アフロヘッド

懐古

 分厚い雲が真っ黒な夜いっぱいに広がり、ただでさえ黒い夜空をより一層重苦しいものに仕上げている。ジリジリと呻き声を上げる電灯の中、カッカと乾き切った革靴の音が静かに鳴っていた。

 男は裏道を歩いていた。表通りは人が多いからだ。テラテラと輝く看板や、勢いよく走り抜ける車のフロントライトは、デスクワークで出来上がった疲れ目に入れるには眩しすぎる。

 公園。ふと男の目に映ったのは、どこにでもあるようなこじんまりとした公園だ。申し訳程度にある滑り台やタイヤ飛び、ブランコに目を向ける。昔はこんなしょぼいものにも胸が躍ったものだ。

 男はアスファルトにひっついていた自分の足を引き剥がし、自転車通行禁止の柵を跨ぐ。ベンチに寄った男は大きなため息をつくと、入念に砂埃をはたいてからゆっくり腰を下ろした。ジャケットを脱いで丁寧に折りたたみ、そっと優しく脇に置いた。

 なんとはなしに立ち寄った公園だ。特にやりたいことも思いつかないまま、ボケっと公園のどこかしらに目を向けていた。

 小さい頃は暇さえあれば友達と公園で遊んでいた。鬼ごっこ、だるまさんがころんだ、ドロケイ、ドッチボールにかくれんぼ……所謂子どもの遊びだ。何でそんな子ども遊びに夢中になっていたのか。今となってはもう思い出せない。

 ブランコ。男の視界の隅にふとそれが映り込んだ。ブランコを漕いでどこまで遠くにジャンプできるかなんてのもやったっけか……懐かしい。

 男は両手を膝に着けてよっこらせと立ち上がると、ブランコの方にゆらゆらと吸われるように歩いてゆく。乗り場の真下の地面は子供たちの足が掘削した結果か、少し窪んでおり、そこには午前中に降った雨が溜まって水たまりができていた。

 安全用の柵を跨ぎ、チェーンをそっと握って、キィ、キィと揺らしてみる。こうしてブランコが振り子のようにゆらゆら揺れているのを見ていると、子供のころの記憶がじんわりと浮かび上がってくるような気がする。

 男はフッと鼻息を押し出すように微笑んだ。当時は今のように上司へのおべっかなんて考えずにやんちゃしてたものだ。他人の顔色なんて窺ってる暇があったら少しでも追いかけっこしたいと思っていた。

 男はゆったりとブランコに腰掛けた。前かがみに背中を丸めて、街灯で照らされた、水たまりに映る自分の顔を見る。じっと水面を見つめていると、今日の出来事がぼんやりと順々に浮かび上がっていった。




え、例の修正案?あ、いや~、後で見ておくよ。ちょっと今手が離せないからなぁ……。

おまえな……もう少し上を立たせるような立ち回りしないと蹴落とされるぞ。

ごめんね、私にとって君はそういうのじゃなかったの……だから、ごめんね。



 ダメだ。ロクな思い出がない……というか、俺は一体何してるんだろうか。

 男は自分の身なりに目を向けた。革靴、スーツから腕時計。どれも結構値が張ったものだ。別に趣味という訳ではない。社会人としてのドレスコードを満たすために仕方なく買ったもの、要するに男にとってのある一種のステータスのようなものだった。

 ……何が欲しかったんだっけ?何がやりたかったんだっけ?そういえばそんなことを疑問に思うことも久しくなってしまった。

 


 少し、漕いでみるか。

 足をプラプラと前後にゆすり、勢いをつける。最初は、居やしない周囲の視線を気にして、ちょっくら遊んでみるかといった感じで控えめに足を揺らしていた。しかし、次第に足のふり幅が大きくなってゆく。

 振れ幅が大きくなってゆくとともに強まる、気持ち悪いようで、どこか楽しさを覚える、遠心力で内臓が押しつぶされるような感覚。男はいつの間にかシートの上に立っていた。立ち漕ぎだ。一往復ごとにふるい落とされそうな感覚を覚えながら、ブランコに振り回された。



「うおっ!!」

 つるり。手が滑った。雨で濡れていたチェーンが良くなかったのか、男の体幹が衰え切ったからなのか、男の体はブランコからぺっと勢いよく吐き出され、安全柵を通り越した先の水たまりに顔面ダイブ。バシャッと勢いよく跳ねた泥しぶきがスーツをきれいな斑点模様に染め上げた。

「ついてないな……」

そう思わずつぶやいてしまうのも無理はない。男が精一杯持っているハンカチで泥を落としていると、泥を拭き終わった額に水が一滴たれてきた。まさか……。

 やばい、そう思った刹那、雨は小雨を挟むことなく土砂降りへと一転した。男は呆然と立ち尽くす。せっかく泥を拭いたスーツもびしょびしょだ。

 ああ〜、と力のない声を出しながら、男はしばらく呆然と立ち尽くした。男は大きくため息をつくと、ベンチのカバンに手を伸ばした。

 その時、ふと思い出したのは鬼ごっこをしていた時の記憶だった。いつもなら敵いっこない、クラス1の駿足をあと一歩まで追い詰めていた時。逃げる彼にタッチ寸前まで近づいた瞬間、足を引っかけてしまった。丁度その時も今みたいに泥へ顔面からダイブして、彼を取り逃してしまった。次こそはと思った矢先、追い討ちのように雨が降り出して、鬼ごっこはお開きになってしまった。あの時、俺は雨に打たれながら心の底から悔しがっていた。



 男はハッとした表情を浮かべる。そしてにやりと笑うと、伸ばした手を引っ込めて、両手をその場で大きく広げた。

 体で雨を受けた。濡れたスーツ越しに雨を受けた。体に張り付いたYシャツ越しに雨を受け止めた。グジュグジュになった靴の足先で、手で思いっきり雨を感じた。

 今日の雨は人肌のように暖かかった。笑い声が男の周りの雨滴を揺らす。ポップコーンのように跳ね、コサックダンスのように足を激しく動かして駆け出す。濡れてつるつると滑るブランコの座に足を乗せ立ちこぎをし、泥をあたりに飛び散らせながらジャンプ、タイヤをノンストップで飛び回る。靴はどろんこ、ズボンは斑点模様。透けるほど水を吸ったYシャツにセットが崩れ切った髪。男の格好はぐちゃぐちゃになった。

 子ども遊び。男は思いを馳せていた。大人の社交に、蹴落とし合いに、駆け引き。それらに疲れ切った男は、その子ども遊びの純粋さを再び思い出していた。駆け引きだなんだ、蹴落とし蹴落とされ、馬鹿にして馬鹿にされ。明確な勝利はなく得られるのは大抵どっちつかずのビターエンド。もう飽きた。飽きたのだ。別に勝ち組になりたいわけではない。純粋になりたかったのだ。勝ち負けが明確で、兎に角勝つために頭を空っぽにして夢中に遊びにのめり込んだあの熱意とひたむきさに恋焦がれ、欲していたのだ。




 男は一通り遊び終えると、空を見上げた。いつの間にか雨雲は過ぎ去っていた。

 さて、これからどうしようか。仕事を辞める?思いのままに生きてみようか?世界を飛び回ってみようか?初恋を追いかけてみるか?

 ……残念だが、そんな勇気は持ち合わせていない。男はスーツを脱ぎ捨てるような真似はできなかった。小学生のように汚れたシャツをその場にほっぽって肌着……裸同然で遊ぶことはできなかった。

 せいぜいスーツを汚すまでだ。後でクリーニングに出せばこれくらいの泥汚れならすぐ落ちるだろう。それが今の男にとっての精一杯だった。



 もう戻れない。それが人間だ。もう焦がれても、男が欲するものはいくら探しても公園には落っこちていないだろう。

 そう簡単に今持ってるものは、既に手にしたものは手放せないのが人間だ。男も例外ではない。男は笑顔を閉じると、ベンチに置いておいたジャケットと革鞄をもって公園を後にした。

 しかし、雨は止んだ。月光が照らされている。太陽ほど明るくなくとも、その明かりは曇り切った夜空よりは幾分かマシに見えた。

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