第2話 名前を知ってから

図書室で神谷悠真さんと初めて話したあの日から、私の日常は少しずつ、しかし確実に変化し始めていた。


放課後のチャイムが鳴るたびに、胸が軽く高鳴るのを感じる。いつものように教室を出て、図書室へ向かう道すがら、昨日の会話を思い返す。彼の声、彼の微笑み、そして何よりも「桜井さん」と呼ばれた時の感触が、なぜか心に残っている。


「神谷......悠真......」


図書室に向かう廊下で、私はまた彼の名前を呟いていた。自分でも気づかぬうちに、その名前を何度も心の中で繰り返していたのだ。優しく響くその名前は、まるで何か特別な意味を持っているかのように感じられた。


図書室のドアを開けると、いつものように静謐な空気が私を迎え入れた。木の香りと紙の匂いが混ざり合った独特の香り。静寂の中に漂う知的な気配。ここは私の秘密の場所であり、今や特別な意味を持つ空間でもある。


私はいつものように、窓際の席へと向かった。彼の席――いや、神谷さんの席は無人だった。少し残念な気持ちになりながらも、私はいつもの場所に座った。そして、昨日読みかけの本を取り出す。


しかし、いつものようにすぐには読み始められなかった。視線は自然と彼の席へと向かい、そこに彼が現れるのではないかと期待してしまう。時計の針が進むにつれ、胸の中の期待と少しの不安が入り混じる。


十五分が過ぎ、三十分が過ぎた。図書室には相変わらず静かな読書の気配が満ちているが、神谷さんの姿は見えない。昨日の会話の余韻がまだ心に残っているだけに、その不在が際立って感じられる。


「もしかして......今日は来ないのかな」


ぽつりと呟いてしまった自分に気づき、私は小さく首を振った。何を期待しているのだろう。ただの偶然の出会いだったのに。それなのに、私は彼のことを気にかけ、彼の姿を待ち望んでいる。


本を開こうとしても、集中できない。ページをめくっても、文字が頭に入ってこない。結局、私は本を閉じ、窓の外へと視線を向けた。校庭では、部活動の掛け声が聞こえてくる。その活気ある音が、逆に私の孤独感を際立たせるようだった。


「神谷さんは、どんな人なのだろう」


ふと、そんな疑問が浮かんだ。昨日の短い会話からは、彼がとても優しく、穏やかな性格の人だということは伝わってきた。でも、それだけではない何かがある気がする。彼の本の選び方、笑うときの目元、話すときの丁寧な言葉遣い。すべてが、どこか特別な雰囲気を醸し出していた。


その日、神谷さんは現れなかった。図書室を出る際、私はいつもより少し長い時間、彼の席を見つめていた。誰も座っていないその椅子に、彼の姿を重ねながら。


「また来るだろうか」


帰り道、私は独り言を言いながら考えていた。来るかもしれない、来ないかもしれない。ただの可能性の話だ。でも、心の奥底では、彼が再び現れることを願っている自分がいる。


翌日の放課後、私は迷いながらも図書室へ向かった。昨日と同じように、教室を出て、図書室へと続く廊下を歩く。心臓の鼓動が、いつもより少し速い気がする。


図書室のドアを開けると、相変わらず静かな空気が広がっていた。そして――


「あ......」


視線の先、窓際の二列目の一番端の席に、彼の姿を見つけた瞬間、思わず声が漏れた。


神谷さんは、いたのだ。


いつものように本を読んでいる。その横顔は、昨日見たときと同じく穏やかで、何だか懐かしいような気がした。


私は少し深呼吸をしてから、いつもの場所に座った。でも、やはり集中することはできなかった。彼の様子が気になってしょうがない。


彼は本を読む手を止め、時折ページの隅に何かメモを書き込んでいる。その姿はとても真剣で、集中している様子が伝わってきた。そして、何か面白いことでもあったのか、ふと小さく笑みを浮かべた。昨日聞いたあの優しい笑声が、再び私の心を揺さぶる。


やがて、私は勇気を出して立ち上がった。そして、彼の席へと向かう。


彼が本を閉じ、立ち上がろうとした時、私は声をかけた。


「あの......昨日はありがとうございました。お話しできて、とても楽しかったです」


少し緊張しながらも、精一杯の笑顔を作って言った。


神谷さんは少し驚いた表情を浮かべた後、柔らかく微笑んだ。


「いや、僕こそ。桜井さんと話せて良かったよ。図書室で知り合いになれるなんて、思ってもみなかったから」


その言葉に、私の胸がきゅっと締め付けられるような気がした。


「私も......です。神谷さんのお話、とても面白かったです」


「そうか? ありがとう。僕は桜井さんの話の方が面白かったよ。恋愛小説の話とか、よくわかる気がしたし」


「えへへ......そうですか? でも、神谷さんのお話の方が、なんだか深くて......」


私たちはそんな風に、自然な会話を交わし始めた。昨日よりも、少しだけ距離が縮まったような気がする。


「神谷さんは、どんな本が好きなんですか? 昨日はファンタジーが好きだって言っていましたけど」


私は少し興味を持って尋ねた。


「うん。ファンタジーは好きだね。現実じゃ叶わないことでも、物語の中では可能なんだから。特に、冒険や魔法が出てくる話が好きだな」


「冒険......私も、ちょっとだけ好きです。でも、最近は現実的な話題の本を読むことの方が多いかも」


「そうなんだ。でも、現実的な話題の本も面白いよ。僕も、たまにはそういうのも読むよ。社会問題とか、心理学的な話題とか」


「心理学的な話題......面白そうですね。私、そういうのあまり読んだことがないんです」


「じゃあ、次図書室で会ったら、おすすめの本を教えてあげようか?」


「えっ、本当に? ありがとうございます!」


私は思わず大きな声を出してしまい、少し恥ずかしくなった。でも、彼の提案はとても嬉しかった。


「桜井さんは、どんな本が好きなんですか? 昨日は恋愛小説とかヒューマンドラマが好きだって言っていましたけど」


今度は神谷さんが私に尋ねた。


「はい......人の感情の機微が描かれていると、共感しちゃって。特に、恋愛感情って不思議ですよね。自分でも、なぜこんな気持ちになるのか、わからなくなることがあります」


「うん。僕もそう思う。恋愛って、不思議で、楽しいけど、時々怖いところもあるよね」


「はい......。神谷さんは、恋愛経験とかありますか?」


思わず聞いてしまった自分に、すぐに後悔した。あまりにも直接的な質問だったかもしれない。


でも、神谷さんは困ったような笑顔を浮かべながらも、優しく答えてくれた。


「僕は......まだないかな。でも、友達の恋愛話を聞くのは好きだよ。人が恋をする気持ちって、とても興味があるんだ」


「そうなんですか。私も......少しだけ、そういう気持ちを抱いたことがあるかもしれません」


私は、自分の胸の奥に芽生え始めている感情を、ぼんやりと意識しながら言った。


その日、私たちは閉館時間まで話し続けた。図書室の静かな空間の中で、二人だけの世界が広がっていくような気がした。


閉館時間が近づいてきた時、私は少し名残惜しい気持ちになった。


「今日は、本当にありがとうございました。とても楽しかったです」


私は微笑みながら言った。


「僕も楽しかったよ。また、明日も来るかもしれないね」


神谷さんは優しく微笑んで言った。


「はい。私も......来ます」


私は小さく微笑みながら答えた。


神谷さんが図書室を出ていく後ろ姿を見送りながら、私は心の中で思った。


(この人と、もっと話してみたい。もっと、この人のことを知りたい。もしかしたら......)


言葉にはしなかったが、私の中で何かが確実に芽生え始めていた。それは、恋と呼べるような、そんな気持ちの始まりだったのかもしれない。

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