41 『ムウェ・ラデ』

 相手は皇帝だというのに、彼の手首を掴んでいる褐色の手には遠慮が全くないように見える。


「ディトは俺の『ムウェ・ラデ』だ。お前のではないぞ。気安く触るな」


 低いキーニの声に、イェレミアスがひく、と笑顔を引き攣らせた。キーニはイェレミアスの手首を乱暴に離すと、ディーウィットを腕の中に収める。


 イェレミアスが焦った様子でキーニに手を伸ばした。


「ま、待てキーニ! お前、まさか本気で怒ってないか!? 私はあくまで至宝を私の臣下としてだな!」

「弟の『ムウェ・ラデ』に色目を使ったとリャナンに伝えようか」


 キーニの声は、聞いたことのないほどの怒りが込められたものだった。イェレミアスが顔面を蒼白にして慌てる。


「待ってくれ! リャナンが誤解するではないか! お前も知っているだろう!? 彼女が怒るとひと月は口を聞いてくれなくなることを!」

「俺の知ったことではない」

「キーニぃ!」


 もはや半泣き状態になってしまった皇帝・イェレミアスとあくまで強気なキーニを見ている内に、なんとなく力関係が分かってきたかもしれないとディーウィットは思った。


 聞くなら今だ、とディーウィットは軽めに手を挙げる。


「あの、『ムウェ・ラデ』とはどういった意味なのでしょう? キーニに何度も言われているのですが、正確な意味を教えてもらえていないのです。皇帝陛下にお会いしたら教えてくれるという話だったのですが……」


 するとイェレミアスが訝しげに答えた。


「何を言っている? その額飾りが何よりの証拠だろう?」

「え、これですか?」


 額飾りに手を触れると、イェレミアスは深々と頷く。


「ムウェ・ラデは月の神の意。従い太陽神ジュ・アルズの伴侶を指す存在だ。首長や次期首長はジュ・アルズに見立てられ、伴侶となる者はムウェ・ラデであると言われる。互いに石を交換することで伴侶の証になる。そなたは既にキーニの伴侶だと言うのに、随分とおかしなことを言うな」

「は……?」


 ディーウィットが目を瞠ると、イェレミアスが「ああ」と思い出したように続けた。


「首長の直系は皇帝の婚姻受諾書が必要となる。把握できねば差し障りがあるからな。それがないから伴侶でないと思っているのなら、随分と奥ゆかしいものだな」


 婚姻受諾書? 自分がとっくにキーニの伴侶だった? ディーウィットの頭の中には、疑問ばかりが浮かび上がっている。


 イェレミアスはそんなディーウィットの様子を見て、不思議そうに首を傾げた。


「ん? キーニはそれを受け取る為に久々に顔を見せたのだろう?」

「そうだな」


 キーニはディーウィットを腕の中に収めたまま、しれっと返す。


「え……え、ええっ!? ま、待って下さい、状況がよく……!」


 あまりにも目まぐるしい展開についていけずに目を見開いて口をぱくぱくしていると、イェレミアスがキーニの脇腹を肘で突いた。


「おい、お前まさか、何も話していないのか?」


 キーニはニヤリとしてイェレミアスに返す。


「ディトは見た目は儚いが、中身は難攻不落の頑固者だからな。逃げられる前に囲むしか逃さぬ方法はなかった」


 次いで、ディーウィットの目を至近距離から覗き込んできた。


「ディト。皇帝イェレミアスは皇后リャナン一筋で、皇配を所望するなどありえん。だがディトは頑なで、国の為と言い、俺の話を聞く余地もなかった」

「キーニ……」


 確かにそうかもしれない。ディーウィットの中には恩人の為、つまりは国の為に自分が犠牲になる選択肢しか存在していなかった。キーニに何を言われたところで、信じようとはしなかっただろう。


 キーニの大きくて温かい手が、ディーウィットのこめかみから頬にかけて覆う。


「その上、自分の幸せを簡単に諦めようとしていたな。だから俺はお前を囲い込み、お前に気付かれないよう愛をお前に少しずつ注ぎ込んだ。どうだ、もう俺の愛なしには耐えられなくないか?」

「キ、キーニ……」


 そうと言われれば、そうだとしか答えようがない。ディーウィットは初めて心から愛したキーニのことすら最初から諦めようとしていた。なのに離れ難くて最後まで別れを言い出せなかったのは、キーニと離れることを心が拒絶していたからだ。


 キーニがニッと笑う。


「これでもう幸せを諦めることはできないぞ? 俺は俺の『ムウェ・ラデ』を幸せにする。諦めて俺に愛されろ」


 キーニは頑なだったディーウィットに理解させる為、実際に自分の目で見て納得できるまで待っていてくれたのだ。まさか既に伴侶にされていたとは驚きだったが、決してディーウィットが嫌がることはせず、ただひたすらに愛を与えてくれていた。


 してやられたりはこのことを指すのだろう。ディーウィットより、この男は一枚も二枚も上手だったということだ。


「は……はは……っ」


 嵌められたと言うのに、ディーウィットの心に広がるのは清々しいまでの歓喜だった。


「とっくに伴侶だったなんて、キーニって人はもう……!」


 キーニの逞しい身体に、腕をきつく巻きつける。


「愛してます、キーニ……! 僕が諦めていた僕を諦めないでいてくれて、ありがとう……!」

「――ああ、俺の『ムウェ・ラデ』」


 二人は互いに隙間なく抱き合うと、皇帝の御前であることも忘れ、熱烈な口づけを交わしたのだった。

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