「幼き僕に帰る夜──」

@kako_

幼き僕に帰る夜。

僕が「過去に戻りたい」と強く思うようになったのには、理由がある。


小学校の頃、好きだった子がいた。

けれど、僕は最後まで気持ちを伝えられなかった。

授業中に彼女の横顔を盗み見ては、心臓が痛いくらいに高鳴る。

休み時間に話しかけようと一歩踏み出すけれど、その足は結局すぐに止まってしまう。


ただ遠くから見ているだけで、卒業の日が来た。

ランドセルを背負った後ろ姿が人波に消えていく。

僕はその場に立ち尽くし、声ひとつかけられないまま――二度と会えなくなった。


大人になった今でも、その後悔は胸の奥に残っている。

仕事帰りの電車の窓に映る自分の顔を見つめると、ふと彼女の笑顔が浮かぶ。

「もし、あのとき勇気を出していたら……」

その言葉は、何年経っても胸の奥で溶けずに残り続けていた。


それだけじゃない。

あの頃やりたかったこと、言えなかったこと、試せなかったこと。

一つひとつを思い出すたび、胸が苦しくなる。

「やり直せるなら、きっと違う自分になれる」

そう思い始めると、もう止まらなくなった。


そして僕は決めた。

――過去に戻ろう、と。


方法を探すため、僕はネットで調べ始めた。

眠れぬ夜、真っ暗な部屋でスマホの光だけが僕の顔を照らす。

検索欄に打ち込む言葉は「過去に戻る方法」「人生やり直す」「魂 時間」……。


動画サイト、まとめ記事、匿名掲示板。

どこを探しても「本当」に戻る手段なんて載っていない。

けれど、繰り返し出てくるのは「明晰夢」というキーワードだった。


「夢を夢と自覚しながら、そこで自由に動ける状態」

画面に映る文章を何度も読み返す。

夢を制御することで意識を過去へ――。

半信半疑だったが、どこか心を掴まれる響きがあった。


さらに、僕はChatGPTに質問を重ねた。

「夢で過去に戻れる方法は?」

「意識を小さい頃の自分に重ねることは可能?」


返ってくる回答を組み合わせ、頭の中で仮説を練り上げていく。

「夢を夢と自覚しながら制御する……そこに過去の記憶を投影できれば?」

点と点が繋がる。


「幼い自分の身体に入り込む。魂がまだ定着していない時期なら、可能かもしれない」


そう考え始めたとき、胸の奥に小さな灯がともった。

荒唐無稽かもしれない。

けれど、これこそ唯一の道だと思えた。


その夜、僕はベッドに横たわった。

部屋の電気を消し、瞼を閉じ、深く呼吸を整える。

「夢だ、これは夢だ」

自分に何度も言い聞かせながら、意識を手放さないよう必死にしがみついた。


暗闇の底へと沈んでいく。

すると、懐かしい風景が立ち上がってきた。

木造の校舎、軋む床板、ノートに走らせた鉛筆の匂い。

窓の外には、あの頃と同じ青空が広がっている。


そこに――幼い頃の僕がいた。

短い足をぶらぶらと揺らしながら、机に座っている。


「……行ける」

胸が震えた。僕は一気に飛び込もうとした。


しかし――ドン、と弾き返された。

視界が白く弾け、身体が宙に投げ出される感覚。

心臓が締め付けられるように痛む。


「はっ……!」

息を吸い込んで跳ね起きたとき、僕は汗まみれで布団に倒れていた。


やはり簡単にはいかない。

けれど、諦める気はなかった。


それから毎晩のように挑戦を繰り返した。

だが、入り込もうとすればするほど、強く拒絶された。

頭痛にのたうち、全身が痺れる夜を越えても、それでも続けた。


そしてある夜。

僕は気づいた。

力づくで押し入るから弾かれるのだ。

無理やりではなく、静かに呼吸を合わせ、波に溶けるように――。


深く息を吐き、心を落ち着けた瞬間、身体がすっと沈み込む。

重なる鼓動。

視界が滲み、幼い手が、確かに僕の手になった。


「……入れた」

鳥肌が立った。


しかし、これで終わりではなかった。

同調には時間がかかった。

数週間……いや、数ヶ月もの間、僕は不安定なまま過ごすことになる。


最初は、自分の声すら不自然だった。

口を開けば、ひどく違和感のある音が響く。

鉛筆を握る指先も震え、紙の上にうまく文字が書けなかった。

周囲の音は遠く、教室の床がふわふわと揺れているように感じた。


このままでは弾き出されるのではないか。

そんな恐怖に、毎日心を削られた。


そして何より怖いのは――未来を変えてしまいそうになる瞬間だ。

「現実の自分に収束できない選択をしてしまえば、すべてが壊れる」

その直感的な理屈が、僕を縛りつけていた。


ある日の放課後。

彼女が教室の前を通り過ぎた。

夕陽に照らされた横顔が、一瞬、僕の目に焼きつく。


心臓が跳ね上がった。

喉が熱くなり、言葉が勝手にこみ上げる。


「……好きだ」


声になりかけた瞬間――全身を貫く閃光のような感覚に襲われた。

駄目だ。言ってはいけない。

まだ時期が早い。未来が壊れてしまう。


僕は必死に唇を噛み、机に顔を伏せた。

汗が滲み、鉛筆を握る手が小刻みに震えていた。


その危機は何度も訪れた。

けれど、そのたびに僕は耐え抜き、乗り越えた。


数ヶ月が過ぎた頃、変化に気づいた。

声は自然に響き、文字も滑らかに書けるようになった。

周囲の音もはっきりと耳に届く。

世界が、確かに「自分のもの」になっていった。


気づけば、もう誰も僕を不自然に見ない。

夢と現実の境目は溶け、完全に同化していた。


ある朝、洗面台の前に立った。

鏡に映るのは幼い顔。

けれど、そこにはもう迷いはなかった。


「……」

小さく息を吸う。


もう弾き飛ばされることはない。

同調は完了したのだ。


胸の奥に、安堵と解放感が広がる。

長い漂流から、ようやく岸にたどり着いたような感覚。


窓の外には、あの頃と同じ青空が広がっていた。

僕は小さな深呼吸をして、静かに呟いた。


「ここから、もう一度やり直そう」


――新しい人生を生き直すために。

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